ある侯爵家に仕えるメイドの恐怖体験
それは恐ろしい光景でした。
ひしと抱き合っていたはずのアレン坊っちゃまとマリアンヌお嬢様が、突然現れた巨大な獣の足に踏み潰されたのでございます。
それは大きな獣の足でございました。
見上げても尚全貌がわからないほど……というかここは侯爵家の応接室。
狭くはありませんが、決して目上げるような獣が入り込めるとは思えない広さの室内です。どれだけ目を凝らしても信じることが出来ません。
「なんと!?旦那様と奥様もだと!??」
普段声を荒げるとこなど見たこともない執事長の言葉に、絶句します。
まさか、アレン坊っちゃまたちと同じ様な事が旦那様たちの身にも降りかかっていると!?
確かに旦那様の執務室がある階上の方角が何やら騒がしい様ですが。そんなまさか。
真っ白な毛並みの大木の様な獣の足。何故か背後がわかるほど薄ぼんやりと透けた存在のそれは、面妖なことにソファやテーブルなどはすり抜けてお二人だけをそれぞれ踏みつけております。
鋭く尖った爪は幼子よりも大きく。それがアレン坊っちゃまとマリアンヌお嬢様の背やら腹やら股やら頬やらにぎりぎりと食い込んでおり、見ているだけで血の気が引いて参ります。
何とかしなくては、そうは思うもののこんな予想もしていなかった異常な光景に、私を含め控えていた使用人たちは皆一様に腰を抜かす体たらく。
そんな中、
「大丈夫ですか?お二方とも」
何とお客様の伯爵令嬢が素知らぬ顔でそんな事を尋ねるのです。
大丈夫?この状況を見て何を呑気な事を、と正気を疑います。
元より、アレン坊っちゃまとマリアンヌお嬢様の道ならぬ恋を邪魔する忌まわしい婚約者と私たち侯爵家に務める使用人は常々思っておりました。
純粋に想い合う恋人の仲をひき裂こうとする悪役令嬢。巷で流行りの恋愛物語などで登場しそうだとメイド仲間の間では揶揄しておりましたが、今まさにこの状況で平然としてらっしゃる姿を見れば、そら恐ろしい方に見えてまいります。
背後に控える令嬢の従者すら平然と(顔は引き攣っておりますが)しており、それが余計に恐怖を煽ります。
もしやこの方がこのような仕打ちを?誰もが脳裏に描いた推測を、しかしアレン坊っちゃまが糾弾し瞬時に撤回してその上何故だか謝罪までしております。
そこからつらつらと語られるのはアレン坊っちゃまとマリアンヌお嬢様の知られざる裏の側面。
純粋に想い合っている悲運の恋人、なんてまやかしだったとは。
まぁ確かに……私はお二人とあまり接点のないまま侯爵邸ではメイドをしておりますし、よくよく思い返してみれば侯爵家ご家族の側付きの者たちは私たちがする噂話など、白い目で離れて見ていた気もしますが。
その後、特に精神衰弱された様子のない伯爵令嬢は従者と共に侯爵邸を後にされました、が。
伯爵令嬢が帰られてからも、謎の白い巨大な獣の足は侯爵家の方々を一晩中踏つけにしておりました。
屈強な使用人たちが救出しようと試みてもびくともせず、足をどかそうにも触れることさえ出来ません。
私たちはただ恐れ慄き、一晩中獣の足に向けてどうかおやめくださいとお祈りすることしか叶わず。
踏みつけにされたアレン坊っちゃまもマリアンヌお嬢様も、旦那様も奥様も、初めは怒り散らして罵詈雑言の限りを尽くしておりましたが、次第に泣き喚き力無く許しの言葉を紡ぐしか出来なくなっていきました。
涙や涎や鼻水に塗れ、アレン坊っちゃまなどは我慢できず粗相をし、奥様やマリアンヌお嬢様は泣き過ぎて嘔吐を垂れ流した状態のままその夜、栄えある侯爵邸は凄惨な生き地獄の様な有様でございました。
一夜明け、神殿から神官様が招かれた頃には跡形もなく獣の前足は消え去っておりました。
けれど、神官様は皆様を諭されるように仰いました。
「どれほど驕ろうとも他者に敬いの気持ちを忘れずに。今世の女神様の眷属は如何様にも現世に介入されますよ」
と。




