↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/37

旅館の小さなアイドル

 後日談

 小さな声を聞く家族たち

 旅館の小さなアイドル

 その夜から、笑美は旅館の子どもたちの中心になった。

 最初は、文子の後ろに隠れていた。

 けれど、一幸が折り紙の犬を渡し、茉莉と睦子が絵本を持ってきて、悠太と弥生が「いっしょにあそぼ」と声をかけるうちに、少しずつ表情がほどけていった。

 *

「笑美ちゃん、これ歌える?」

 茉莉が童謡を歌い始める。

 睦子が手拍子をする。

 一幸がなぜか指揮者のように立ち上がる。

「さん、はい!」

 笑美は最初、小さな声だった。

 けれど二番に入るころには、ほんの少し大きな声になっていた。

「……あるこう、あるこう」

 その声を聞いて、文子は台所の隅で涙をこらえた。

 笑美が、歌っている。

 怒鳴られることを気にせず。

 間違えても叩かれない場所で。

 *

 夜になると、女の子たちは七海に連れられてお風呂へ向かった。

 茉莉、睦子、弥生、笑美。

 お湯に浸かると、睦子が言った。

「笑美ちゃん、あひるさんどうぞ」

 小さな黄色いおもちゃが湯船に浮かぶ。

 笑美はそっと手を伸ばした。

「……かわいい」

 茉莉が得意げに言う。

「ここのお風呂、こわくないよ」

 弥生も頷く。

「あったかいよ」

 笑美は湯気の中で、少しだけ笑った。

 *

 その夜。

 子どもたちは大広間の隣の部屋に布団を並べた。

 一幸が張り切って言う。

「笑美ちゃん、ここ!」

 茉莉がすぐに訂正する。

「女の子同士やから、こっち」

「えー」

「一幸くんは男子チーム」

「ぼく、警備する」

「寝なさい」

 麻里子が即ツッコミを入れる。

 部屋に笑いが広がった。

 *

 笑美は、茉莉と睦子の間に入って布団に横になった。

 最初は天井をじっと見ていた。

 でも、隣で睦子が小さく寝息を立て始め、茉莉が眠そうに「だいじょうぶやで」とつぶやくと、笑美の肩から少し力が抜けた。

 文子は襖の向こうで見守っていた。

 笑美が、誰かと同じ布団の部屋で眠ろうとしている。

 父親の足音に怯えずに。

 怒鳴り声を待たずに。

 *

 一方、そのころ。

 太田家。

 一之介が帰宅した。

 玄関を開けるなり、眉をひそめる。

「……は?」

 部屋は暗い。

 文子の靴もない。

 笑美の小さな靴もない。

 食卓には何もない。

 一之介の顔がみるみる険しくなった。

「どこ行っとんねん」

 *

 すぐにスマホを取り出す。

 文子へ発信。

 出ない。

 もう一度。

 出ない。

 さらにもう一度。

 着信履歴が積み上がる。

 *

 その電話は、旅館の小部屋で受けられていた。

 文子はスマホを握ったまま震えていた。

 だが、隣には梨花がいた。

 麻里子がいた。

 一絵がいた。

 そして、薫、陽介、克己も少し離れた位置で待機していた。

 麻里子が静かに言う。

「出なくていいです」

 梨花が録音機器を確認する。

「着信履歴も証拠になります」

 一絵が文子の肩にそっと手を置いた。

「今は守る時間です」

 *

 やがて、一之介からLINEが届いた。

 《どこにおるんや》

 《勝手なことすんな》

 《帰ってこい》

 《お前、俺を怒らせたいんか》

 さらに電話。

 さらにLINE。

 *

 文子の顔色が悪くなる。

「私……出た方が……」

「出なくていい」

 麻里子がきっぱり言った。

「今出たら、言葉で支配される可能性があります」

 梨花は録画用のスマホを固定する。

「画面、記録します」

 一絵も頷く。

「文子さんの安全が先」

 *

 少しして、留守番電話に音声が残った。

 一之介の怒鳴り声だった。

「おい、文子。何勝手に出て行っとんねん」

「笑美も連れて行ったんか?」

「お前ほんま母親として終わってんな」

「誰のおかげで生活できてると思ってる」

「さっさと帰ってこい」

「帰ってこんかったら、どうなるか分かっとるんやろな」

 *

 文子の手が震える。

 しかし、梨花は静かに言った。

「今の、全部録れています」

 麻里子も画面を保存する。

「音声、着信履歴、LINE、全部残します」

 一絵は、怒りを押し殺した声で言った。

「これが、文子さんが悪いんじゃない証拠になります」

 *

 電話はその後も続いた。

 鬼電。

 罵声。

 脅し。

 責任転嫁。

 LINEには、文子を責める言葉が次々と並ぶ。

 麻里子は一つ一つスクリーンショットを保存した。

 梨花は録音データをバックアップした。

 一絵は時系列をメモにまとめた。

 *

 その様子を見ながら、文子は涙を流した。

「私、今まで……こんな言葉を普通だと思ってました」

 梨花は首を横に振った。

「普通じゃありません」

 麻里子が言う。

「これは支配です」

 一絵が続ける。

「そして、暴力です」

 *

 隣の部屋では、子どもたちが眠っていた。

 笑美は、茉莉と睦子の間で、小さく丸まっていた。

 手には、一幸が作った折り紙の犬。

 その寝顔はまだ少し不安そうだった。

 けれど、今夜は一之介の怒鳴り声は聞こえない。

 誰かに叩かれることもない。

 *

 光博は廊下で腕を組んで立っていた。

 顔は険しかった。

「これが父親の声か」

 七海が静かに言う。

「違うよ。これは、子どもを怖がらせる声や」

 光博は黙ってうなずいた。

 *

 麻里子は最後の録音を保存し、弁護士へ共有する準備を始めた。

「明日の面談で使える」

 梨花も言った。

「保護命令や接近禁止の判断材料にもなる」

 一絵は文子を見た。

「文子さん。怖かったですね」

 文子は泣きながら頷いた。

「でも……今、初めて分かりました」

「何がですか」

「私たち、逃げてよかったんですね」

 *

 梨花は優しく答えた。

「はい」

 麻里子も言った。

「逃げたんじゃありません」

 一絵が続ける。

「笑美ちゃんを守るために、離れたんです」

 *

 その夜。

 笑美は旅館で眠った。

 文子は、その隣の部屋で、久しぶりに布団に横になった。

 まだ眠れない。

 怖さもある。

 不安もある。

 明日から何が起きるのか分からない。

 でも、襖の向こうには笑美がいる。

 その笑美は、叩かれない場所で眠っている。

 *

 文子は小さくつぶやいた。

「守るからね」

 その声は震えていた。

 けれど、もう一人ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。