体験を言葉に変えて
小さな声を聞く家族たち
体験を言葉に変えて
旅館の奥の小部屋。
その日、太田文子は笑美を膝の上に抱いて座っていた。
向かいには、梨花、麻里子、一絵。
そして、それぞれの夫である薫、陽介、克己も同席していた。
部屋には、責める空気はなかった。
ただ、静かに寄り添う空気だけがあった。
*
最初に口を開いたのは、梨花だった。
「文子さん。私も昔、夫だった人から暴言を受けました」
文子が顔を上げる。
「看護師の仕事を馬鹿にされたこともあります。私自身を否定されるような言葉も、何度も浴びました」
梨花は一度、息を整えた。
「最初は、自分が悪いのかと思いました。でも違いました」
隣で薫が静かに頷く。
梨花は言った。
「誰も、暴力を振るわれていい人なんかいません」
*
次に麻里子が話した。
「私は、姉が壊されていくのを見ていました」
声は落ち着いていた。
けれど、言葉の奥には当時の痛みが残っていた。
「笑い方が変わって、声が小さくなって、すぐ謝るようになって。あの時、私は思いました。これは夫婦げんかじゃない。人の心を削る行為だって」
陽介がそっと麻里子の手に触れた。
麻里子は文子を見た。
「罵声を浴びせられていい人なんか、どこにもいません」
*
一絵は、笑美を見つめながら言った。
「私は、嘘をつかれていました」
文子は黙って聞いていた。
「独身だと信じていた人に騙されて、人生を壊されかけました。お腹に子どもがいると分かった時も、怖かったです」
克己が隣で静かに座っている。
一絵は続けた。
「でも、私が悪かったわけじゃなかった。私の子どもも、何も悪くなかった」
そして、笑美に向けて優しく言った。
「笑美ちゃんも、悪くないよ」
*
笑美は、母の服を握ったまま小さく聞いた。
「えみ、わるくない?」
梨花がしゃがんだ。
「悪くない」
麻里子も言った。
「全然悪くない」
一絵も微笑んだ。
「笑美ちゃんは、大切にされていい子やよ」
笑美の目に涙が浮かぶ。
文子は娘を抱きしめた。
*
薫が静かに口を開いた。
「文子さん。暴力を受けた人が、すぐに強く動けるとは限りません。怖くて当然です。迷って当然です」
陽介も続けた。
「でも、迷っているから弱いわけではありません。ここに来たこと自体が、もう大きな一歩です」
克己は短く言った。
「守るために逃げることは、恥ではありません」
*
文子は泣きながら言った。
「私……ずっと、我慢すれば家庭が続くと思ってました」
梨花は首を横に振った。
「我慢だけで続く家庭は、安心できる場所ではありません」
麻里子が言う。
「家族って、誰か一人が殴られて、罵られて、怖がりながら保つものじゃないです」
一絵も続けた。
「子どもが父親の足音に怯える家は、安全な家じゃありません」
*
文子は笑美の頭を撫でた。
「私、笑美を守りたいです」
梨花は頷いた。
「それでいいんです」
麻里子が力強く言う。
「その気持ちを、手続きにつなげましょう」
一絵も言った。
「一人ではなく、みんなで」
*
笑美が、小さな声で言った。
「ママ、こわくない?」
文子は涙を拭きながら答えた。
「怖いよ」
笑美が母を見上げる。
文子は震えながらも、はっきり言った。
「でも、ママ、笑美を守る」
*
その言葉に、部屋の全員が静かに頷いた。
誰も、暴力を振るわれていい人はいない。
誰も、罵声を浴びせられていい人はいない。
誰も、自分を責めながら生き続けなくていい。
*
梨花は文子に言った。
「ここから先は、怖い日もあると思います。でも、私たちは離れません」
麻里子が続ける。
「証拠も、手続きも、安全確保も、順番にやります」
一絵は笑美に折り紙の犬を渡した。
「笑美ちゃんは、安心して眠れる場所に行こうね」
笑美は小さく頷いた。
「うん」
*
その「うん」は、とても小さかった。
けれど、確かに前へ進む音だった。




