第13話 入らない
ベルタの見取り図は、高台の神殿の分院の机に広げられていた。
ベルタ本人は窓際の椅子に座り、誰かが頁に触れるたびに目を光らせている。クラウディアは昨日の約束どおり頁の端だけを持った。
トビアスが点線を太い指でなぞった。
「保守通路だ。舟小屋から岸の下をくぐって、水門の保守区画まで続いとる。わしが技師になったころには、もう誰も使っとらんかった」
「旧排水路のほうは」
「あれは水を逃がす道だ。人が歩く道じゃない。壺を担いで通るなら、こっちしかない」
点線の終わりに小さな四角が三つ描いてあった。保守区画へ出る通用口だ。三つとも横に「閉」と書き込まれている。
「二十年前に閉めたよ」
窓際からベルタが言った。
「通路の天井が崩れかけてね。扉に錠を下ろして鍵は水門の詰所へ預けた」
「閉めたはずの扉なら、開けた跡が残るわ」
クラウディアは見取り図から顔を上げた。
「今日は保守区画へ入る。通用口を見て、使われた跡があれば通路を辿る」
戸口でダリオが言った。
「点検の済んだ区画までならお供します。退路は地上への階段一本。俺が先に入ります」
* * *
保守区画への階段は水門の脇の石小屋から地下へ下りていた。
最後の段を下りたところで、クラウディアは足を止めた。
天井が高い。灯りの届かない上のほうまで石の柱が並び、その間に人の背丈の三倍はある歯車が据えられていた。歯の一枚一枚がクラウディアの腕より太い。歯車から延びた鎖は闇の上へ消え、どこかで水の音がしている。止まっているのに、今にも動き出しそうだった。
「……大きい」
隣でミリアが呟いた。口が開いたままだった。クラウディアも自分の口が少し開いていたことに気づいて、閉じた。
「閘室の扉を上げ下げする歯車だ」
トビアスが灯りを掲げた。
「取水口が詰まって、上の操作部が止まった。こいつ自体はまだ生きとる」
歯車の脇の棚には古い部材が積まれていた。油紙に包んだ軸受、巻いた鎖、木の楔。埃をかぶってはいるが、錆は浮いていない。
「これは」
「予備だ。ベルタ婆さんのころのな。今の操作部に合うかは、測ってみんと分からん」
「測って。合うなら、どれだけ使えるか知りたいの」
トビアスが若い技師を呼び、物差しを当てさせ始めた。クラウディアは軸受の包みを一つ開き、刻印を帳面に書き写した。
通用口は広間から細い通路を抜けた先にあった。
通路は大人が二人並べない幅で、天井も低かった。ダリオが先を行き、ミリアがその後ろに続く。クラウディアは三番目を歩いた。
壁が近い。灯りが揺れるたびに、天井の石の継ぎ目が目の前まで下りてくるように見えた。クラウディアは帳面を胸に抱えて口を閉じていた。
「そこ、一段下がってるよ」
前を行くミリアが振り返った。言われなくても見える段差だった。少し先でまた振り返る。
「ここ、水が溜まってる」
広間を歩いていたときより、ミリアの足は遅くなっていた。クラウディアは何も言わずにその声の間に合わせて足を運んだ。
* * *
通路の行き止まりに鉄の扉が三つ並んでいた。
一つ目と二つ目の錠は赤い錆で膨れていた。ダリオが把手を引いてもびくともしない。
三つ目の前でミリアがしゃがみ込んだ。
「トビアスさん、灯りを」
床の石に黒い滴が点々と落ちていた。扉の下から取水口のほうへ続いている。灯りを近づけると油のような艶が返ってきた。
「取水口で掻き出した泥と同じだね。でも砂が混じってない」
トビアスが扉の蝶番に指を当て、その指を嗅いだ。
「油だ。誰かが差しとる」
見取り図で「閉」と書かれた扉だった。
「開けて、この先を辿りましょう」
クラウディアが言うとミリアも立ち上がった。
「舟小屋まで続いてるんでしょ。泥を追えば、どうやって運んだか分かる」
「駄目です」
ダリオが扉の前に立った。
「この先は点検が済んでいない。天井が崩れかけて閉めた通路だと、ベルタさんが言っていました。崩れたら、退路は今来た細い通路一本です。そこへ聖女様と補給官を入れることはできません」
「先に天井を確かめる人を出せる?」
「今日は出せません。崩れかけた天井を確かめるなら、支えの材木と人手が要る。集めるだけで一日かかります。それまでは部下も入れません。俺も入りません」
ミリアが頬を膨らませた。クラウディアも同じ顔をしていたかもしれない。ダリオは扉の前から動かなかった。
クラウディアは三つ目の錠を見た。一つ目、二つ目と同じ形をしている。けれど、これだけ錆びていない。
「……詰所の鍵でこの錠が開くか試せる?」
「試すだけなら」
「それから舟小屋の側。通路の出口を外から見ることはできる?」
ダリオは少し考えた。
「地上からなら。守備隊から二人つけてもらいます」
ミリアが膝の泥を払いながらダリオを横目で見た。
「休暇の前に怪我したくないんでしょう」
「それもあります」
ダリオはあっさり認めた。
* * *
詰所の鍵箱には通用口の鍵が三本、二十年前の札をつけたまま下がっていた。
出入りの記録を遡っても、二十年前に「閉」と書かれた日から、三つの通用口の名は一度も出てこない。鍵を持ち出した者もいなかった。
トビアスが錆を落とすと、一つ目と二つ目の錠は詰所の鍵で回った。三本目の鍵は三つ目の鍵穴に半分も入らなかった。
「錠を替えとる」
トビアスが低く言った。
「外の形は同じだ。中身だけが違う」
その間に、ミリアはダリオと守備兵を連れて上流の岸へ回っていた。昼前に戻ってきたミリアの長靴は膝まで濡れていた。
「舟小屋の床に板の蓋があったよ。下に階段。一段目と二段目にさっきと同じ泥が付いてた。砂が混じってないやつ」
「中へは」
「入ってない。ダリオさんが蓋の上に立ってたから」
後ろでダリオが肩をすくめた。
クラウディアは見取り図を広げ、点線の両端に一つずつ印をつけた。舟小屋の蓋と、三つ目の通用口。
昼過ぎにローゼルが守備兵を連れて来た。トビアスの説明を聞き、三つ目の通用口に内側から鉄の閂を渡させる。舟小屋の蓋には石を積ませた。二か所とも今夜から交代で見張りが立つ。
「通路の中は」
ローゼルが訊いた。
「点検が済むまで、誰も入れません」
ダリオが答えた。ローゼルはそれ以上訊かずに頷いた。
* * *
地上へ戻る前に、トビアスが取水口へ寄った。今朝、荷役人たちが掻き出したばかりの場所だ。
格子の奥へ灯りを差し入れたまま、トビアスはしばらく黙っていた。
「どうしたの」
「……詰まっとる」
クラウディアは横から覗き込んだ。
格子の奥に黒い泥が溜まり始めていた。艶のある、砂の混じらない泥だった。
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