第16話 号令は一人
水運組合の詰所は港の外れの桟橋の上にあった。
ルイザ・ベックは四十を少し過ぎた日焼けした女で、袖をまくった腕に古い縄の跡がいくつも残っていた。クラウディアが卓に広げた水門の図を腕を組んだまま見下ろしている。
「作業区の橋が落ちたら内水路を舟で渡って人を出す。そういう話だね」
「ええ。舟を四艘と、船頭を四人借りたいの」
「借りるのはいい。三つ訊くよ」
ルイザは指を三本立てた。舟を出すとき岸は誰が守るか。戻るのは誰が決めるか。舟が壊れたり船頭が怪我をしたりしたら、誰が持つか。
クラウディアは順に答えた。岸はダリオと守備隊が守り、射手を両側に置くとローゼルが約束した。舟の修理と、怪我をした船頭の治るまでの稼ぎは帝国の補給枠で払う。
「戻るのは船頭が決めて。水が上がる、岸の援護が途切れる、舟が傷む。どれか一つでも起きたら引き返していい。こちらからも赤い灯を回して、戻れと合図する」
クラウディアは用意してきた紙を卓に置いた。ルイザはそれを手に取り、上から下まで一度読んだ。
「……あんた、断られる前に答えを全部持ってきたね」
「訊かれると思ったもの」
「なら話は早い」
ルイザは紙を畳んで懐へ入れた。
「今日の午後、訓練をやる。舟に乗る側の役もいる。あんたたちも来な」
* * *
訓練は救出に使う内水路の桟橋で行われた。
内水路は本流から石壁で隔てられた細い水路で、水面は凪いでいた。向こう岸の乗降場まで舟で行けばすぐの距離だ。船頭の見習いたちが負傷者の役をして乗降場に並んでいる。足に布を巻いて支えがないと歩けないという役の者もいた。
ミリアは乗る側の手伝い、クラウディアは岸で合図の灯を扱う役に回された。
白い灯を一度上げれば舟を出す。赤を二度振ればその場で待つ。赤を大きく回せばすぐに戻る。ルイザが一度だけ教えた合図を、クラウディアはその場で復唱してみせた。順番を入れ替えて訊き返したルイザに迷わず答える。
「物覚えのいい補給官だ」
クラウディアは返事をせずに灯の把手を持ち直した。少しだけ顎が上がっていた。
最初は同じ桟橋で乗り降りだけを練習した。ミリアは見習いの一人を支えたまま揺れる舟へ軽々と乗り移った。片足を舟の真ん中へ置き、腰を落として相手の体を自分の膝で受ける。舟はほとんど傾かなかった。
「上手いね、聖女様」
年配の船頭が言った。ゲルトという名で、内水路で四十年舟を出しているという。
「救護所で寝台から人を起こすのと同じだから」
ミリアは得意そうに振り返った。
「クラウディアもやってみて。真ん中に足を置いて、腰を低く」
「私は灯の係よ」
「乗る練習もしておいたほうがいいよ。もしものとき」
クラウディアは桟橋の端から舟を見下ろした。舟は小さく揺れていた。片足を下ろしかけたところで舟が足の下から逃げていく。クラウディアは足を戻した。
「……真ん中に置いたわ」
「置く前に戻したでしょ」
「様子を見たのよ」
ミリアが声を上げて笑った。
* * *
二本目からはミリアが見習いたちと向こう岸の乗降場へ渡り、本番と同じ流れで通すことになった。
舟が向こう岸の乗降場へ着き、見習いたちが順に乗り込む。足に布を巻いた見習いをミリアが支えて舟へ移す。クラウディアは岸で灯を構えていた。
まだ二人目が乗りかけているところでゲルトが竿を構えた。出るつもりだ、とクラウディアは思った。
「待って!」
クラウディアが岸から叫んだ。ゲルトに向けた声だった。
乗りかけていた見習いがその声で足を止めた。片足を舟に、片足を乗降場に残したまま固まる。
「乗って! 止まらないで、そのまま!」
今度はミリアが叫んだ。見習いに向けた声だった。
ゲルトが竿を突きかけて、また止めた。見習いはどちらの声に従えばいいのか分からない顔で二人の間に目を往復させている。
「止め!」
ゲルトの声が水路に響いた。
ゲルトは舟の艫に立ったまま二人を順に指差した。
「誰に言っとる。夜の水の上じゃ、誰の声かも、誰に向けた声かも分からん。客に声をかけるのは一人。船頭には灯だけでいい」
クラウディアは灯を見下ろした。ミリアは見習いの背を支えて舟へ乗せ切った。
「……出ようとしたんじゃないの?」
「舟を岸に押さえとっただけだ。出るときは灯を見る」
クラウディアは灯を握り直した。
「じゃあ、声は私。灯はあなた」
向こう岸からミリアが言った。
「灯なら間違えないわ」
「言い方が偉そう」
「事実よ」
三本目。
クラウディアは岸で灯を構え、口を閉じていた。
「腰を落として。そう。次の人、肩に手を置いて」
向こう岸でミリアが見習いの脇に入り、一人ずつ舟へ移していく。次の見習いもその次も、ミリアの手が肩に触れると迷わずに腰を落とした。
五人が乗り終わると、ミリアは自分も舳先に乗り込み、岸のクラウディアへ大きく手を上げた。
クラウディアは白い灯を一度上げた。
舟が乗降場を離れた。水路を渡り、こちらの桟橋へ滑ってくる。途中でクラウディアが赤を二度振ると舟はぴたりと止まった。もう一度白を上げるとまた進んだ。
舟が桟橋へ着いた。ミリアが先に跳び移り、見習いを一人ずつ降ろしていく。足に布を巻いた見習いが降りぎわにミリアへ頭を下げた。
ルイザが桟橋の上で腕を組んでいた。
「息が合ってきたね」
「訓練どおりにやっただけよ」
クラウディアは灯を下ろした。
「客への声を一人にして、船頭には灯だけにした。客が迷わなければ、そのぶん」
「説明、長いね」
ミリアが横から言った。笑いを堪えている顔だった。
「長くないわ。まだ二つしか言っていない」
「三つ目に入るところだったよ」
ゲルトが艫で笑った。ルイザも口元を手で隠していた。
* * *
夕方、港務所の二階でクラウディアは上流の中継港への書状を書き上げた。
トビアスの日程表、鍛冶屋の受取書、グラーフ商会の軸受の納品書。それらを横に並べ、最後にもう一度だけ数字を確かめる。六日目、遅くとも七日目には水門が通る。船は六日目の昼に上流を出れば、七日目の夕方に待機桟橋へ着く。
仮押さえしていた食料の最終の発注だった。
その横に迂回の歩道から届いた帳面を置いた。今朝から組合の荷運び四十人が、上流の村が出してくれた豆と干し魚を背負って峡谷を越えている。一日がかりで運び込めた量は街の一日分の五分の一にもならなかった。それでも道は使える。待機桟橋に船が着いて水門が通らなければ、同じ四十人が船の荷を運ぶことになる。
封をして、早馬の係に渡す。窓の外で蹄の音が遠ざかっていった。
ミリアは隣の机で救護所の明日の当番表を書いていた。自分の名前の欄が昨日より少なくなっている。
「船、来るね」
「来るわ。水門が通ればね」
「通るよ。軸受、届いたんだから」
クラウディアは答えずにペンを置いた。窓の外の内水路の桟橋に、四艘の舟が並べて繋がれていた。
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