第23話 港の列
七の鐘と同時に、最初の船が閘室に入った。
クラウディアは市街港の別岸、階段桟橋の上からそれを見ていた。閘室の扉がゆっくりと閉じ、水位が下がっていく。昨夜、白い水を噴き出した水門と同じ石の壁が、今朝は静かに船を下ろしていた。下流側の扉が開き、小型の貨物船が一隻港へ滑り出てくる。帆に朝日が当たっていた。
桟橋の上から、誰かが声を上げた。続けて何人も。
船は階段桟橋へ舳先を向けた。石段が水面まで延びている。船頭が縄を投げ、桟橋の荷役人が受けた。船腹が石段に寄せられる。
「一番、着いた」
ルイザが帳面に書き込んだ。
石段の上から下まで荷役人が一列に並んでいた。昨日の昼に休ませておいた地元の班と、迂回の歩道へ回すはずだった班。合わせて六十人を二つに分け、交代で使う。船倉から運び出された麦袋が石段を一段ずつ手から手へ渡されていく。起重機なら一度に吊り上げられる量を、人の腕で運び上げる。遅い。けれど止まらなかった。
石段の上では帳簿係の青年が袋を数えていた。数えた袋は荷車に載せられ、坂の上の市の倉庫と港の配給所へ分かれていく。
* * *
昼前に配給所の前に列ができた。
いつもの配給の時刻より早かった。今日の分は備蓄から出る。船の麦が配られるのは明日からだ。それでも人々は港に船が着いたのを見て並びに来ていた。
列の中に救護所で粥を食べた親子がいた。下の子が母親の手を引いて桟橋のほうを指さしている。船を見たいらしい。
その少し後ろに、ミリアがいた。配給の列の脇を歩きながら一人ずつに声をかけている。足を引きずっている老人の肩に手を当て、咳をしている子どもの顔を覗き込む。昨夜はほとんど眠っていないはずだったが、声は明るかった。診たほうがいい人がいると、後ろを歩く救護員を呼んでその場で任せていく。
下の子がミリアを見つけて母親の手を離した。駆け寄ってミリアの腰にしがみつく。ミリアはしゃがんで子どもの頭を撫でた。子どもが桟橋を指さして何か言うと、ミリアは大きく頷いた。それから膝に手をついてゆっくり立ち上がった。
南門の見張りから守備兵が報告に来ていた。
「境界へ向かう街道を下っていった者は、今朝から一人も見ていません」
ローゼルは頷いて列のほうを見た。
配給所の前の列は坂の下まで続いていた。
* * *
二隻目の船が着いたのは、昼を過ぎてからだった。
荷揚げの交代の合間に荷役人たちが石段の上で休んでいた。その中に洗濯籠の女の亭主がいた。大きな体を丸めて港の向こう岸を見ている。
向こう岸の低い荷揚げ場は泥に埋まっていた。
水はもう引いている。けれど軌条も起重機の台座も、川底から押し上げられた灰色の泥をかぶったままだった。三基の起重機のうち一基は台座ごと傾いていた。昨日の夕方、男が磨いていた鉤が、泥の中から半分だけ覗いている。
クラウディアは男の隣へ行った。
「あの荷揚げ場を沈めたのは、私が言い出したことよ」
男は向こう岸を見たまましばらく黙っていた。
「班長は、昨夜の最後の舟で戻った。あんたが水を逃がしたからだって聞いた」
「ええ」
「礼は言うよ」
男はそう言って、それから首を振った。
「言うけどさ。あそこは俺たちの仕事場だったんだ」
「分かってる」
クラウディアは向こう岸を見た。
「台座と軌条を洗って、全部点検し直す。早くて、ひと月。そのあいだ荷はここで揚げる。人の手で運ぶから、人手は今日と同じだけ要る。あなたたちの仕事はなくならない。でも、楽な仕事ではなくなる」
「起重機は」
「傾いた一基は組み直しになるわ。費用は帝国の補給枠に申し立てる。通るかどうかはまだ約束できない」
男は長い息を吐いた。
「……正直だな、あんた」
「正直に言わないと、後でもっと怒るでしょう」
「今も怒ってるよ」
男は立ち上がった。交代の声がかかっていた。石段を下りかけて一度だけ振り返る。
「班長が戻ったのは本当に嬉しいんだ」
「ええ」
男は石段を下りていった。
最後の麦袋が石段を上がったのは十五の鐘の少し前だった。
ルイザが帳面を閉じた。帳簿係の青年が数を読み上げ、トビアスが頷いた。二隻の船は階段桟橋の脇に並べて繋がれた。十二日目に来るはずの大きな便は、上流で積み替えてこの二隻で運び入れることになる。その段取りをクラウディアは港務所と夕方までに詰めた。
ローゼルが港務所の二階に押収した書類の写しを持ってきた。工作員を率いていた男が持っていた命令の控えだった。原本は守備隊が預かり、写しを市の記録係と監察官に回す。誰の指図なのかは輸送の記録や他の証言と突き合わせてからになる。
クラウディアは写しを一枚だけ見て、ローゼルに返した。三本線に丸の焼印の写しと、同じ箱に入れてもらった。
* * *
日が暮れてから、救護所の炊事係がクラウディアを呼びに来た。
奥の物置に湯気の立つ椀が二つ置いてあった。麦の粥に、塩漬けの魚をほぐしたものと刻んだ青菜が入っている。
「聖女様と補給官様の分。取っておいたんです。お二人とも、昼に何も食べてないでしょう」
炊事係はそれだけ言って出ていった。
ミリアはもう木箱に座っていた。椀を両手で持って湯気に顔を近づけている。物置の椅子は相変わらず一脚しかなかった。
「座って。冷めるよ」
「冷めかけが一番甘いのは、茶の話よ」
「粥は熱いほうがおいしいの」
クラウディアは椅子に座り、椀を取った。一口食べると塩気が舌に広がった。思っていたより、ずっと空腹だった。
二人とも、しばらく何も言わずに食べた。
ミリアが先に椀を空にした。底に残った青菜を匙で集めながら窓の外を見る。橋のあった場所にまだ守備隊の松明が立っていた。橋は落ちたままだ。荷揚げ場も泥の中にある。
「明日は、橋の話だね」
「明日は、引継ぎの話よ」
「橋も引き継ぐの?」
「引き継ぐのよ。私たちが直すわけじゃないもの」
ミリアは匙を置いてふうと息を吐いた。
「……おいしかった」
「ええ」
物置の戸を叩く音がした。
「入ってもいいかしら」
セレーネだった。旅装のまま肩に書類鞄を提げている。神殿からの別便で今日の昼に着いたらしい。
「セレーネ!」
ミリアが立ち上がった。セレーネは干し杏の包みを差し出して、ミリアが受け取るのを見届けてから鞄を開けた。
「記録の確認に来たのよ。ついでに、これを持ってきた」
取り出したのは、古い羊皮紙の写しだった。神殿の書庫の奥にあった文書だという。何かの設備の図らしい線が引かれ、端に小さな印が描かれている。
円の中で、二本の線が交わっていた。
クラウディアは手袋の上から自分の左手の甲に触れた。
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