光博の申し出
後日談
小さな声を聞く家族たち
光博の申し出
文子が「笑美を守りたい」と言ったあと。
部屋には、静かな空気が流れていた。
その時、障子の向こうから足音がした。
光博だった。
盆に温かいお茶を乗せ、ゆっくり部屋へ入ってくる。
「すまんな。話の途中に」
文子は慌てて頭を下げた。
「いえ……」
光博は文子と笑美を見た。
そして、少し間を置いて言った。
「太田さん」
「はい」
「あんたさえよかったら、うちの旅館で働かんか?」
文子は目を見開いた。
「え……」
*
光博は、照れ隠しのように頭をかいた。
「これから色々動くにも、先立つものもいるやろ」
文子は言葉を失っていた。
「でも、私……」
「もちろん、無理にとは言わん」
光博は続ける。
「ただ、住む場所、働く場所、子どもを安心して見られる場所。その三つが揃わんと、なかなか踏み出せん」
七海が静かにうなずく。
光博は少し笑った。
「それに、うちも正直助かるんや」
*
「女将をやってもらえんか?」
文子は息をのんだ。
「女将……ですか?」
「いきなり全部任せるわけやない。七海について、少しずつ覚えてもらえばええ」
七海が苦笑した。
「私も年重ねてきてね。最近、疲れが抜けんのよ」
光博が横目で言う。
「本人はまだ若いつもりやけどな」
「余計なこと言わんでよろしい」
部屋に少し笑いがこぼれた。
*
文子は、笑美を抱きしめたまま俯いた。
「でも……私なんかが……」
その言葉に、梨花がすぐ首を横に振る。
「文子さん」
麻里子も言った。
「“私なんか”は、なしです」
一絵も静かに続ける。
「ここにいる人、みんな一度はそう思ったことあります。でも、それでも働いて、生きて、笑えるようになりました」
*
光博は、文子を責めない声で言った。
「旅館の仕事は簡単やない」
「はい……」
「お客さんの前に立つ仕事や。気も遣う。覚えることも多い。時には失敗もする」
文子は小さくうなずいた。
「でもな」
光博の声が少し優しくなる。
「人の痛みを知っとる人は、人に優しくできる」
文子の目が揺れた。
*
「うちの旅館に必要なのは、完璧な人間やない」
光博は言った。
「お客さんに、安心してもらえる人や」
七海も文子に微笑む。
「笑美ちゃんも、ここなら大人の目がたくさんある。学校や保育のことも、みんなで考えられる」
笑美が文子の服を握った。
「ママ、おしごと?」
文子は涙をこらえながら笑美を見た。
「うん……そうかもしれない」
*
麻里子が明るく言う。
「大丈夫。女将研修には、恋愛捜査官の厳しいチェックは入りません」
梨花が即座にツッコむ。
「入れないで」
一絵も笑う。
「入れたら旅館つぶれる」
「ちょっと!」
麻里子が抗議し、部屋に久しぶりの笑いが広がった。
*
文子はその笑い声を聞きながら、ぽろぽろ涙をこぼした。
責められていない。
追い詰められていない。
ここには、大きな声で怒鳴る人がいない。
笑美が怯えずに息をしている。
それだけで、胸がいっぱいだった。
*
「本当に……いいんですか」
文子が震える声で聞いた。
光博は即答した。
「いい」
七海も頷く。
「来てくれたら、私も助かる」
梨花が言った。
「働くことは、文子さんが自分の足で立つ力になります」
麻里子も続ける。
「法的なことは一緒に進める。生活のことも一緒に整える」
一絵が笑美に向けて微笑んだ。
「笑美ちゃんも、ここでご飯食べようね」
*
笑美は小さく聞いた。
「おこらない?」
光博は少し屈んで、笑美の目線に合わせた。
「怒鳴らんよ」
笑美はじっと見た。
「たたかない?」
部屋が静まった。
光博は、はっきり言った。
「叩かない」
笑美の目に涙が浮かぶ。
「ほんと?」
「ほんとや」
*
笑美は文子の胸に顔をうずめた。
文子は娘を抱きしめながら、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……」
光博は少し困ったように笑った。
「礼は、まだ早い。これから一緒に頑張るんや」
七海が優しく言う。
「まずは、温かいご飯食べましょう」
*
その夜。
文子と笑美は、旅館の食卓についた。
湯気の立つ味噌汁。
柔らかく炊いたご飯。
笑美のために小さく切られた魚。
文子は箸を持つ手が震えていた。
でも、笑美はひと口食べて、小さく言った。
「おいしい」
それを聞いた文子は、また泣いた。
*
光博は厨房の方を向き、ぶっきらぼうに言った。
「よし。まずは食べることからや」
七海が隣で笑う。
「また照れてる」
「照れてない」
麻里子が小声で言った。
「照れてますね」
梨花が頷く。
「完全に照れてる」
一絵も笑った。
「光博さんらしい」
*
文子は、その光景を見て思った。
家族とは、怖い場所ではない。
怒鳴り声が響く場所でもない。
誰か一人が我慢し続ける場所でもない。
安心してご飯を食べられる場所。
泣いても責められない場所。
明日の話をしてもいい場所。
そういう場所なのだと。
*
そしてその日、文子は初めて小さく言った。
「私……ここで働きたいです」
光博は静かにうなずいた。
「よし」
七海が笑った。
「明日から、まずはお茶の出し方からね」
文子は涙を拭きながら返事をした。
「はい」
笑美は母の隣で、折り紙の犬を抱きしめていた。
その顔は、まだ完全な笑顔ではなかった。
でも、ほんの少しだけ。
安心に近づいていた。




