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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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若女将への第一歩

 若女将への第一歩


 春の京都。


 篠田旅館の朝は、今日も静かに始まる。


 玄関を掃き清める板山文子。


 打ち水を終えると、石畳が朝日にきらりと光った。


「文子さん、おはよう。」


 女将・篠田七海が笑顔で声をかける。


「おはようございます。」


 文子は深く頭を下げた。


 離婚から数か月。


 篠田旅館で働き始めてからも、毎日が勉強だった。


 客室の準備。


 お茶の出し方。


 季節の花の飾り方。


 電話応対。


 予約帳の確認。


 外国人観光客への案内。


 料理名の説明。


 何一つ簡単な仕事はない。


 *


 七海は帳場で帳簿を閉じると、文子へ声をかけた。


「文子さん。」


「はい。」


「今度ね、京都市内の旅館の女将さんたちが集まる会があるんよ。」


「女将さんの集まりですか?」


「うん。」


「情報交換もあるし、お互いの旅館の取り組みを紹介したり、新人さんの紹介をしたり。」


 文子は驚いた。


「えっ……。」


「一緒に行こう。」


 文子は思わず首を横に振る。


「いやいやいや。」


「私みたいな、まだ半人前にもなってないペイペイが行ってもいいんですか?」


 七海は吹き出した。


「ペイペイって。」


 その声を聞いた篠田光博が奥から顔を出す。


「なんや、電子決済の話か思たわ。」


 三人とも思わず笑った。


 文子は照れ笑いを浮かべる。


「新人って言いたかったんです。」


 光博は優しく頷いた。


「文子さん。」


「はい。」


「行っといで。」


「……。」


「文子さんを知ってもらう、ええ機会や。」


「若女将として歩き始めるには、人とのつながりも大事やからな。」


 文子は少し考えたあと、頭を下げた。


「よろしくお願いします。」


 *


 数日後。


 会場となったのは、京都市内の老舗旅館。


 広間には、京都各地の旅館の女将たちが集まっていた。


 東山区。


 下京区。


 中京区。


 上京区。


 伏見。


 嵐山。


 それぞれの旅館を代表する女将たち。


 文子は緊張していた。


「七海さん……。」


「なに?」


「心臓の音、外まで聞こえてません?」


「聞こえてへん、聞こえてへん。」


 *


 会が始まる。


 七海が立ち上がった。


「皆さん、いつもお世話になっております。


 篠田旅館の篠田七海です。」


 全員が会釈する。


「今日は、一人紹介したい人がおります。」


 文子が立ち上がる。


「篠田旅館で若女将候補として働かせていただいております、


 板山文子と申します。


 まだまだ勉強中ですが、どうぞよろしくお願いいたします。」


 深々と頭を下げる。


 *


 すると。


 下京区の旅館の女将が笑顔になった。


「あら。」


「新しい若女将さん?」


「はい。」


「知ってるわよ。」


 文子は驚いた。


「え?」


 女将は楽しそうに笑う。


「娘さん、板山笑美ちゃんでしょう?」


「はい。」


「うちの息子と同じ幼稚園なの。」


 文子の目が丸くなる。


「そうなんですか?」


「ええ。」


「家へ帰るたびにね。」


「『今日も笑美ちゃんがギャグコントやってくれた!』って話してるの。」


 広間に笑いが広がる。


 *


「じゃがいものやつ?」


 東山区の女将が笑う。


「そうそう!」


 下京区の女将が頷く。


「"あっついねん!"


 "なんでやねん!"


 って、家でも真似してるんですよ。」


 別の女将も笑いながら言う。


「うちの孫まで真似してるわ。」


 文子は恥ずかしそうに笑った。


「すみません……。」


「娘が騒がしくて……。」


 下京区の女将は首を振る。


「謝ることないわ。」


「笑美ちゃんがいる日は、教室が明るくなるって、息子がいつも言ってる。」


 文子は胸が熱くなった。


 あの子が。


 毎晩うなされていた笑美が。


 今は誰かを笑顔にしている。


 *


 会は和やかに進んでいく。


 外国人観光客への対応。


 アレルギー対応。


 子ども連れへのおもてなし。


 災害時の避難誘導。


 京都らしい季節のおもてなし。


 文子は夢中でメモを取っていた。


 *


 休憩時間。


 東山区の女将が声をかける。


「文子さん。」


「はい。」


「英語が得意なんですって?」


 七海が笑う。


「この前、イギリスからのお客様を清水寺まで案内してくれたんよ。」


 何人もの女将が感心した。


「それは心強いわ。」


「海外のお客様、どんどん増えてるものね。」


 文子は照れながら答える。


「まだまだです。」


「もっと勉強しないと。」


 *


 すると。


 下京区の女将が優しく微笑んだ。


「その"まだまだ"って思える人は伸びる。」


 文子は驚いた。


「え?」


「女将ってね。」


「全部知ってる人じゃないの。」


「毎日学び続ける人なの。」


 文子は静かに頷いた。


「はい。」


 *


 帰り道。


 京都の町並みを歩きながら、


 七海が聞いた。


「どうやった?」


 文子は少し笑った。


「すごく緊張しました。」


「うん。」


「でも……。」


「女将って、お客様を迎えるだけじゃないんですね。」


「そう。」


「安心して過ごしてもらえる空気を作る仕事なんですね。」


 七海は嬉しそうに頷く。


「その答えに、自分で気づけたなら今日は百点や。」


 *


 篠田旅館へ帰ると、


 玄関から元気な声が聞こえた。


「お母さーーん!」


 笑美が走ってくる。


 文子はしゃがみ込んで抱きしめた。


「ただいま。」


「どうやった?」


 笑美は興味津々。


 文子は笑いながら言う。


「笑美の話が出たよ。」


「えっ?」


「幼稚園のお友達のお母さんがいてね。」


「笑美ちゃんのギャグコント、毎日家で話してますよって。」


 笑美は目を丸くする。


「えみ、有名人?」


 奥で聞いていた光博が笑う。


「京都じゃがいも大使やな。」


 笑美は得意げに胸を張る。


「こんどは、たまねぎさんやる!」


 旅館中が笑いに包まれた。


 その笑い声を聞きながら文子は思う。


(まだ半人前。)


(でも、一歩ずつでいい。)


(いつか胸を張って、『篠田旅館の女将です』と言える日まで。)


 若女将への道は、ゆっくりと、しかし確かに始まっていた。

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