第24話 空欄
九日目は一日じゅう引継ぎだった。
ミリアは救護所の当番表を街の救護員と見習いのために書き直した。熱の続いている子どもの名前、毎朝包帯を替える人の名前、粥を別にする人の名前。一人ずつ書いていくと紙が三枚になった。
「聖女様がいなくなったら、どうしよう」
見習いが言った。
「包帯、ちゃんと巻けてたよ。ほどけなかった」
「あれは聖女様が見てたから」
「見てないときも巻けてた」
見習いは当番表を抱えて黙って頷いた。
昼過ぎにネイロの寝台を訪ねた。
添え木はまだ外れていない。けれど熱は下がり、顔色も戻っていた。守備隊の兵が一人戸口の椅子に座っている。
「明日、発つよ」
「そうか」
「足はあと十日は無理しないで。添え木はこの街の救護員さんが見てくれる」
ネイロは天井を見ていた。
「家族のことは」
「守備長さんが境界の向こうの神殿に問い合わせてくれてる。まだ返事は来てない」
「話はこれからも聞かれると思う。話すかどうかは、あなたが決めて」
「……ああ」
ネイロは目を閉じた。ミリアは毛布の端を直して部屋を出た。
分院ではベルタが木箱を開けて待っていた。
セレーネが保守記録の写しを取らせてほしいと頼むと、ベルタは条件を三つ並べた。濡らさない。綴じ紐はほどかない。写すのは分院の机の上だけ。セレーネは一つずつ頷き、最後に自分の手袋を見せた。ベルタは鼻を鳴らしたが、追い返しはしなかった。
* * *
夕方、港務所の二階でクラウディアが書類を片づけていた。
机の上には引継ぎの書類が何束も積まれていた。荷揚げ場の点検の手順、階段桟橋の荷役の割り振り、十二日目の便を上流で積み替える段取り。一束ずつ紐で括って帳簿係の青年に渡していく。
机の端に一枚だけ別の紙が置いてあった。
予定表だった。灰門から上流の中継港を経て帝都へ戻る道のり。出発の時刻、宿の名前、馬を替える町。きっちりした字で埋められている。
ところどころ空欄があった。
昼の休憩。夕方の休憩。それから、中継港での半日。欄の下に何も書いていない行がいくつも空けてある。
「これ」
「あなたの分よ」
クラウディアは書類を括る手を止めずに言った。
「書いて。出発までに」
ミリアは予定表を手に取った。前に見た予定表では休憩の下に一行ずつ余白があった。今度は半日だった。
「半日、全部?」
「全部とは言っていないわ」
「空けてあるのに」
「……空けては、あるわね」
ミリアは鉛筆を取り出した。中継港の半日の欄に丸い字で書き込む。
市。服を見る。聖女の服じゃないやつ。
それから少し考えて、その下に書き足した。
似合うものを、クラウディアに見てもらう。
「見るのは構わないけど、正直に言うわよ」
「正直に言って。それで似合ったらちゃんと褒めて」
「似合ったらね」
ミリアは書き終えた予定表を持ったまま、もう一つ尋ねた。
「あなたの寄り道は?」
「何のこと」
「中継港に大きな本屋があるって言ってた」
クラウディアの手が止まった。
ミリアは中継港の半日の欄を指でなぞった。欄の右の端に罫線にくっつくような小さな字で、一行もう書いてあった。最初に見たときは、空いている行の広さにばかり目が行って気づかなかった。
書店。二刻。
「二刻」
「あの本の続きが出ていたら選ぶのに時間がかかるのよ」
「続きは一冊でしょ」
「一冊でも装丁の版が違うのが二種類あるかもしれないわ」
「市は何刻なの」
「書いていないわね」
「半日のうち二刻が本屋なら、市は」
「残りよ」
「残りって、一刻しかないじゃない」
「移動もあるわ」
「移動に半刻かかったら、半刻しかないよ!」
帳簿係の青年が、書類の束を抱えたままそっと部屋を出ていった。
* * *
十日目の朝、二人は灰門を発った。
南門の前には見送りの人が何人か来ていた。洗濯籠の女と、その亭主。救護所の見習い。帳簿係の青年と、倉庫番の孫娘。粥を食べた親子の下の子が母親の後ろから手を振っている。
トビアスは来なかった。水門の点検があるからと伝言だけをよこした。ルイザは港から船頭たちと手を上げていた。ローゼルは門の上から短く頷いた。
ダリオが馬の荷を確かめながらクラウディアの前で足を止めた。
「帝都に着いたら休暇の書類に判をいただけますか」
「妹さんの結婚式でしょう。もう書いてあるわ」
クラウディアは懐から一枚の紙を出した。ダリオは目を丸くして受け取り、それから何度も頭を下げた。
セレーネは別の便で神殿へ戻るという。羊皮紙の写しはベルタの保守記録と突き合わせてから届けると言った。
「あの印のことは私が調べる。あなたたちは、ちゃんと帰ってきなさい」
「帰るよ」
ミリアは手の甲の紋章を袖の上から押さえた。
街道を少し行ったところでミリアは馬を寄せた。
「本屋、一刻半にしない?」
「二刻」
「一刻半なら市も一刻はある」
「装丁が二種類あったらどうするの」
「なかったら?」
「なかったら、早く出てくるわ」
「出てこないよ、絶対」
「どうして分かるの」
「前の宿で栞の位置を何回も確かめてたもん」
クラウディアは答えずに道の端で馬を止めた。懐から予定表を取り出し、鞍の前に広げて鉛筆で何かを書き直している。ミリアも隣に馬を止めて身を乗り出した。
書店。二刻。その「二」に線が引かれ、横に小さく「一刻半」と書いてあった。
その下に、もう一行。
市。一刻半。似合うかどうかは正直に言う。
中継港を発つ時刻も半刻遅く書き直してあった。
「出発、遅らせたの?」
クラウディアは鉛筆の先でその下の空いた行を叩いた。
ミリアは笑って自分の鉛筆を取り出した。
「最後のところ、私も書き足していい?」
「何を」
「似合ったら、褒める」
クラウディアは少し間を置いてから予定表をこちらへ差し出した。
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