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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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四十年先の支払い

第○話


四十年先の支払い


 一之介は、夜の倉庫の休憩所で、スマホのメモを見つめていた。


 毎月十五万円。


 慰謝料。


 養育費。


 通院費。


 探偵費用。


 弁護士費用。


 文子と笑美に負わせた傷の代償。


 均等割で支払いを続けても、終わるのは四十年先。


 その時、自分は六十八歳。


「……四十年」


 声に出した瞬間、背中が冷たくなった。


     *


 日雇いの仕事で稼げるのは、多くても月十六万から十八万円。


 ボーナスはない。


 雨で現場が飛べば、その分だけ収入は減る。


 体調を崩せば、すぐに支払いが詰まる。


 十五万円を払えば、手元にはほとんど残らない。


 食費。


 交通費。


 作業着。


 靴。


 携帯代。


 何を削っても足りない。


     *


 小売店で働いていた頃は違った。


 毎月三十五万から四十万円の給料があった。


 ボーナスもあった。


 普通に働き、普通に暮らしていれば、文子と笑美を養うことはできた。


 家族で外食もできた。


 笑美に新しい服も買えた。


 文子に「いつもありがとう」と花を買うこともできた。


 でも、そうはしなかった。


     *


 金は、桃との時間に消えていった。


 飲食店。


 ホテル代。


 プレゼント。


 車での移動。


 嘘をつくための出費。


 家庭から目をそらすための時間。


 そのすべてが、今になって一之介の首を絞めていた。


「なんで……」


 倉庫の壁にもたれかかる。


「なんで止められへんかったんや」


     *


 なぜ、あんな関係を続けたのか。


 なぜ、文子と別れてからにしなかったのか。


 なぜ、笑美に手を上げたのか。


 なぜ、四歳の娘に暴言を吐いたのか。


 なぜ、文子に罵声を浴びせ続けたのか。


 なぜ、自分の家庭を壊すところまで行ってしまったのか。


 今となっては、自分でも理解できなかった。


     *


 けれど、理解できないから責任が消えるわけではない。


 診断書。


 録音。


 探偵報告書。


 離婚届。


 接近禁止命令。


 すべてが現実として残っている。


 文子は戻らない。


 笑美には会えない。


 父親と名乗ることすら、今の自分には重すぎた。


     *


 休憩所の端で、同じ現場の作業員が弁当を食べていた。


「太田、顔色悪いぞ」


 一之介は小さく笑った。


「大丈夫っす」


 大丈夫ではなかった。


 全然、大丈夫ではなかった。


 でも、誰かに泣きつく資格もない。


 自分で壊した。


 自分で逃げた。


 自分で嘘を重ねた。


 その結果が、毎月十五万円として目の前にある。


     *


 帰り道。


 コンビニの前で、一之介は立ち止まった。


 弁当を買う金すら惜しい。


 昔なら何も考えずに買っていた。


 今は値引きシールの貼られたおにぎりを一つ選ぶだけで迷う。


「……情けな」


 袋を手に、夜道を歩く。


     *


 ふと、笑美の顔が浮かんだ。


 泣きながら「ごめんなさい」と言っていた顔。


 自分の足音に怯えていた顔。


 あの小さな頬を、平手で叩いた感触。


 一之介は足を止めた。


 胃の奥がひっくり返るようだった。


「俺、何してん……」


 初めて、本当の意味で言葉が出た。


 文子に向けた言い訳ではない。


 桃に向けた怒りでもない。


 親に向けた不満でもない。


 自分自身へ向けた、問いだった。


     *


 四十年。


 長すぎる。


 終わりが見えない。


 でも、それは文子と笑美が受けた傷の時間に比べれば、軽いと言われても仕方がないのかもしれなかった。


 一之介は、値引きのおにぎりを握ったまま、夜空を見上げた。


 何も戻らない。


 でも、支払いだけは逃げられない。


 その重さだけが、今の一之介に残された現実だった。

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