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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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笑美の笑顔と残った傷

 


 笑美の笑顔と、残った傷


 幼稚園から帰ると、旅館は一気に賑やかになる。


「笑美ちゃん、おかえり!」


「今日は何のコントしたん?」


「じゃがいも? にんじん? たまねぎ?」


 子どもたちは毎日のように笑美を囲んだ。


 笑美は靴を脱ぐなり、胸を張る。


「今日はね、にんじんさんの気持ち!」


 一幸が即座に手を叩く。


「はい、開演!」


 茉莉と睦子が座布団を並べ、悠太と弥生も前列に座る。


 笑美は手を腰に当てた。


「わたし、にんじんです。畑でオレンジ色に育ってたら、いきなり引っこ抜かれました」


「また抜かれた!」


 一幸がツッコむ。


「しかも、カレーにされると思ったら、今日は肉じゃがでした。にんじん界にも予定というものがあるんです!」


 子どもたちは大爆笑。


 文子は台所からその声を聞きながら、そっと笑った。


 *


 一方で、太田一之介と堀川桃の生活は、すっかり変わっていた。


 あの話し合いの後、二人の関係は急速に冷え込んだ。


「お前が余計なこと言ったからやろ!」


「いっちゃんが奥さんと別れるって言ったんやん!」


「お前がしつこかったんや!」


「奥さんおるのに手を出したんは誰よ!」


 責任の押し付け合い。


 不毛な言い争い。


 かつて甘い言葉を交わしていた二人は、今では顔を合わせれば怒鳴り合う関係になっていた。


 職も失った。


 再就職もうまくいかない。


 慰謝料は一括で支払ったため、多額の借り入れが残った。


 さらに探偵費用、弁護士費用、通院費、交通費、養育費。


 請求は現実として二人の前に積み上がっていた。


 *


 一之介は実家に戻った。


 桃も実家に戻った。


 しかし、両親は援助しなかった。


 太田泰介は一之介に言った。


「住む場所は貸す。飯も最低限は出す。だが、金は出さん」


「お前が壊したもんの責任は、お前が果たせ」


 愛弓も涙をこらえながら告げた。


「甘えさせることは、もうできない」


 堀川学も桃に厳しく言った。


「被害者ぶるな」


「文子さんと笑美ちゃんの人生を踏みにじった責任を、働いて返せ」


 桃は何も言い返せなかった。


 二人は朝から夜遅くまで、日雇いの仕事で食いつないだ。


 体は疲れる。


 金は残らない。


 それでも、責任は消えない。


 *


 一方、文子と笑美には、少しずつ穏やかな時間が戻っていた。


 時々、文子は笑美を連れて実家の板山家へ帰る。


 父の恭介と母の春奈は、笑美を見るなり顔がゆるむ。


「笑美〜!」


「じいじ!」


「ばあば!」


 笑美が駆け寄ると、恭介はもう完全に甘々だった。


「今日は何食べたい? プリンか? ケーキか? それとも全部か?」


 春奈がすぐに止める。


「全部はあかん。晩ごはん食べられんようになる」


「孫が食べたい言うたら出すのが祖父の使命や」


「使命を勝手に作らんといて」


 文子はそのやり取りを見て笑った。


 *


 休日には、みんなで出かけた。


 清水寺。


 石畳の坂道を、笑美は文子と手をつないで歩く。


「お母さん、ここ、ひといっぱい」


「そうやね。ゆっくり歩こうね」


 宇治の平等院鳳凰堂では、水面に映る建物を見て、笑美が目を丸くした。


「おうちが、お水にうつってる!」


 保津川下りでは、船が揺れるたびに笑美がきゃあっと笑う。


「お母さん、川さん速い!」


 文子は娘を抱き寄せた。


 笑美が笑っている。


 ただそれだけで、胸がいっぱいになった。


 *


 幼稚園でも、笑美は人気者だった。


「今日は、たまねぎさんの気持ち!」


 教室の真ん中で、笑美が始める。


「わたし、たまねぎです。皮をむかれるたびに、みんな泣くんです。でも泣きたいのはこっちです!」


 園児たちは大爆笑。


 担任の先生もまたお腹を押さえる。


「あいたたた……笑美ちゃん、先生また腹筋が……」


 笑美は得意そうに言う。


「先生、きたえなあかんで」


 教室はさらに爆笑した。


 *


 けれど、傷は完全に消えたわけではなかった。


 ある夜。


 笑美は布団の中で突然うなされた。


「いや……」


 小さな声。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 文子は飛び起きた。


「笑美」


 笑美の額には汗がにじんでいた。


「叩かないで……」


 文子の胸が締めつけられる。


 すぐに抱きしめた。


「大丈夫。ママここにいるよ」


 笑美は目を覚まし、泣きながら文子にしがみついた。


「ママ……」


「うん。ママいるよ」


「こわかった」


「怖かったね。もう大丈夫」


 文子は何度も背中を撫でた。


 *


 幼稚園でも、時々それは起きた。


 大きな音がした時。


 男の先生が少し大きな声を出した時。


 笑美は急に固まってしまうことがあった。


 ある日、積み木が崩れて大きな音を立てた。


 笑美はその場にしゃがみ込み、耳を塞いだ。


「ごめんなさい……」


 担任の先生はすぐに駆け寄った。


 無理に立たせない。


 まず、笑美の近くに座る。


「笑美ちゃん、大丈夫」


 笑美は震えていた。


 先生は優しく抱きしめた。


「怖かったね」


「痛かったね」


「でも、ここでは誰も叩かないよ」


 *


 周りの園児たちも、自然に集まってきた。


「笑美ちゃん、大丈夫やで」


「こわくないよ」


「先生おるよ」


「うちらもおるよ」


 茉莉のように面倒見のいい女の子が、そっとハンカチを差し出す。


「これ、つかって」


 笑美は涙を拭いた。


「……ありがとう」


 先生は、笑美の背中を撫でながら言った。


「泣いてもいいよ。びっくりした時は、泣いていいんだよ」


 *


 その日の帰り。


 先生は文子に事情を伝えた。


 文子は深く頭を下げた。


「すみません……」


 先生はすぐに首を振った。


「謝らないでください」


「笑美ちゃんは、頑張っています」


 文子の目に涙が浮かぶ。


「まだ、怖いんですね」


「はい。でも、怖い時に『怖い』と出せるようになってきています。それは大事なことです」


 先生は優しく笑った。


「笑美ちゃんは、笑わせる力もあるけれど、泣いても助けを求められる力も育っています」


 *


 文子は帰り道、笑美と手をつないだ。


「今日、怖かった?」


 笑美は小さくうなずいた。


「うん」


「そっか」


「でも、先生ぎゅーしてくれた」


「うん」


「みんな、大丈夫って言ってくれた」


 文子はしゃがんで、笑美を抱きしめた。


「よかったね」


 笑美は文子の胸に顔をうずめる。


「お母さん」


「なあに?」


「笑美、泣いてもいい?」


 文子は涙をこらえて微笑んだ。


「もちろん」


「泣いても、笑っても、笑美は笑美やよ」


 *


 その夜、旅館ではまた賑やかな夕食が始まった。


 一幸が味噌汁をこぼしかけ、麻里子が「現場検証!」と叫び、梨花が笑い、一絵が呆れ、光博が「今日も平和やな」とつぶやく。


 笑美はその輪の中で、小さく笑った。


 傷はまだ残っている。


 時々、顔を出す。


 でも、そのたびに、抱きしめてくれる人がいる。


「大丈夫」と言ってくれる友達がいる。


 泣いてもいい場所がある。


 そして、笑ってもいい場所がある。


 笑美の名前に込められた願いは、そうやって少しずつ、毎日の中で守られていった。

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