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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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謝罪の一歩

第○話


謝罪の第一歩


 それでも、一之介は離婚届に署名しようとしなかった。


 机の上には、離婚届。


 横には、弁護士が用意した書類。


 不貞行為の証拠。


 暴言の録音。


 笑美の診断書。


 文子の診断書。


 探偵報告書。


 すべてが並んでいる。


 それでも一之介は、ペンを握ろうとしなかった。


「俺は……離婚するなんて言ってない」


 その言葉を聞いた瞬間、太田泰介の顔が変わった。


     *


 泰介は立ち上がった。


「一之介」


 一之介は顔を上げる。


「お前、まだ分からんのか」


「……」


「文子さんと笑美ちゃんをここまで傷つけて、まだ自分の都合を言うんか」


 一之介は目を逸らす。


 その態度に、泰介の怒りが爆発した。


 胸ぐらを掴む。


「お前ができる謝罪の第一歩はな」


 声が震えていた。


 怒りと、情けなさと、悔しさで。


「この離婚届に署名することや!」


 一之介の体がびくっと震える。


「さっさと書かんかい!」


     *


 ラガーマンの立会人が一歩動きかけた。


 しかし、泰介はすぐに手を離した。


 暴力で押し通すためではない。


 父親として、最後に言葉で突きつけるためだった。


「お前がしがみついているのは、夫婦関係やない」


「文子さんを支配できる場所や」


「そんなものは、もう終わりや」


     *


 愛弓も涙を流しながら言った。


「一之介……これ以上、文子さんを苦しめないで」


 桃の両親も黙って見ていた。


 文子の父・恭介は拳を握りしめている。


 春奈は文子の肩を抱いていた。


     *


 一之介は震える手でペンを取った。


 しばらく止まる。


 そして、ようやく名前を書いた。


 太田一之介。


 その文字が紙に刻まれた瞬間、文子は目を閉じた。


 涙が一筋落ちた。


 悲しみではない。


 怒りでもない。


 長く縛られていたものが、少しだけほどける涙だった。


     *


 弁護士が離婚届を確認する。


「署名、確認しました」


 その声で、部屋の空気が変わった。


 終わりではない。


 だが、確かに一つの線が引かれた。


     *


 そこから必要な手続きは、一気に進められた。


 離婚。


 親権。


 接近禁止命令。


 慰謝料請求。


 養育費。


 通院費。


 通院にかかる交通費。


 探偵費用。


 弁護士費用。


 文子と笑美が受けた精神的損害。


 笑美への暴力による影響。


 不貞行為の悪質性。


 妻子がいることを知りながら関係を続けた桃への請求。


 それらすべてが、項目ごとに整理されていった。


     *


 弁護士は淡々と告げた。


「本件は、不貞行為だけではありません」


「DV、児童虐待、精神的損害、継続性、悪質性が重なっています」


「よって、慰謝料については高額の請求になります」


 一之介の顔がこわばる。


「高額って……」


 弁護士は続ける。


「原則として一括での支払いを求めます」


 桃も顔を青ざめさせた。


「私も……ですか」


「当然です」


 麻里子が静かに言った。


「知っていて続けたんですから」


     *


 さらに書類が並ぶ。


 探偵事務所の調査費用。


 弁護士費用。


 笑美の通院代。


 文子のメンタルクリニック通院費。


 それに伴う交通費。


 今後の治療継続に必要な見込み費用。


 笑美の養育費。


 将来にわたる支払い計画。


 金額は、二人が想像していたものをはるかに超えていた。


 一之介は、紙を見つめたまま固まった。


「こんなん……払えるわけ……」


 文子は静かに言った。


「払えるかどうかを考えてから、人を傷つけたん?」


 一之介は何も言えない。


「笑美がどれだけ怖かったか」


「私がどれだけ壊れかけたか」


「その代償が軽いと思ってた?」


     *


 桃は泣きながら言った。


「私、そんなつもりじゃ……」


 文子は桃を見る。


「その言葉、何回聞いたやろ」


 桃は黙る。


「そんなつもりじゃなかった」


「遊びだった」


「本気じゃなかった」


「でも、私と笑美が受けた傷は本物です」


     *


 弁護士が接近禁止命令について説明する。


「今後、文子さんおよび笑美さんへの直接接触は禁止します」


「電話、LINE、待ち伏せ、職場や旅館への訪問も含みます」


「違反があれば、ただちに警察へ通報します」


 一之介は顔を歪めた。


「笑美にも会えんのか」


 文子は一瞬だけ目を閉じた。


 そして言った。


「今のあんたに会わせる理由はありません」


「笑美は、あんたに怯えてる」


「父親だから会える、なんて簡単な話じゃない」


     *


 泰介が息子に向かって低く言った。


「会いたいなら、まず父親として人間になれ」


 一之介は黙った。


 その言葉は、書類のどの金額より重かった。


     *


 手続きが終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。


 文子は離婚届の控えを見つめる。


 恭介が娘の肩に手を置いた。


「よう頑張った」


 春奈も涙を拭きながら言った。


「もう一人で抱えんでええ」


 文子は小さくうなずいた。


     *


 梨花、麻里子、一絵も、そばにいた。


 梨花が言った。


「ここから生活を整えましょう」


 麻里子が続ける。


「支払いの管理も、手続きも、全部一緒に確認します」


 一絵は優しく微笑んだ。


「笑美ちゃんが安心して眠れる毎日を作ろう」


     *


 文子は涙を拭いた。


「はい」


 その声はまだ弱かった。


 でも、確かに前を向いていた。


     *


 一之介と桃は、項目ごとに積み上がった請求書類を前に、ただ呆然としていた。


 裏切りは一瞬だった。


 暴言も、張り手も、軽く考えていた。


 だが、その結果は人生にのしかかる。


 謝罪の第一歩は署名だった。


 そして、本当の責任は、そこから始まるのだった。

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