忘れた約束
忘れた約束
文子は、離婚届を前に置いたまま、一之介を見つめた。
「一之介」
一之介は顔を上げない。
「覚えてる?」
「……何をや」
「あんた、結婚の挨拶に来た時、私の両親や祖父母になんて言った?」
一之介の指が止まった。
文子は、静かに続けた。
「文子さんと共に、明るく幸せな家庭を築いていきます」
部屋の空気が、さらに重くなる。
「そう言ったよね」
一之介は何も答えない。
*
「あの約束、どこにいったん?」
文子の声は震えていた。
けれど、弱さではなかった。
「たった数年で忘れ去られるほど、軽いものやったん?」
桃が息をのむ。
梨花は静かに文子を見守っていた。
麻里子は唇を噛んでいる。
一絵は、涙をこらえていた。
*
文子は、言葉を止めなかった。
「私の家族は、あんたの言葉を信じた」
「私も信じた」
「この人となら、笑って暮らしていけると思った」
「笑美が生まれた時も、家族になれたと思った」
文子の目に涙が浮かぶ。
「でも、あんたは何をした?」
*
一之介は、ようやく小さく言った。
「文子……」
「答えて」
文子は遮った。
「私に罵声を浴びせた」
「笑美を叩いた」
「家に帰ってこなかった」
「別の女と一年も関係を続けた」
「それで全部明らかにされて、離婚を通告されたら」
文子は一之介を睨んだ。
「愛してる女は私だけ?」
短い沈黙。
そして、低く言った。
「よくそんな冗談が言えるね」
「全然笑えん」
*
一之介の顔が歪む。
言い返したい。
でも、言葉が出ない。
約束を破ったのは自分だった。
嘘を重ねたのも自分だった。
暴言を吐いたのも、手を上げたのも、不倫を続けたのも、自分だった。
文子は、もう一度だけ言った。
「愛してるって言葉はね」
声が少しだけ柔らかくなる。
それでも、厳しさは消えない。
「相手を守るために使う言葉や」
「裏切ったあと、自分が助かるために使う言葉やない」
*
桃はうつむいていた。
その横で、一之介はペンに触れられないまま固まっている。
文子は、最後に静かに告げた。
「一之介」
「私は、あんたの妻を終わります」
「でも、笑美の父親としての責任は、終わらせません」
弁護士が離婚届の横に、必要な書類を並べる。
部屋の中に、紙の音だけが響いた。
*
文子はもう泣き崩れなかった。
泣きながら黙る女ではなかった。
笑美を守るために、自分の人生を取り戻すために、そこに立っていた。




