若女将の一年
若女将の一年
篠田旅館で働き始めた頃、板山文子は何度も同じ不安を口にした。
「七海さん……私にできるでしょうか」
帳場で予約帳を前にした時。
客室の花を活け直した時。
外国人客から急に英語で質問された時。
料理の説明を間違えそうになった時。
そのたびに、七海はすぐ答えを出さず、まず文子の手元を見た。
「文子さん、仕事は丁寧やよ」
「でも……」
「焦らんでええ。女将の仕事は、急にできるようになるもんやない」
七海は時に厳しかった。
「お客様の前で不安な顔をしすぎたら、お客様も不安になるよ」
「はい」
「分からん時は、ごまかさずに確認する。旅館の信用は、そういうところで決まるんよ」
文子は何度も頭を下げた。
*
けれど、七海は厳しいだけではなかった。
夜、帳場の灯りを落としたあと、文子が落ち込んでいると、そっと温かいお茶を置いてくれた。
「私もね、最初は畑違いの仕事からここへ来たんよ」
「七海さんが?」
「そう。夫と知り合って、嫁いで、この旅館の女将になった」
文子は驚いた。
「最初から何でもできたわけじゃないんですか?」
七海は笑った。
「できるわけないやん。電話一本取るのも緊張してた」
文子の表情が少し緩む。
「先代の女将さんがね、丁寧に教えてくれたんよ」
七海は懐かしそうに話した。
「私が間違えた時は、叱るところは叱る。でも、お客様の前ではそっとフォローしてくれた」
「……」
「そして後で言うの。『あなたの仕事は丁寧やから大丈夫。できるようになるよ』って」
文子は、その言葉をじっと聞いていた。
七海は文子を見た。
「だから、私も同じことを言うね」
少し間を置く。
「文子さん、大丈夫。できるよ」
*
その日から、文子は少しずつ変わっていった。
失敗しても、すぐに自分を責めすぎない。
分からないことは聞く。
覚えたことはメモする。
お客様の表情を見る。
子ども連れの客には、笑美の経験を思い出しながら、先に小さな椅子や取り分け皿を用意する。
外国人客には、清水寺、祇園、宇治、嵐山への行き方を英語で丁寧に案内する。
高齢の客が段差で立ち止まれば、すぐに声をかける。
篠田旅館の中で、文子の動きは少しずつ女将らしくなっていった。
*
一年が過ぎた。
春の朝。
文子は玄関先で、宿泊客を見送っていた。
「また京都へお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ」
背筋は伸びていた。
声は柔らかく、落ち着いていた。
お客様が笑顔で言った。
「文子さんのおかげで、安心して過ごせました」
文子は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
*
その様子を、少し離れた場所で七海と光博が見ていた。
光博がぽつりと言う。
「立派になったな」
七海は静かにうなずいた。
「うん。もう、若女将の顔やね」
文子が戻ってくる。
「七海さん、次のお客様の準備、確認してきます」
七海は微笑んだ。
「お願いね、文子さん」
「はい」
迷いのない返事。
その背中を見送りながら、七海は小さくつぶやいた。
「先代の女将さん、見てくれてるかな」
光博が笑う。
「見てるやろ。きっと言うてるわ」
「何て?」
「ええ若女将を育てたなって」
七海は少し照れたように笑った。
*
その日の夕方。
幼稚園から帰ってきた笑美が、玄関へ駆け込んできた。
「お母さーん!」
文子は振り向き、笑顔で迎える。
「おかえり、笑美」
「ただいま!」
笑美は文子の着物姿を見上げて言った。
「お母さん、女将さんみたい!」
文子は少し笑う。
「まだまだ若女将やよ」
笑美は胸を張った。
「じゃあ、えみは若芸人!」
光博が奥から吹き出す。
「親子そろって若いなぁ」
七海が笑う。
「ええことやね」
*
文子は笑美を抱きしめながら、旅館の玄関を見る。
ここに来た時、自分は壊れかけていた。
でも今は、お客様を迎え、娘を抱きしめ、明日の仕事を考えている。
守られるだけだった場所が、いつしか自分も守る場所になっていた。
文子は静かに思った。
私は、ここで生きていく。
篠田旅館の若女将として。
そして、笑美の母として。




