旅館の小さなアイドル
後日談
小さな声を聞く家族たち
旅館の小さなアイドル
その夜から、笑美は旅館の子どもたちの中心になった。
最初は、文子の後ろに隠れていた。
けれど、一幸が折り紙の犬を渡し、茉莉と睦子が絵本を持ってきて、悠太と弥生が「いっしょにあそぼ」と声をかけるうちに、少しずつ表情がほどけていった。
*
「笑美ちゃん、これ歌える?」
茉莉が童謡を歌い始める。
睦子が手拍子をする。
一幸がなぜか指揮者のように立ち上がる。
「さん、はい!」
笑美は最初、小さな声だった。
けれど二番に入るころには、ほんの少し大きな声になっていた。
「……あるこう、あるこう」
その声を聞いて、文子は台所の隅で涙をこらえた。
笑美が、歌っている。
怒鳴られることを気にせず。
間違えても叩かれない場所で。
*
夜になると、女の子たちは七海に連れられてお風呂へ向かった。
茉莉、睦子、弥生、笑美。
お湯に浸かると、睦子が言った。
「笑美ちゃん、あひるさんどうぞ」
小さな黄色いおもちゃが湯船に浮かぶ。
笑美はそっと手を伸ばした。
「……かわいい」
茉莉が得意げに言う。
「ここのお風呂、こわくないよ」
弥生も頷く。
「あったかいよ」
笑美は湯気の中で、少しだけ笑った。
*
その夜。
子どもたちは大広間の隣の部屋に布団を並べた。
一幸が張り切って言う。
「笑美ちゃん、ここ!」
茉莉がすぐに訂正する。
「女の子同士やから、こっち」
「えー」
「一幸くんは男子チーム」
「ぼく、警備する」
「寝なさい」
麻里子が即ツッコミを入れる。
部屋に笑いが広がった。
*
笑美は、茉莉と睦子の間に入って布団に横になった。
最初は天井をじっと見ていた。
でも、隣で睦子が小さく寝息を立て始め、茉莉が眠そうに「だいじょうぶやで」とつぶやくと、笑美の肩から少し力が抜けた。
文子は襖の向こうで見守っていた。
笑美が、誰かと同じ布団の部屋で眠ろうとしている。
父親の足音に怯えずに。
怒鳴り声を待たずに。
*
一方、そのころ。
太田家。
一之介が帰宅した。
玄関を開けるなり、眉をひそめる。
「……は?」
部屋は暗い。
文子の靴もない。
笑美の小さな靴もない。
食卓には何もない。
一之介の顔がみるみる険しくなった。
「どこ行っとんねん」
*
すぐにスマホを取り出す。
文子へ発信。
出ない。
もう一度。
出ない。
さらにもう一度。
着信履歴が積み上がる。
*
その電話は、旅館の小部屋で受けられていた。
文子はスマホを握ったまま震えていた。
だが、隣には梨花がいた。
麻里子がいた。
一絵がいた。
そして、薫、陽介、克己も少し離れた位置で待機していた。
麻里子が静かに言う。
「出なくていいです」
梨花が録音機器を確認する。
「着信履歴も証拠になります」
一絵が文子の肩にそっと手を置いた。
「今は守る時間です」
*
やがて、一之介からLINEが届いた。
《どこにおるんや》
《勝手なことすんな》
《帰ってこい》
《お前、俺を怒らせたいんか》
さらに電話。
さらにLINE。
*
文子の顔色が悪くなる。
「私……出た方が……」
「出なくていい」
麻里子がきっぱり言った。
「今出たら、言葉で支配される可能性があります」
梨花は録画用のスマホを固定する。
「画面、記録します」
一絵も頷く。
「文子さんの安全が先」
*
少しして、留守番電話に音声が残った。
一之介の怒鳴り声だった。
「おい、文子。何勝手に出て行っとんねん」
「笑美も連れて行ったんか?」
「お前ほんま母親として終わってんな」
「誰のおかげで生活できてると思ってる」
「さっさと帰ってこい」
「帰ってこんかったら、どうなるか分かっとるんやろな」
*
文子の手が震える。
しかし、梨花は静かに言った。
「今の、全部録れています」
麻里子も画面を保存する。
「音声、着信履歴、LINE、全部残します」
一絵は、怒りを押し殺した声で言った。
「これが、文子さんが悪いんじゃない証拠になります」
*
電話はその後も続いた。
鬼電。
罵声。
脅し。
責任転嫁。
LINEには、文子を責める言葉が次々と並ぶ。
麻里子は一つ一つスクリーンショットを保存した。
梨花は録音データをバックアップした。
一絵は時系列をメモにまとめた。
*
その様子を見ながら、文子は涙を流した。
「私、今まで……こんな言葉を普通だと思ってました」
梨花は首を横に振った。
「普通じゃありません」
麻里子が言う。
「これは支配です」
一絵が続ける。
「そして、暴力です」
*
隣の部屋では、子どもたちが眠っていた。
笑美は、茉莉と睦子の間で、小さく丸まっていた。
手には、一幸が作った折り紙の犬。
その寝顔はまだ少し不安そうだった。
けれど、今夜は一之介の怒鳴り声は聞こえない。
誰かに叩かれることもない。
*
光博は廊下で腕を組んで立っていた。
顔は険しかった。
「これが父親の声か」
七海が静かに言う。
「違うよ。これは、子どもを怖がらせる声や」
光博は黙ってうなずいた。
*
麻里子は最後の録音を保存し、弁護士へ共有する準備を始めた。
「明日の面談で使える」
梨花も言った。
「保護命令や接近禁止の判断材料にもなる」
一絵は文子を見た。
「文子さん。怖かったですね」
文子は泣きながら頷いた。
「でも……今、初めて分かりました」
「何がですか」
「私たち、逃げてよかったんですね」
*
梨花は優しく答えた。
「はい」
麻里子も言った。
「逃げたんじゃありません」
一絵が続ける。
「笑美ちゃんを守るために、離れたんです」
*
その夜。
笑美は旅館で眠った。
文子は、その隣の部屋で、久しぶりに布団に横になった。
まだ眠れない。
怖さもある。
不安もある。
明日から何が起きるのか分からない。
でも、襖の向こうには笑美がいる。
その笑美は、叩かれない場所で眠っている。
*
文子は小さくつぶやいた。
「守るからね」
その声は震えていた。
けれど、もう一人ではなかった。




