↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と聖女は、世界を救う方法で喧嘩する  作者: 白川 透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/24

第14話 砂の混じらない泥

 昼過ぎ、トビアスは取水口の上流側の扉を半分まで下ろさせた。


 水の音が小さくなり、取水口の水位がゆっくり下がっていく。格子の奥の石の床が見えてきたところでミリアは縄梯子を下りた。


 泥の深いところは膝まであった。床の真ん中だけは今朝掻き出した跡で石が覗いている。灯りを掲げると壁の泥と床の泥で色が違うのが分かった。


 壁にこびりついているのは灰色がかった泥だった。掬うと指の間で砂がざらつく。川の水と一緒に何日も流され、上から上から積もったものだ。


 その石の上に黒い泥が筋になって溜まっていた。こちらは砂が混じっていない。指を近づけると、古井戸のときと同じ、皮膚が粟立つような冷たさがあった。


 ミリアは筋を目で辿った。筋は床を横切り、壁の低いところにある四角い鉄蓋まで続いていた。


「トビアスさん。あの蓋、何?」

「保守口だ。取水口の裏の管を掃除するときに開ける」


 トビアスが梯子を下りてきて鉄蓋の前に屈んだ。蓋の縁を指でなぞり、それから四隅のボルトを順に叩いた。


「……新しい」

「新しい?」

「このボルトはわしが替えたもんじゃない。ここは十年開けとらん」


 鉄蓋の縁から黒い泥が糸のように細く垂れていた。


* * *


 ボルトを外すのに四半刻かかった。


 蓋を開けると、奥の管に黒い蝋で封をした壺が詰め込まれていた。三つ。どれも管の太さにぴったり合うように横倒しにされ、蝋の蓋には釘で開けたような小さな穴がいくつも並んでいる。泥はその穴から少しずつ滲み出していた。


「三つ」


 ミリアは呟いた。ネイロは中を見るなと言われていた。三回運んで、三回とも置いて帰った。


「一度に流せば、すぐ見つかる。少しずつ漏らせば、上流から流れてきた泥と区別がつかん」


 トビアスが壺の一つに手袋をかけた。


「手で抜いていいか」

「触る前に少し待って」


 ミリアは壺の口に手をかざした。蝋の穴の周りに力を流すと、縁に盛り上がった泥から黒い艶が抜け、ただの土の色に変わった。壺の中までは届かない。抜くあいだ縁の泥が手に付かなければそれでいい。


「今」


 トビアスと若い技師が壺を一つずつ引き抜き、上で待つ荷役人の桶へ渡していった。三つ目が抜けたところでトビアスは管の奥へ木の栓を打ち込んだ。


 梯子の脇の足場からクラウディアが覗いていた。外したボルトを布に包み、刻印を帳面に書き写している。


「同じ刻印が四本とも入っているわ。あとで調べる」

「売った店まで分かる?」

「この太さなら扱う店は多くないわ」


* * *


 床の黒い泥を浄化するのはミリアの仕事だった。


 保守口から流れ出た筋は、思ったより長かった。ミリアは床に膝をつき、筋の端から順に両手をかざしていった。泥に触れなくても冷たさが掌に返ってくる。それを押し返すように力を流すと、黒い艶が少しずつ抜け、ただの濡れた土の色に変わっていく。


「クラウディア、灯り。足場からもっと下」

「これでいい?」

「そこで止めて。……もう少し右」


 灯りが右へ動いた。


「そのまま」


 クラウディアは足場に膝をついて身を乗り出したまま、灯りを差し出し続けた。


 筋の最後の端が土の色に変わると、ミリアは息を吐いて手を引いた。指先がじんと痺れている。今日はここまでだった。明日も救護所の列は来る。


 壁の灰色の泥は荷役人たちが鋤で掻き出していった。こちらは浄化しなくても掻けば落ちる。


 縄梯子を上がるとクラウディアが灯りを下ろして腕を振っていた。


「人を灯り台みたいに使って」

「上手だったよ。全然揺れなかった」

「揺らさないように腕が攣りそうだったのよ」

「じゃあ次は私が持つね」

「次があるの?」


 トビアスが咳払いをした。


「試すぞ」


 上流側の扉が少しずつ上がった。


 水が取水口へ流れ込み、格子を抜けていく。濁ってはいるが、黒くはない。若い技師が操作部の把手を握り、トビアスを見た。


「お前が回せ」


 若い技師が把手を回した。取水口の脇の小さな歯車が軋みながら一つ、二つと歯を進める。その動きが鎖を伝って奥へ届き、止まっていた計器の針がわずかに持ち上がった。


 荷役人の一人が鋤を持ったまま声を上げた。


「動いた」

「取水口の分だけだ。閘室の奥の隔離室には泥の核がまだ残っとる」


 トビアスはそう言いながら針から目を離さなかった。


「どこ?」


 ミリアが訊くと、トビアスは閘室の脇の鉄の扉を顎で示した。扉の上に小さな覗き窓が開いている。


 ミリアは灯りを借りて覗き窓に近づけた。水の底に黒い塊が沈んでいた。人の頭ほどの大きさで、その周りだけ墨を落としたように水が濁っている。


「扉を閉めて外へ出んようにしてある。水を抜かんと近づけん」


 ミリアは覗き窓から顔を離した。指先の痺れがまだ残っていた。


* * *


 片づけの途中で、トビアスが二人を水門の反対側へ連れていった。


 石の壁に錆びた大きな把手のついた操作口があった。その先の水路は土砂で半分埋まり、雑草が生えている。水路は斜面を下り、港の低い荷揚げ場の脇をかすめて、その向こうの古い池へ続いていた。


「旧排水路だ。ベルタ婆さんの図に描いてあったやつだ」


 トビアスは操作口の把手に手を置いた。


「上流の水が上がりすぎたとき、ここを開ければ少しだけ逃がせる。放水口ほどの力はない。時間を稼ぐだけだ」

「なら、掃除しておけばいいんじゃないの」

「掃除はする。だが、開けたら水はあそこを通る」


 トビアスが顎で示した先に、港の低い荷揚げ場があった。木組みの起重機が三基、腕を上げたまま止まっている。船が戻ったら最初に動かす場所だった。


「起重機の台座も荷車の軌条も、泥をかぶる。一度通したら、しばらく荷は揚げられん。だから、よほどのことがない限り開けん」


 ミリアは隣を見た。クラウディアが口を曲げていた。あの荷揚げ場を船の入港に間に合わせる段取りを、昨日から組んでいるのはクラウディアだった。


「よほどのことが起きないようにしてちょうだい」

「わしに言うな」


 トビアスは把手から手を離し、帳面を取り出した。


「それより、上の操作部だ。取水口が動いても上が動かなきゃ閘室は開かん。軸受が四つ要る」

「水門の予備は?」


 今朝、保守区画の棚で見た包みのことだった。


「測らせた。四つとも寸法は合う。だが削り直しに三日かかる」

「新しいのは」

「港の資材庫にはない。グラーフ商会の倉庫にはあるだろう」


 トビアスは帳面を閉じた。


「あの親父、昨日から値を三倍にしとる」

お読みいただきありがとうございます!

「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・リアクションをいただけると嬉しいです。

Xでも更新情報などを発信しています。

よろしければこちらもフォローいただけると嬉しいです!

https://x.com/st_shosetsu

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。