第22話 帰ってくる段取り
放水の音が収まるまで、半刻ほどかかった。
その間、ミリアは斜路の上の広場で手を動かし続けた。最後に上がってきた八人のうち二人が手首と膝を擦りむいていた。救護所から送った二人の救護員は、ずぶ濡れのまま自分で毛布を被り、真っ先に他の人の手当てに戻ろうとした。ミリアはその二人を火の前に座らせた。
「今夜はもう、あなたたちは患者」
「でも聖女様」
「患者は座ってるの」
二人は顔を見合わせて座った。
肩を射られた守備兵の傷を縫い終えると、ミリアは街の救護員に広場を任せた。止血と保温は済んでいる。残っているのは朝まで様子を見る仕事だった。
見習いが水の入った湯呑みを差し出した。ミリアは一息に飲んで、それから焼き菓子の残りを一つ齧った。座ると膝が自分のものではないように重かった。
隔離室の核が、まだ残っている。
* * *
トビアスが呼びに来たのは、九時の鐘の少し前だった。
放水で水位が下がり、閘室の脇の隔離室へ下りる階段が水から出ていた。職人たちが仮の遮水板を立て、足場の板を渡してある。トビアスは自分で一枚ずつ板を踏み、遮水板の継ぎ目を灯りで照らしてからミリアを下ろした。
隔離室の扉を開けると、湿った泥の匂いがした。肌に触れる空気が階段の上よりずっと冷たい。
四日目に覗き窓から見たときは、水の底に人の頭ほどの塊が沈んでいるだけだった。今は違った。塊は樽ほどの大きさに膨らみ、床にべったりと張りついている。その周りから黒い泥が放水の流れに引きずられたように筋を引いて広がっていた。筋の先は取水扉の縁まで届いていた。
トビアスが低く唸った。
「朝に船を通すくらいなら持つと言ったのは、核が扉の奥で大人しくしとったときの話だ」
灯りを取水扉の縁へ向ける。黒い泥が扉と石の継ぎ目に入り込んでいた。
「このまま朝に水を戻したら、こいつは直したばかりの取水口へ流れ込む。そうなったら、また何日も船は通せん」
ミリアは床の泥を見下ろした。
指を近づけなくても分かった。四日目の取水口の泥より、ずっと冷たい。
階段の上に、クラウディアが来ていた。
隔離室までは下りてこない。階段の途中で足を止め、灯りの中の床を見ている。
「今夜はやめて」
クラウディアが言った。
「四日目の倍以上あるわ。あなたは今夜、もう二十八人を受けてる」
ミリアはすぐには答えなかった。大丈夫、と言うのは簡単だった。けれど自分の膝が重いことは、自分が一番知っている。
「やめたら、どうなるの」
ミリアはトビアスに訊いた。
「遮水板はできるだけ持たせる。だが仮のもんだ。一晩持つとは言えん。朝までに水が回り込めば、泥は取水扉を越える。通船は延びる。何日延びるかは分からん」
「迂回の歩道で運べる分だけでは十日目の終わりには配給が尽きるわ」
クラウディアが言った。
「減らせば延ばせる。でも十二日目の便も、同じ水門で止まる」
ミリアは頷いた。それから階段の上のクラウディアを見上げた。
「一度に全部はやらない。外側の筋から区画を分けて、真ん中の塊は最後。一区画ごとに泥が引いたか確かめる」
「止めるのは」
「一区画やっても泥が引かなかったとき。手が震えたり目の端が暗くなったりしたとき。あなたが呼んで、私の返事が遅れたとき。どれか一つでも出たら、そこでやめる。朝まで再開しない。泥が扉を越えても」
クラウディアは階段の手すりを握っていた。灯りが揺れてその指が白く見えた。
長い間、何も言わなかった。
「……行く前に、帰ってこられる段取りを組むわ」
灯りの下でクラウディアの口元がわずかに歪んだ。
「最初の日にそう言ったでしょう」
「言った。組んで」
クラウディアは階段の上から手短に決めていった。入口に救護員を二人と担架。足場の端に補助の職人を一人。泥を掻き出すのは職人で、ミリアは浄化だけをする。クラウディア自身は入口に立ち、間を置いて名前を呼ぶ。返事がなければ、その場で担架を入れる。
「疲れているなら疲れていると言って」
ミリアは少し笑った。
「疲れてる」
クラウディアの手が帳面の上で止まった。
「だから呼んで。ちゃんと答えるから」
最初の区画は取水扉の縁だった。
ミリアは足場の板に膝をつき、扉の継ぎ目に入り込んだ泥へ両手をかざした。冷たさが掌を刺す。それを押し返すように力を流すと継ぎ目の黒い艶が少しずつ抜けていった。職人が鏝で土の色になった泥を掻き出し、桶に落とす。
「ミリア」
入口からクラウディアの声がした。
「いるよ」
帳面に何か書く音がした。
「一区画、終わった。引いてる」
「水を飲んで」
見習いが湯呑みを差し出した。ミリアは飲んで息を吐いた。手は震えていない。灯りの縁も暗くない。次の区画へ移った。
床の筋を外側から一本ずつ。
「ミリア」
「いるよ」
二区画目。泥が引く。水を飲む。三区画目。
「ミリア」
「いる。三つ目、終わった。引いてる」
職人たちが黙々と桶を運んでいく。足場の端で補助の職人がミリアの背中から目を離さなかった。
最後に、樽ほどの塊が残った。
ミリアは塊の前に膝をついた。床に張りついた黒い表面が灯りを吸い込んでいる。両手をかざすと、これまでの区画とは比べものにならない冷たさが返ってきた。
すぐには力を流さなかった。掌を塊の上でゆっくり動かして冷たさの濃いところを探す。床に張りついた底が一番冷たい。その次が取水扉に向いた側だった。扉まで伸びていた筋はそちらから出ていた。
「扉の側からやる」
ミリアは振り返らずに言った。
「途中でやめることになっても、扉の側さえ済んでいれば、朝の水で流れ込む分は減るから」
職人が鏝を持って塊の扉側へ回った。
「私が手をかざしたところから、色が変わる。変わった端だけ取って。まだ黒いところに鏝を入れないで。崩すと散るから」
「分かりました」
ミリアは扉側の縁に両手をかざし、力を流した。
黒が剥がれる。剥がれた端から土の色に変わり、職人の鏝がすぐに掻き取る。掻き取った跡に奥の黒がまた覗く。そこへまた手をかざす。外側の区画とは違った。押し返した分だけ奥から冷たさが寄ってくる。
前へかがむ姿勢を続けていると肩が少しずつ落ちてきた。肩が落ちると手の位置が下がり、力の届き方がぶれる。
「後ろから肩を支えてもらえますか。手の高さを変えたくないの」
補助の職人が足場の端から寄ってきた。ミリアの背中に膝を当て、両肩を後ろから支える。大きな手だった。それで姿勢が決まった。
「ミリア」
「いるよ。扉の側、済んだ。次は上から」
返事は呼ばれてすぐに出た。帳面に書く音がした。
塊の上から少しずつ下へ。ミリアの手と職人の鏝が同じ速さで進んでいく。ミリアが手を止めれば職人も止まり、職人が桶を替えるあいだにミリアは息を吸った。
半分まで来たところで、ミリアは手を引いた。
「半分。水を飲む」
見習いが湯呑みを差し出した。肩を支えられたまま一口ずつ飲んだ。手を目の前で開いて閉じる。震えていない。灯りの縁も暗くない。
「ミリア」
「いるよ。続ける」
残りは、床に張りついた底だった。
手をかざすと、掌から腕へ冷たさが這い上がってきた。ミリアは息を長く吐いて、力を細く途切れないように流した。
職人が石の継ぎ目に鏝を沿わせて最後の泥を剥がした。
灯りの下に、濡れた石の床が出た。
ミリアは手を床について、しばらく動かなかった。肩を支えていた職人の手がそっと離れた。
「ミリア」
「いるよ」
ミリアは顔を上げた。
「終わった。全部、引いた」
入口で帳面を閉じる音がした。
* * *
隔離室を出ると、十一時の鐘が鳴っていた。
階段を上がりきったところでクラウディアが待っていた。ミリアの顔を見て、それから足元を見た。
「靴」
「え?」
「泥だらけよ。そのまま救護所へ入らないで。見習いが掃除するのよ」
「……今それ言う?」
「今言わないと、あなたはそのまま入るもの」
ミリアは靴を脱いだ。裸足の足の裏に石の床が冷たかった。
クラウディアが、帳面と一緒に抱えていた布の上履きをミリアの足元に置いた。救護所の見習いたちが履いているものだった。
「……最初から持ってたの?」
「隔離室に下りた靴がきれいなまま戻るわけないでしょう」
「返事、ほとんど『いるよ』だったわね」
「他に何て言うの」
「三つ目だけ『いる』だった」
「数えてたの?」
「記録したのよ」
クラウディアは帳面を脇に挟んだ。ミリアが上履きに足を入れるのを待ってから歩き出す。いつもより、少し遅い歩き方だった。
その夜、職人たちが交代で試運転を続けた。
取水扉が上がり、きれいな水が取水口を抜けていく。操作部の歯車が噛み合い、閘室の扉が低い音を立てて動いた。漏水はない。トビアスは計器の前で一晩じゅう起きていたらしい。
ミリアは救護所の奥の寝台で毛布にくるまって少し眠った。
夜明け前に目を覚ますと窓の外がまだ暗かった。高台の見張り台に灯りが上がっていくのが見えた。
上流へ向けて、通船の灯が一つ、二つと灯った。
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