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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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英語で道をつなぐ

 小さな声を聞く家族たち

 英語で道をつなぐ

 文子と笑美が旅館に身を寄せて、数日が過ぎた。

 笑美は、すっかり子どもたちの輪に入っていた。

 まだ大きな声で笑うことは少ない。

 それでも、茉莉や睦子と一緒に歌い、一幸が作る折り紙に目を輝かせ、夜になると女の子同士で布団を並べて眠るようになっていた。

 文子も、少しずつ旅館の仕事を手伝い始めていた。

 *

 その日の昼下がり。

 旅館の玄関先に、スーツケースを引いた外国人観光客の夫婦が立っていた。

 金髪の男性と、赤いコートを着た女性。

 どうやら道に迷っているらしい。

 光博が気づいて声をかける。

「どうされました?」

 しかし相手は困った顔で、英語で返した。

「Excuse me… we want to go to Kiyomizu-dera. Could you tell us how to get there?」

 光博は固まった。

「き、きよ……?」

 七海が奥から顔を出す。

「清水寺やない?」

「それは分かる。問題は英語や」

 光博、まさかの即詰み。

 *

 その時、文子がそっと前に出た。

「May I help you?」

 流暢な英語だった。

 光博が目を丸くする。

「え?」

 観光客の表情がぱっと明るくなった。

「Oh, thank you! We’re trying to get to Kiyomizu-dera, but we’re not sure whether to take the train or the bus.」

 文子は落ち着いて微笑んだ。

「You have two main options. If you prefer the train, you can take the JR line to Kyoto Station, then transfer to a bus bound for Kiyomizu-dera area. But if you want fewer transfers, taking a city bus directly from Kyoto Station might be easier.」

 女性が頷く。

「Which one do you recommend?」

「If you have luggage, the bus can be crowded, especially around Kiyomizu-dera. So I’d recommend leaving your luggage at the station or hotel first. Then take the bus to Gojozaka or Kiyomizu-michi, and walk uphill to the temple. It’s a bit of a walk, but the streets are beautiful.」

 男性が笑った。

「That sounds perfect. Thank you so much.」

 文子はさらに地図を広げ、指でルートを示した。

「Please be careful on the slope. It can be crowded. And if you have time, Sannenzaka and Ninenzaka are also beautiful places to walk.」

 観光客の女性は嬉しそうに言った。

「You speak excellent English.」

 文子は少し照れながら答えた。

「Thank you. I used to study English because I liked helping travelers.」

 *

 観光客夫婦は何度も礼を言い、笑顔で旅館をあとにした。

 文子が小さく息を吐く。

 その瞬間。

 光博がぽかんとしたまま言った。

「……文子さん」

「はい?」

「あんた、英語ペラペラやないか」

 文子は少し困ったように笑う。

「昔、少し勉強していただけです」

「少しであれか?」

 七海も感心していた。

「発音も自然やったねぇ」

 文子は目を伏せる。

「結婚してからは、使う機会もなくて……夫にも、そんなもん何の役に立つんやって言われてました」

 その場の空気が少しだけ重くなる。

 しかし光博は、すぐに声を強めた。

「役に立っとるやないか」

 文子が顔を上げる。

「今、困っとるお客さんを助けた」

 *

 光博は、腕を組んで何度もうなずいた。

「やっぱり文子さんに入ってもらわな困る」

「え?」

「うちの旅館、外国からのお客さんも増えとる。英語で案内できる女将がおったら、どれだけ助かるか」

 七海も笑った。

「私、英語はからっきしやもん」

 光博がすかさず言う。

「日本語もたまに怪しいけどな」

「何ですって?」

 麻里子が横から小声で言う。

「はい、夫婦漫才入りました」

 梨花が笑う。

「光博さん、それ自分で火をつけにいってる」

 *

 文子は、まだ信じられないような顔をしていた。

「私が……役に立てるんですか」

 梨花が言った。

「役に立てる、じゃなくて、もう立ってます」

 一絵も続ける。

「文子さんの言葉で、お客さんが安心してました」

 麻里子はにやりと笑う。

「これは女将候補、かなり有力ですね」

 文子は慌てた。

「そ、そんな、女将なんて」

 光博は即答した。

「いや、吐いてもらわな困る」

 七海が目を細める。

「光博さん」

「ん?」

「“入ってもらわな”でしょ」

 部屋が一瞬止まる。

 そして、麻里子が吹き出した。

「吐いてもらったら困りますよ!」

 梨花も笑いをこらえきれない。

「旅館の玄関で何を吐かせるんですか」

 一絵まで肩を震わせる。

 文子も、ついに小さく笑った。

 *

 光博は顔を赤くした。

「今のは言い間違いや!」

 七海がすかさず言う。

「英語の前に日本語の研修が必要やね」

 文子は久しぶりに、声を出して笑った。

 笑美が奥から走ってくる。

「ママ、わらってる」

 文子は笑美を抱きしめた。

「うん。笑ってたね」

 笑美も嬉しそうに言った。

「ママ、えいごじょうず?」

 文子は少し照れながら答えた。

「ちょっとだけね」

 一幸が横から胸を張る。

「笑美ちゃんのママ、すごい!」

 茉莉と睦子も拍手する。

「すごーい!」

 *

 文子は、その拍手を受けながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 ずっと、否定されてきた。

 何の役にも立たないと言われた。

 母親としても妻としても足りないと言われた。

 でも今、自分の言葉が誰かの役に立った。

 自分にも、まだできることがある。

 *

 光博は穏やかに言った。

「文子さん。無理にとは言わん。でも、あんたの力は、ちゃんとここで生きる」

 七海も続ける。

「一緒に覚えていこう。旅館の仕事も、女将の仕事も」

 文子は、笑美を抱きしめたまま、深く頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 *

 その日の夕方。

 旅館の玄関に、小さな手書きの案内板が置かれた。

 日本語と英語の二段書き。

 清水寺への行き方。

 バスで行く場合。

 鉄道で行く場合。

 文子が書いたものだった。

 光博はそれを見て、満足そうにうなずいた。

「ええやないか」

 七海が横で言う。

「これからは、文子女将候補に案内係もお願いしようかね」

 文子は少し照れた。

「まだ候補でお願いします」

 麻里子が笑う。

「候補から正式採用まで、恋愛捜査官ならぬ女将捜査官が審査します」

「それは遠慮します」

 文子が即答し、みんなが笑った。

 *

 笑美はその笑い声の中で、母の手を握った。

「ママ、ここすき」

 文子はしゃがんで、笑美の目を見る。

「うん。ママも、ここ好き」

 その言葉は、小さかった。

 でも文子にとっては、もう一度人生を始めるための、大きな一歩だった。

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