第14話 砂の混じらない泥
昼過ぎ、トビアスは取水口の上流側の扉を半分まで下ろさせた。
水の音が小さくなり、取水口の水位がゆっくり下がっていく。格子の奥の石の床が見えてきたところでミリアは縄梯子を下りた。
泥の深いところは膝まであった。床の真ん中だけは今朝掻き出した跡で石が覗いている。灯りを掲げると壁の泥と床の泥で色が違うのが分かった。
壁にこびりついているのは灰色がかった泥だった。掬うと指の間で砂がざらつく。川の水と一緒に何日も流され、上から上から積もったものだ。
その石の上に黒い泥が筋になって溜まっていた。こちらは砂が混じっていない。指を近づけると、古井戸のときと同じ、皮膚が粟立つような冷たさがあった。
ミリアは筋を目で辿った。筋は床を横切り、壁の低いところにある四角い鉄蓋まで続いていた。
「トビアスさん。あの蓋、何?」
「保守口だ。取水口の裏の管を掃除するときに開ける」
トビアスが梯子を下りてきて鉄蓋の前に屈んだ。蓋の縁を指でなぞり、それから四隅のボルトを順に叩いた。
「……新しい」
「新しい?」
「このボルトはわしが替えたもんじゃない。ここは十年開けとらん」
鉄蓋の縁から黒い泥が糸のように細く垂れていた。
* * *
ボルトを外すのに四半刻かかった。
蓋を開けると、奥の管に黒い蝋で封をした壺が詰め込まれていた。三つ。どれも管の太さにぴったり合うように横倒しにされ、蝋の蓋には釘で開けたような小さな穴がいくつも並んでいる。泥はその穴から少しずつ滲み出していた。
「三つ」
ミリアは呟いた。ネイロは中を見るなと言われていた。三回運んで、三回とも置いて帰った。
「一度に流せば、すぐ見つかる。少しずつ漏らせば、上流から流れてきた泥と区別がつかん」
トビアスが壺の一つに手袋をかけた。
「手で抜いていいか」
「触る前に少し待って」
ミリアは壺の口に手をかざした。蝋の穴の周りに力を流すと、縁に盛り上がった泥から黒い艶が抜け、ただの土の色に変わった。壺の中までは届かない。抜くあいだ縁の泥が手に付かなければそれでいい。
「今」
トビアスと若い技師が壺を一つずつ引き抜き、上で待つ荷役人の桶へ渡していった。三つ目が抜けたところでトビアスは管の奥へ木の栓を打ち込んだ。
梯子の脇の足場からクラウディアが覗いていた。外したボルトを布に包み、刻印を帳面に書き写している。
「同じ刻印が四本とも入っているわ。あとで調べる」
「売った店まで分かる?」
「この太さなら扱う店は多くないわ」
* * *
床の黒い泥を浄化するのはミリアの仕事だった。
保守口から流れ出た筋は、思ったより長かった。ミリアは床に膝をつき、筋の端から順に両手をかざしていった。泥に触れなくても冷たさが掌に返ってくる。それを押し返すように力を流すと、黒い艶が少しずつ抜け、ただの濡れた土の色に変わっていく。
「クラウディア、灯り。足場からもっと下」
「これでいい?」
「そこで止めて。……もう少し右」
灯りが右へ動いた。
「そのまま」
クラウディアは足場に膝をついて身を乗り出したまま、灯りを差し出し続けた。
筋の最後の端が土の色に変わると、ミリアは息を吐いて手を引いた。指先がじんと痺れている。今日はここまでだった。明日も救護所の列は来る。
壁の灰色の泥は荷役人たちが鋤で掻き出していった。こちらは浄化しなくても掻けば落ちる。
縄梯子を上がるとクラウディアが灯りを下ろして腕を振っていた。
「人を灯り台みたいに使って」
「上手だったよ。全然揺れなかった」
「揺らさないように腕が攣りそうだったのよ」
「じゃあ次は私が持つね」
「次があるの?」
トビアスが咳払いをした。
「試すぞ」
上流側の扉が少しずつ上がった。
水が取水口へ流れ込み、格子を抜けていく。濁ってはいるが、黒くはない。若い技師が操作部の把手を握り、トビアスを見た。
「お前が回せ」
若い技師が把手を回した。取水口の脇の小さな歯車が軋みながら一つ、二つと歯を進める。その動きが鎖を伝って奥へ届き、止まっていた計器の針がわずかに持ち上がった。
荷役人の一人が鋤を持ったまま声を上げた。
「動いた」
「取水口の分だけだ。閘室の奥の隔離室には泥の核がまだ残っとる」
トビアスはそう言いながら針から目を離さなかった。
「どこ?」
ミリアが訊くと、トビアスは閘室の脇の鉄の扉を顎で示した。扉の上に小さな覗き窓が開いている。
ミリアは灯りを借りて覗き窓に近づけた。水の底に黒い塊が沈んでいた。人の頭ほどの大きさで、その周りだけ墨を落としたように水が濁っている。
「扉を閉めて外へ出んようにしてある。水を抜かんと近づけん」
ミリアは覗き窓から顔を離した。指先の痺れがまだ残っていた。
* * *
片づけの途中で、トビアスが二人を水門の反対側へ連れていった。
石の壁に錆びた大きな把手のついた操作口があった。その先の水路は土砂で半分埋まり、雑草が生えている。水路は斜面を下り、港の低い荷揚げ場の脇をかすめて、その向こうの古い池へ続いていた。
「旧排水路だ。ベルタ婆さんの図に描いてあったやつだ」
トビアスは操作口の把手に手を置いた。
「上流の水が上がりすぎたとき、ここを開ければ少しだけ逃がせる。放水口ほどの力はない。時間を稼ぐだけだ」
「なら、掃除しておけばいいんじゃないの」
「掃除はする。だが、開けたら水はあそこを通る」
トビアスが顎で示した先に、港の低い荷揚げ場があった。木組みの起重機が三基、腕を上げたまま止まっている。船が戻ったら最初に動かす場所だった。
「起重機の台座も荷車の軌条も、泥をかぶる。一度通したら、しばらく荷は揚げられん。だから、よほどのことがない限り開けん」
ミリアは隣を見た。クラウディアが口を曲げていた。あの荷揚げ場を船の入港に間に合わせる段取りを、昨日から組んでいるのはクラウディアだった。
「よほどのことが起きないようにしてちょうだい」
「わしに言うな」
トビアスは把手から手を離し、帳面を取り出した。
「それより、上の操作部だ。取水口が動いても上が動かなきゃ閘室は開かん。軸受が四つ要る」
「水門の予備は?」
今朝、保守区画の棚で見た包みのことだった。
「測らせた。四つとも寸法は合う。だが削り直しに三日かかる」
「新しいのは」
「港の資材庫にはない。グラーフ商会の倉庫にはあるだろう」
トビアスは帳面を閉じた。
「あの親父、昨日から値を三倍にしとる」
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