第17話 明日はここへ
六日目の朝、旧倉庫街の低地から最後の荷車が坂を上っていった。
荷台には板が敷いてあった。その上に腰の悪い老女が毛布にくるまって横になっている。荷車の脇を歩く息子がときどき荷台を覗き込んだ。
坂の中ほどの踊り場で荷車は止まった。ミリアが前もって頼んでおいた場所だ。
「ここで一回休むよ」
ミリアが声をかけると老女は毛布から顔を出した。
「休むほど揺れとらんよ。板のおかげで」
「それでも休むの。上に着いてから痛くなったら困るでしょ」
息子が水筒を差し出した。老女は一口飲んで坂の下を振り返った。低地の家々の屋根が並んでいる。人のいなくなった屋根だった。
「また戻れるかね」
「水門が直って、危なくなくなったら」
老女は頷いて毛布の中へ顔を戻した。
分院の下の階には、老女のための部屋が空けてあった。寝台の脇の窓から港が見える。
これで低地の百八十人は、みんな高台へ移った。
救護所へ戻ると見習いと街の救護員が二人で列を回していた。
擦り傷、軽い咳、腹痛。ミリアの手を待たなくても済む人たちは二人が手当てして帰していく。ミリアは奥の寝台で熱の高い子どもを一人診ただけだった。
昨日から当番表の自分の欄を減らしていた。隔離室に残っている黒泥の核は水を抜いてからでなければ近づけない。そのときに使う力を今のうちに取っておくためだった。
手が空くと落ち着かなかった。ミリアは見習いの包帯の巻き方を見て、口を出しかけてやめた。巻き方は少し違ったが、ほどけそうにはなかった。
* * *
七日目の昼過ぎ、閘室の扉が動いた。
トビアスの合図で若い技師たちが把手を回すと、上の操作部の歯車が噛み合い、閘室の扉がゆっくりと持ち上がった。水が流れ込み、石の壁に沿って水位が上がっていく。新しい軸受が低い音を立てていた。
トビアス本人は少し離れた木箱に腰を下ろしていた。
「見に行かないの?」
「あいつらが回しとる。わしが行ったら、あいつらはわしの顔を見る」
トビアスは懐から煙管を出して火をつけずに咥えた。
「隔離室の核は扉で閉じ込めてある。明日の朝に船を通すくらいなら持つ。だが閉じ込めたまま水を回し続けたら、いずれ滲み出る。水を抜く段取りがついたら、聖女様に頼むことになる」
「そのつもりで力は取ってあるよ」
「なら、いい」
夕方近く上流から伝令が駆け込んできた。
小型の食料船が二隻、上流の待機桟橋に着いた。明日の朝、通船の合図を待って入港する。
* * *
港の低い荷揚げ場では荷役人たちが起重機の点検をしていた。
三基の起重機はもう腕を上げたまま止まってはいなかった。鎖に油が差され、荷車の軌条からは泥が掃き出されている。クラウディアがこの数日で段取りを組み、荷役人たちが手を動かした場所だった。
ミリアは荷役人たちが焚いていた火を借りて湯を沸かした。救護所の湯ではない。クラウディアが薬臭いと言わない湯だ。持ってきた茶葉を鍋で煮出し、欠けた湯呑みに注いで回った。
ルイザが一口飲んで目を細めた。
「聖女様の茶か。ありがたいね」
「ありがたいのは茶葉のほうだよ。クラウディアのだから」
湯呑みを受け取ったクラウディアは一口飲んで眉を寄せた。
「煮出しすぎよ。渋い」
「渋いほうが目が覚めるでしょ」
「目を覚ますための茶葉じゃないの。これは冷めかけが甘くなる茶葉で」
「じゃあ次は自分で淹れて」
「そうするわ」
クラウディアは本当に立ち上がった。湯呑みを置き、書類箱から缶を取り出し、火のそばの鍋へ向かう。
ミリアはその手から缶を取り上げた。
「今じゃない」
「今淹れれば正しい味が分かるわ」
「今淹れたら、皆の休憩が終わっちゃう。次って言ったの」
クラウディアは缶を取り返そうとして、ミリアが背中に隠したので諦めた。座り直し、渋い茶をもう一口飲んだ。今度は何も言わなかった。
ルイザが声を出さずに笑っていた。
起重機の下では大柄な荷役人が鉤を布で磨いていた。救護所で腕を診た、洗濯籠の女の亭主だった。
「腕はどう?」
「薪割りはできるよ。聖女様のおかげで、毎朝割らされとる」
男は鉤を持ち上げ、夕日にかざした。
「明日はここへ船が戻る」
それだけ言って、また鉤を磨き始めた。手つきが救護所で腕を差し出したときよりずっと軽かった。
ミリアは湯呑みを両手で持ったまま川のほうを見た。上流の峡谷の向こうに二隻の船が止まっているはずだった。
「ねえ。ここが終わったら、何したい?」
隣のクラウディアに訊くと少し間があった。
「帝都に戻って報告書を書くわ」
「その前。帰り道で」
「……上流の街に大きな本屋があるの。あの本の続きが出ているかもしれない」
「私、市が見たい。服とか。聖女の服じゃないやつ」
「似合うものがあるといいわね」
「あるよ。探すんだから」
クラウディアは湯呑みを口元へ運んで、渋い、と小さく言った。
* * *
日が沈むころトビアスが立ち上がった。
「最後の点検だ。作業区へ戻るぞ」
技師と作業員たちが道具を担ぎ、水門の脇の作業区へ向かっていく。橋を渡った先、石壁に囲まれた作業棚で、明日の朝の通船に向けた仕上げが残っていた。守備隊の警備が何人かついていく。
ミリアは救護所から救護員を二人つけた。夜の作業で怪我をする人が出るかもしれない。
「何かあったら、すぐ上へ知らせて」
「はい」
二人が橋を渡っていくのを見送って、ミリアは坂を上り始めた。救護所の窓に灯りが点いている。
坂の途中で鐘が鳴った。
南門の見張り台ではなかった。水門のほうからだった。続けて三度、四度。夕方の港を鐘の音が叩き続けた。
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