おかえり
おかえり
夕暮れ。
旅館の玄関の暖簾が静かに揺れる。
ガラガラ――。
引き戸が開いた。
文子が、ゆっくりと中へ入る。
長い一日だった。
精神的にも体力的にも、限界に近かった。
その時だった。
「おかあさーん!」
廊下の向こうから、小さな足音が駆け寄ってくる。
笑美だった。
満面の笑顔。
両手を大きく広げながら飛び込んでくる。
「お母さん、おかえり〜!」
文子はしゃがみ込み、その小さな体を思いきり抱きしめた。
「……帰ってきたよ。」
笑美をぎゅっと抱きしめる。
その温もりを感じた瞬間。
今日一日張り詰めていた心が、一気にほどけていった。
「ただいま、笑美。」
「えへへ。」
笑美も、小さな腕で母の首にぎゅっとしがみつく。
「お母さん、だいすき。」
文子は笑いながら涙を流した。
「ママも、笑美が大好き。」
*
その様子を少し離れたところで見守っていた光博が、穏やかに声をかけた。
「文子さん。」
文子が振り向く。
「今日は疲れたやろ。」
「……はい。」
「今日は何も考えんでええ。」
光博は笑顔で続けた。
「笑美ちゃんと二人、お風呂入って、体あっためて、ゆっくり話したらええ。」
七海も微笑みながら言う。
「笑美ちゃん、今日ずっと楽しみにしてたんよ。」
「『今日はお母さんとお風呂入るんだ』って、何回も言うてたから。」
笑美が嬉しそうに飛び跳ねる。
「うん!」
「お母さんとおふろ!」
*
文子は笑美の手を握った。
「じゃあ、一緒に行こうか。」
「うん!」
二人は手をつないで歩き出す。
廊下を歩きながら、笑美が歌い始めた。
「トトロ〜♪ トトロ〜♪」
文子も自然と口ずさむ。
「だれかが〜♪」
二人の歌声が旅館に優しく響く。
脱衣場へ向かう後ろ姿は、まるで少し前までの不安が嘘だったかのように穏やかだった。
*
二人の姿が見えなくなると、光博は小さく笑った。
「良かったな。」
七海も頷く。
「うん。」
光博は廊下の奥を見つめながら言った。
「これで笑美ちゃんが、安心してお母さんに甘えられるな。」
七海は静かに答える。
「子どもにとって、一番安心できる場所は、お母さんの腕の中やもん。」
*
その頃。
浴室からは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「お母さん!」
「なあに?」
「きょうね、まりちゃんと、おえかきした!」
「そうなんだ。」
「それからね、おうたもうたった!」
笑美は今日あった出来事を、ひとつひとつ嬉しそうに話していく。
文子は相づちを打ちながら、娘の話を最後まで聞いた。
急かさず。
否定せず。
笑顔で。
*
その笑顔を見ながら、文子は心の中でそっと誓った。
(もう、この笑顔を失わせない。)
(この子が安心して笑える毎日を、私が守る。)
*
旅館の夜は静かに更けていく。
今日という日は、長く苦しい一日だった。
それでも最後に待っていたのは、裁判所でも、書類でも、証拠でもない。
「おかえり」と言って飛び込んできた、小さな娘の笑顔だった。
その一言が、文子にとって何よりの「帰る場所」になっていた。




