第10話 触れる前に
救護所の奥の寝台に、若い男が横たえられていた。
年はミリアとそう変わらない。魔王領の者らしく、耳の先が少し尖っている。右のふくらはぎが布の上から赤黒く染まり、足首は不自然な角度に腫れていた。服の裾にこびりついた黒い汚れは、橋の車輪で見た泥と同じ艶をしていた。
戸口には守備隊の兵が二人立っている。一人は縄を手にしたままだった。
「斜面を転げ落ちたところを見つけました。荷運びの列から外れて、街道の脇の崖を下りようとしたらしい」
「名前は」
「言いません」
ミリアは寝台の脇に膝をついた。
男が身を引いた。縛られた手首が寝台の枠に当たって鈍い音を立てる。目がミリアの手を見ていた。治癒の光を知らないのか、知っていて怖いのか。どちらにしても、触れられたくないという顔だった。
「足を診ます。今から何をするか先に言うね」
ミリアは手を膝の上に置いたまま話した。
「まず布を切る。傷を洗う。しみるけど、汚れが入ったままだと膿むから。それから傷の奥に力を流して、血が出ないようにする。足首は骨がずれてるかもしれない。ずれていたら戻す。そのときは痛いから、先に言う」
男は何も答えなかった。けれど身を引くのはやめた。
ミリアは布に鋏を入れた。
* * *
傷は思ったより深かった。岩の角で裂いたらしく、肉の奥に小石が入り込んでいる。ミリアは一つずつ取り出し、酒で洗った。男は歯を食いしばって声を出さなかった。
「名前は何という」
戸口の兵が一歩入ってきた。
「誰に頼まれて荷を運んだ。あの黒い泥は何だ」
「今は治療中です」
ミリアは手を止めずに言った。
「話を聞くのは、終わってからにしてください」
「しかし聖女様、こいつは」
「終わってから」
兵は口を閉じた。もう一人の兵と顔を見合わせ、戸口へ戻る。
男の目がミリアの顔に移った。何か言いかけて、やめた。
傷の奥に力を流すと、裂けた肉の縁が少しずつ寄っていった。全部は塞がない。血が止まるところまででいい。残りは本人の体が治す。
次は足首だった。触れると、男の体が硬くなった。
「骨が少しずれてる。戻すよ。痛い。三つ数えてから戻す」
「……三つ?」
初めて声が出た。掠れた低い声だった。
「うん。息を吐いて。一つ、二つ、三つ」
三で戻した。男が呻いた。骨が収まる手応えがあった。
男は天井を見上げて、深く息を吐いた。強張っていた肩が少し落ちた。
* * *
足首に添え木を当てていると、廊下が騒がしくなった。
救護所の見習いや、隣の寝台の患者の家族が戸口に集まっている。魔王領の者が運び込まれたと聞いて覗きに来たのだろう。誰かが小声で何か言った。聞き取れなかったが、いい言葉ではないのは分かった。
「下がって」
クラウディアの声だった。
いつの間に来たのか、戸口の外に立っていた。集まった人たちを見回し、一人ずつに用事を言いつけていく。
「あなたは隣の患者の湯を替えて。あなたは配給所へ、救護所の今夜の粥が届いたか確かめてきて。それ以外の人は表の列へ戻って。聖女の手が空くのを待っている人がいるのよ」
人が散っていった。戸口には兵が二人だけ残った。
クラウディアは中へは入らなかった。戸口の柱にもたれ、兵に何か小声で話している。兵の一人が頷いて、扉を半分だけ閉めた。外の声が遠くなる。
ミリアは添え木の布を結び終えた。
「終わったよ。三日は歩かないで。熱が出たら言って」
男はしばらく黙っていた。それから、縛られた手を少し持ち上げた。
「……ネイロ」
「ネイロ。私はミリア」
「知ってる。聖女だろ」
ネイロは目を閉じた。
「家族が、向こうにいる。俺がここで何か喋ったら」
声が途切れた。
ミリアは寝台の脇に座ったまま、すぐには答えなかった。大丈夫だと言うのは簡単だ。けれど、境界の向こうにいる家族を守る手立てを、ミリアは何も持っていない。
「約束はできない。あなたの家族を守れるって言ったら、嘘になる」
ネイロが目を開けた。
「話すかどうかは、今決めなくていい。夜にもう一回、傷を見に来るから」
ネイロは長い間ミリアを見ていた。
戸口のクラウディアが、兵に目で合図をした。兵は戸口から一歩下がった。
* * *
夜になって熱が少し出た。ミリアが額に手を当てていると、ネイロが口を開いた。
「全部は知らない」
「うん」
「壺を運べって言われた。黒い蝋で蓋をした、重い壺。中は見てない。見るなと言われた」
「どこへ運んだの」
「上流の岸。屋根の落ちた舟小屋がある。そこに置いて帰れって。三回運んだ。誰が取りに来たかは知らない。いつも置いて帰った」
ネイロはそこで言葉を切った。
「今日は四回目だった。運ぶ途中で、逃げた」
ミリアは額から手を離した。
「話してくれてありがとう」
「礼を言われることじゃない」
ネイロは寝返りを打とうとして、足首の痛みに顔をしかめた。ミリアは毛布を直した。
廊下に出ると、クラウディアが壁際の長椅子に座って書類を読んでいた。待っていたらしい。
「舟小屋」
ミリアが言うと、クラウディアは書類から顔を上げた。
「上流の岸の、屋根の落ちた舟小屋。黒い蝋の壺を三回そこへ運んだって。誰が取りに来たかは知らない」
「聞き出したの?」
「話してくれたの。治療が終わった後で」
クラウディアは書類を閉じた。
「今夜のうちに、その舟小屋の近くへ出入りしている人を探すわ。夜に灯りを見た人がいるかもしれない」
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