笑美の笑顔と残った傷
笑美の笑顔と、残った傷
幼稚園から帰ると、旅館は一気に賑やかになる。
「笑美ちゃん、おかえり!」
「今日は何のコントしたん?」
「じゃがいも? にんじん? たまねぎ?」
子どもたちは毎日のように笑美を囲んだ。
笑美は靴を脱ぐなり、胸を張る。
「今日はね、にんじんさんの気持ち!」
一幸が即座に手を叩く。
「はい、開演!」
茉莉と睦子が座布団を並べ、悠太と弥生も前列に座る。
笑美は手を腰に当てた。
「わたし、にんじんです。畑でオレンジ色に育ってたら、いきなり引っこ抜かれました」
「また抜かれた!」
一幸がツッコむ。
「しかも、カレーにされると思ったら、今日は肉じゃがでした。にんじん界にも予定というものがあるんです!」
子どもたちは大爆笑。
文子は台所からその声を聞きながら、そっと笑った。
*
一方で、太田一之介と堀川桃の生活は、すっかり変わっていた。
あの話し合いの後、二人の関係は急速に冷え込んだ。
「お前が余計なこと言ったからやろ!」
「いっちゃんが奥さんと別れるって言ったんやん!」
「お前がしつこかったんや!」
「奥さんおるのに手を出したんは誰よ!」
責任の押し付け合い。
不毛な言い争い。
かつて甘い言葉を交わしていた二人は、今では顔を合わせれば怒鳴り合う関係になっていた。
職も失った。
再就職もうまくいかない。
慰謝料は一括で支払ったため、多額の借り入れが残った。
さらに探偵費用、弁護士費用、通院費、交通費、養育費。
請求は現実として二人の前に積み上がっていた。
*
一之介は実家に戻った。
桃も実家に戻った。
しかし、両親は援助しなかった。
太田泰介は一之介に言った。
「住む場所は貸す。飯も最低限は出す。だが、金は出さん」
「お前が壊したもんの責任は、お前が果たせ」
愛弓も涙をこらえながら告げた。
「甘えさせることは、もうできない」
堀川学も桃に厳しく言った。
「被害者ぶるな」
「文子さんと笑美ちゃんの人生を踏みにじった責任を、働いて返せ」
桃は何も言い返せなかった。
二人は朝から夜遅くまで、日雇いの仕事で食いつないだ。
体は疲れる。
金は残らない。
それでも、責任は消えない。
*
一方、文子と笑美には、少しずつ穏やかな時間が戻っていた。
時々、文子は笑美を連れて実家の板山家へ帰る。
父の恭介と母の春奈は、笑美を見るなり顔がゆるむ。
「笑美〜!」
「じいじ!」
「ばあば!」
笑美が駆け寄ると、恭介はもう完全に甘々だった。
「今日は何食べたい? プリンか? ケーキか? それとも全部か?」
春奈がすぐに止める。
「全部はあかん。晩ごはん食べられんようになる」
「孫が食べたい言うたら出すのが祖父の使命や」
「使命を勝手に作らんといて」
文子はそのやり取りを見て笑った。
*
休日には、みんなで出かけた。
清水寺。
石畳の坂道を、笑美は文子と手をつないで歩く。
「お母さん、ここ、ひといっぱい」
「そうやね。ゆっくり歩こうね」
宇治の平等院鳳凰堂では、水面に映る建物を見て、笑美が目を丸くした。
「おうちが、お水にうつってる!」
保津川下りでは、船が揺れるたびに笑美がきゃあっと笑う。
「お母さん、川さん速い!」
文子は娘を抱き寄せた。
笑美が笑っている。
ただそれだけで、胸がいっぱいになった。
*
幼稚園でも、笑美は人気者だった。
「今日は、たまねぎさんの気持ち!」
教室の真ん中で、笑美が始める。
「わたし、たまねぎです。皮をむかれるたびに、みんな泣くんです。でも泣きたいのはこっちです!」
園児たちは大爆笑。
担任の先生もまたお腹を押さえる。
「あいたたた……笑美ちゃん、先生また腹筋が……」
笑美は得意そうに言う。
「先生、きたえなあかんで」
教室はさらに爆笑した。
*
けれど、傷は完全に消えたわけではなかった。
ある夜。
笑美は布団の中で突然うなされた。
「いや……」
小さな声。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
文子は飛び起きた。
「笑美」
笑美の額には汗がにじんでいた。
「叩かないで……」
文子の胸が締めつけられる。
すぐに抱きしめた。
「大丈夫。ママここにいるよ」
笑美は目を覚まし、泣きながら文子にしがみついた。
「ママ……」
「うん。ママいるよ」
「こわかった」
「怖かったね。もう大丈夫」
文子は何度も背中を撫でた。
*
幼稚園でも、時々それは起きた。
大きな音がした時。
男の先生が少し大きな声を出した時。
笑美は急に固まってしまうことがあった。
ある日、積み木が崩れて大きな音を立てた。
笑美はその場にしゃがみ込み、耳を塞いだ。
「ごめんなさい……」
担任の先生はすぐに駆け寄った。
無理に立たせない。
まず、笑美の近くに座る。
「笑美ちゃん、大丈夫」
笑美は震えていた。
先生は優しく抱きしめた。
「怖かったね」
「痛かったね」
「でも、ここでは誰も叩かないよ」
*
周りの園児たちも、自然に集まってきた。
「笑美ちゃん、大丈夫やで」
「こわくないよ」
「先生おるよ」
「うちらもおるよ」
茉莉のように面倒見のいい女の子が、そっとハンカチを差し出す。
「これ、つかって」
笑美は涙を拭いた。
「……ありがとう」
先生は、笑美の背中を撫でながら言った。
「泣いてもいいよ。びっくりした時は、泣いていいんだよ」
*
その日の帰り。
先生は文子に事情を伝えた。
文子は深く頭を下げた。
「すみません……」
先生はすぐに首を振った。
「謝らないでください」
「笑美ちゃんは、頑張っています」
文子の目に涙が浮かぶ。
「まだ、怖いんですね」
「はい。でも、怖い時に『怖い』と出せるようになってきています。それは大事なことです」
先生は優しく笑った。
「笑美ちゃんは、笑わせる力もあるけれど、泣いても助けを求められる力も育っています」
*
文子は帰り道、笑美と手をつないだ。
「今日、怖かった?」
笑美は小さくうなずいた。
「うん」
「そっか」
「でも、先生ぎゅーしてくれた」
「うん」
「みんな、大丈夫って言ってくれた」
文子はしゃがんで、笑美を抱きしめた。
「よかったね」
笑美は文子の胸に顔をうずめる。
「お母さん」
「なあに?」
「笑美、泣いてもいい?」
文子は涙をこらえて微笑んだ。
「もちろん」
「泣いても、笑っても、笑美は笑美やよ」
*
その夜、旅館ではまた賑やかな夕食が始まった。
一幸が味噌汁をこぼしかけ、麻里子が「現場検証!」と叫び、梨花が笑い、一絵が呆れ、光博が「今日も平和やな」とつぶやく。
笑美はその輪の中で、小さく笑った。
傷はまだ残っている。
時々、顔を出す。
でも、そのたびに、抱きしめてくれる人がいる。
「大丈夫」と言ってくれる友達がいる。
泣いてもいい場所がある。
そして、笑ってもいい場所がある。
笑美の名前に込められた願いは、そうやって少しずつ、毎日の中で守られていった。




