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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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接近禁止の朝

後日談


小さな声を聞く家族たち


接近禁止の朝


 翌朝。


 文子はほとんど眠れないまま、布団から起き上がった。


 隣の部屋では、笑美がまだ眠っていた。


 茉莉と睦子に挟まれ、一幸が作った折り紙の犬を抱きしめている。


 その姿を見た瞬間、文子は決めた。


 もう戻らない。


 戻してはいけない。


     *


 午前九時。


 山科警察署。


 梨花の勤める病院の近くにあるその建物へ、三人が入っていった。


 文子。


 梨花。


 そして、梨花の勤務先の院長・川崎聡一郎。


 川崎院長は、文子に穏やかに言った。


「大丈夫です。今日は、事実を伝えましょう」


 文子は小さくうなずいた。


     *


 相談室。


 担当の警察官が事情を聞く。


 梨花は落ち着いた声で説明した。


「緊急を要する案件です」


 警察官の表情が変わる。


「夫による妻への継続的な暴言、脅迫的な電話、さらに四歳の娘への身体的暴力があります」


 文子は震える手でスマホを出した。


 麻里子が整理してくれたフォルダ。


 着信履歴。


 LINE。


 留守番電話。


     *


 梨花が言った。


「昨夜の留守電です」


 再生ボタンが押される。


 部屋に、一之介の怒鳴り声が流れた。


『おい、文子。何勝手に出て行っとんねん』


『笑美も連れて行ったんか?』


『お前ほんま母親として終わってんな』


『さっさと帰ってこい』


『帰ってこんかったら、どうなるか分かっとるんやろな』


 文子はうつむいた。


 梨花は、文子の肩にそっと手を置いた。


     *


 川崎院長が静かに言う。


「文子さんは強い恐怖を感じています。娘さんも父親の話題が出るだけで身体が反応する状態です。医療者として見ても、早急な安全確保が必要です」


 警察官は記録を取りながらうなずいた。


「相談記録を作成します。保護命令や接近禁止については、弁護士さんとも連携してください。こちらからも必要な案内をします」


 梨花が頷く。


「弁護士事務所にはすでに連絡しています。今日中に手続きへ進めます」


     *


 文子は小さな声で言った。


「夫に知られたら……」


 警察官は慎重に答えた。


「身の危険を感じたら、すぐに一一〇番してください。ためらわないでください」


 川崎院長も言った。


「文子さん、あなたが大げさなのではありません」


 梨花が続けた。


「笑美ちゃんを守るための手続きです」


 文子の目から涙が落ちた。


     *


 一方、そのころ。


 滋賀県内の小売店。


 太田一之介は、店内で品出しの仕事をしていた。


 段ボールを開け、棚に商品を並べる。


 だが、その顔には苛立ちが残っていた。


「くそ……どこ行きよったんや」


 小さく吐き捨てる。


     *


 そこへ、同じ職場の女性が近づいてきた。


 堀川桃。


 二十一歳。


 一之介の不倫相手だった。


「いっちゃん、昨日から機嫌悪いね」


 一之介は周囲を気にしながら言った。


「文子が笑美連れて消えた」


 桃は眉をひそめるどころか、少し笑った。


「ふーん。じゃあ、ちょうどいいじゃん」


「何がや」


「そんな奥さんより、私が一緒にいた方が、いっちゃんも幸せじゃない?」


 その声には、文子を見下す響きがあった。


     *


 一之介は何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 桃はさらに続けた。


「だって、奥さん暗いんでしょ?」


「まあな」


「子どもも連れて出てったんでしょ? 面倒じゃん」


 一之介は苛立ったように商品を棚へ押し込んだ。


「勝手に大ごとにしやがって」


 桃は小さく笑う。


「奥さんってさ、そういうところ重いよね」


     *


 この関係は、一年ほど続いていた。


 LINEには、生々しいやり取りが残っていた。


《今日も会いたい》


《奥さんには残業って言えば?》


《いっちゃん、私の方が癒せるよ》


《早く奥さんと別れてよ》


《笑美ちゃんいるから無理って言うけど、私との時間の方が大事でしょ》


 文子を蔑む言葉。


 家庭を軽んじる言葉。


 妻と娘を邪魔者のように扱う言葉。


     *


 一之介は、桃に妻がいることを隠していなかった。


 むしろ、愚痴のように話していた。


 桃もそれを知った上で、関係を続けていた。


 だからこの件は、文子にとって単なる裏切りではなかった。


 自分と笑美の存在を、二人で踏みにじられていたということだった。


     *


 山科警察署を出たあと。


 文子は外の空気を吸った。


 手はまだ震えていた。


 けれど、昨日とは違っていた。


 警察に話した。


 記録が残った。


 弁護士も動いている。


 探偵も動いている。


 もう、一之介の言葉だけで世界が決まるわけではない。


     *


 梨花が言った。


「次は弁護士事務所です」


 文子はうなずいた。


「はい」


 川崎院長が少し笑った。


「文子さん、今日はよく話しました」


 文子は涙を拭いた。


「怖かったです」


「怖くて当然です」


 梨花が静かに言う。


「でも、笑美ちゃんを守るために、前へ進んでます」


     *


 そのころ、麻里子の元には探偵事務所から第一報が入っていた。


 一之介の勤務先。


 堀川桃との接触。


 職場での親密な会話。


 退勤後の動き。


 調査はすでに始まっていた。


 麻里子はメモを取る。


「一年続いてるなら、証拠は必ず出る」


 一絵が隣で静かに言った。


「文子さんに、また辛い事実を伝えないといけないね」


 麻里子はうなずいた。


「でも、真実を知らないまま支配され続けるよりいい」


 一絵は、笑美が眠る部屋の方を見た。


「笑美ちゃんのためにも」


     *


 旅館の中庭では、笑美が子どもたちと一緒にしゃぼん玉を追いかけていた。


 まだ走り方は遠慮がちだった。


 それでも、昨日より少しだけ声が出ていた。


「まって……」


 一幸が言う。


「笑美ちゃん、こっち!」


 茉莉が笑う。


「しゃぼん玉、逃げるで!」


 笑美は小さく笑った。


     *


 その笑い声を、七海が台所から聞いていた。


「守らなあかんね」


 光博が隣で頷く。


「うん」


 そして低い声で言った。


「一之介には、きっちり向き合ってもらう」


     *


 文子と笑美を守るための一日が、静かに、しかし確実に動き始めていた。

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