第12話 空いた棚
朝、救護所の横の空き地に机が二つ並んでいた。
一つは配給の受け渡し。もう一つは仮登録の受付。机の脇には麦袋を積んだ荷車が止めてあり、粉挽き小屋の入口からは離れている。診察を待つ列と配給を待つ列が空き地の真ん中に張った縄で左右に分かれていた。
受付の机には配給所から回されてきた係が二人座っていた。港務所の帳簿係の青年と、倉庫番の孫娘だという若い女だ。クラウディアが昨夜のうちに決めたらしい。
ミリアは木札の箱を抱えて受付の机の端に立った。
「色を変えてあるの。青が仮登録。裏に今日の日付の印を押して、渡したら端を一つ欠く。正式に名簿へ載ったら回収」
「分かりました」
帳簿係の青年が札を一枚取って裏返した。仕事の飲み込みが早い。
「最初の日だけは私もここにいるから。顔を見れば、どこから来た人か分かる人もいるし」
そう言ってミリアは三つ目の椅子を引き寄せた。
* * *
最初の一刻は順調だった。
南門の近くに着いたばかりの家族、高台へ移る途中で名簿の地区が変わった老夫婦。ミリアは一人ずつ顔を見て、名前を聞き、受付の二人へつないだ。
配給の列には一昨日救護所で粥を食べた親子が並んでいた。クラウディアの手続きで昨日のうちに名簿へ載ったと聞いている。下の子はミリアを見つけると母親の後ろから手を振った。
二刻目に入ったころ列が動かなくなった。
「聖女様、うちの爺さんの咳がまだ止まらなくて」
「この子、昨日から何も食べなくて」
「低地から移れって言われたんだけど、荷はどうしたら」
仮登録に来た人がついでに相談を持ち込んでくる。ミリアはそのたびに話を聞いた。咳の具合を確かめ、子どもの喉を覗き、移送の不安に頷いた。一人に話を聞いている間、後ろの人は待っている。受付の二人はミリアの横で札を持ったまま手を止めていた。
「聖女様」
列の中ほどから声がかかった。洗濯籠の女だった。救護所で亭主の腕を診てもらった、あの女だ。今日は南門の避難民の世話役として列の整理を手伝っていた。
「後ろ、見てごらんよ」
ミリアは顔を上げた。
配給の列が空き地の外まで伸びていた。縄の向こうの診察の列も、粉挽き小屋の中で止まっているらしい。見習いが戸口から何度もこちらを覗いている。
「聖女様が全部聞いてたら、日が暮れちまうよ。具合の悪い人は小屋の中で診ておくれ。荷物や住まいの話は、あたしがまとめて聞いて持っていくから」
周りの何人かが笑った。責める笑いではなかった。
ミリアは手元を見た。札の箱は二刻目に入ってからほとんど減っていなかった。
「……うん。そうだね」
ミリアは椅子から立ち上がった。帳簿係の青年に札の箱を渡す。
「お願い。どこから来たか分からない人がいたら、小屋まで呼びに来て」
「はい」
「具合の悪い人は、診察の列に並んでください! 荷物や住まいの相談は、こちらの世話役さんへ!」
声を張ると列のあちこちから返事が返ってきた。
受付の机が動き始めた。名前を聞き、札を渡し、端を欠く。配給の机で麦の袋が開く。止まっていた列が少しずつ前へ進んでいった。
ミリアが粉挽き小屋へ戻りかけたところへ、空き地の端からクラウディアが歩いてきた。手には配給所の割り振り表を持っている。動き始めた受付の机を見て、それから列を見た。
「回っているわね」
「回してもらってるの。世話役さんに、日が暮れるって言われた」
「……そう」
クラウディアは洗濯籠の女のほうへ軽く頭を下げた。女は手をひらひらと振って列の整理に戻っていった。
* * *
それから昼まで、ミリアは小屋の中で診察を続けた。
合間に世話役の女が書き付けの束を持ってきた。列で聞いた荷物や住まいの相談を、字の書ける者に書かせたものだという。旧倉庫街の低地の人が多かった。移れと言われている人たちだ。診察に来た低地の人も同じことを言った。
「荷を置いて高台へ行ったら、盗まれる」
「倅の仕事場は低地の倉庫だ。離れたら戻れん」
「婆さんは足が悪くて、坂を上れんのです」
ミリアは診察で聞いた分を書き付けの余白に足していった。
昼過ぎ、その束を持って港務所の二階へ上がった。クラウディアは今朝から変えた配給の時間割を清書しているところだった。
「低地の人が動かない理由、これ。世話役さんがまとめてくれたの」
ミリアが束を置くと、クラウディアは一枚ずつ読んだ。読み終えると窓の外を見た。
港務所の窓からは、坂の上の市の倉庫が見える。
「倉庫の手前の棚が空いているわ」
「空いてるって……食料の棚?」
「この十日で使った分よ。そこに低地の人たちの荷を預かる。札を付けて、市の倉庫番が鍵を持つ。盗まれる心配は低地に置いておくよりずっと少ない」
ミリアは束の一番上を見下ろした。荷、と書いてある。
「仕事は」
「低地の倉庫で働いている人は高台から通えばいい。坂は一本道よ。朝の配給の時間を通いに合わせるわ」
「足の悪い人は」
「荷車を出す。荷を運ぶ荷車が今は余っているもの」
「荷車だけだと駄目かも。そのお婆さん、さっき診たの。悪いのは膝じゃなくて腰。座らせて揺らすと痛むから、寝かせて運べるように板を敷いて。坂の途中でも一回休ませてあげて」
「板と、途中の休み場所ね」
クラウディアは書き付けの余白に一行足した。
「受け入れ先は高台の神殿の分院よ。そのお婆さんには下の階の部屋を空けてもらう。評議会にはもう話を通してあるわ」
「いつ?」
「さっき。受付が回り始めたのを見てから」
「今から低地へ一緒に行こう。これを持って」
「そうね」
* * *
その日の午後、低地の人たちは自分で荷を選び始めた。
全部は運べない。倉庫の棚に預ける物と高台へ持っていく物を、一家ずつ分けていく。ミリアとクラウディアはそれを手伝った。
鍋を抱えたまま迷っている女がいた。
「持っていったほうがいいよ。使い慣れた鍋だと、ご飯がおいしいもの」
「分院には厨房があるわ。預けたほうが荷が軽くなる」
「でも分院の鍋、きっと大きすぎるよ」
「大きい鍋で困ることはないでしょう」
女は二人の顔を見比べて鍋を抱えたまま荷車へ歩いていった。
日が傾くころ二人は低地の外れの小さな家を訪ねた。
「ベルタさん。移送の話で来ました」
戸を開けたのは、腰の曲がった小柄な老女だった。七十をとうに過ぎているだろう。部屋の奥に古い木箱が三つ積まれていた。
「移るのはいいがね」
ベルタは木箱を振り返った。
「あれを置いていくわけにはいかんよ。水門の保守記録だ。四十年分ある」
クラウディアの目が木箱に留まった。ミリアはクラウディアの横顔を見て、それからベルタに笑いかけた。
「全部、荷車に載せます。倉庫に預けますか。それとも一緒に高台へ?」
「一緒に決まっとる」
「なら、高台で見せてもらってもいいですか。舟小屋のことを知りたいの」
ベルタはしばらくミリアを見ていた。それから奥へ行き、一番上の木箱の蓋を開けた。
「濡らすんじゃないよ。綴じ紐はほどかない。頁は端を持ってめくる。それが守れるなら運ばせてやる」
「守ります」
クラウディアが答えた。ベルタは箱の中から角の擦り切れた帳面を一冊抜き出した。
「舟小屋のことなら、これだ」
開かれた頁には、水門の周りの見取り図が描いてあった。上流の岸の舟小屋から水門の脇まで点線が延びている。点線の横に細い字で「保守通路」とあった。
その下にもう一本、太い線が引かれていた。「旧排水路」と書いてある。
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