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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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愛している、という嘘

第○話


愛している、という嘘


 文子は、鞄の中から一枚の紙を取り出した。


 白い紙。


 離婚届だった。


 一之介の目が大きく見開かれる。


「……なんや、それ」


 文子は静かに言った。


「離婚届」


 部屋の空気が、さらに張り詰めた。


「一之介。これに署名して」


 一之介はすぐに首を振った。


「嫌や」


 文子は表情を変えない。


「なんで?」


「離婚はしたくない」


 その言葉に、桃が顔を上げた。


 一之介は焦ったように続ける。


「桃とは……ただの遊びやった」


 桃の顔が固まる。


「は?」


 一之介は文子を見る。


「俺が本当に愛してるのは、お前だけや」


     *


 文子は、一瞬黙った。


 そして、ゆっくり息を吸った。


「愛する女は、私だけ?」


「ああ」


「じゃあ、あんたはその愛する女に何をしたん?」


 一之介は言葉に詰まる。


 文子の声が震え始めた。


 怒りだった。


 悲しみだった。


 積み重なった痛みだった。


「私がお腹を痛めて産んだ、かわいい娘には平手打ちをして」


 笑美の名前を出した瞬間、梨花が目を伏せた。


「暴言を吐き捨てて」


「私には毎日のように罵声を浴びせて」


「家には帰ってこなくて」


「別の女と一年も関係を続けて」


 文子は一之介を睨んだ。


「それで、愛する女は私だけ?」


 声が低くなる。


「ふざけんな」


     *


 一之介は何か言おうとした。


「文子、俺は……」


「言い訳はいらん」


 文子は遮った。


「愛って言えば全部戻ると思ってるん?」


「離婚したくないって言えば、私がまた我慢すると思ってるん?」


「笑美がまたあんたの足音に怯える家へ戻ると思ってるん?」


 一之介は黙る。


     *


 その時、桃が震える声で言った。


「なんで……?」


 一之介が振り向く。


 桃の顔は怒りと混乱で歪んでいた。


「この人と別れて、私と結婚するって言ったじゃん」


 部屋の空気が一気に変わる。


 文子は、ゆっくり桃を見た。


 桃は一之介を睨みつける。


「あれは嘘だったん?」


 一之介は言葉を失った。


「いや、それは……」


「私には、奥さんとはもう終わってるって言ったよね?」


 桃の声が大きくなる。


「笑美ちゃんがいるからすぐには無理だけど、いずれ別れるって」


 文子の顔から血の気が引いた。


 麻里子が記録を取る手を止めない。


 弁護士も静かに聞いている。


     *


 桃は涙目で続けた。


「私と一緒になるって言った」


「だから私……」


 そこで言葉が止まった。


 桃自身も気づいたのだ。


 自分が被害者のように話しているが、文子と笑美の存在を知っていたことに変わりはない。


 文子は静かに言った。


「桃さん」


 桃が文子を見る。


「あなたも騙された部分はあるのかもしれない」


 桃は唇を震わせる。


「でもね」


 文子の声が強くなった。


「妻と娘がいることを知っていて関係を続けた責任は、消えません」


 桃は何も言えなかった。


     *


 一之介は椅子に座ったまま、視線を泳がせていた。


 文子。


 桃。


 弁護士。


 立会人。


 探偵。


 逃げ場を探している。


 だが、どこにも逃げ場はなかった。


     *


 文子は離婚届を机の上に置いた。


「一之介」


「……」


「私はもう、あんたの妻ではいたくない」


 声は震えていた。


 でも、はっきりしていた。


「笑美の父親としての責任からも、逃げさせない」


「でも、夫として私の隣にいる資格は、もうない」


 一之介が小さく言う。


「文子……」


「名前を呼ばんといて」


 一之介は固まった。


     *


 文子は続けた。


「愛してるって言葉は、相手を守るために使うものや」


「傷つけたあとに、自分が助かるために使うものやない」


 その言葉に、梨花が静かに頷いた。


 一絵も、目を潤ませながら文子を見ていた。


 麻里子は小さく呟いた。


「よう言った」


     *


 桃は震えながら、一之介を見た。


「いっちゃん……私にも嘘ついてたんやね」


 一之介は叫びかけた。


「違う、桃、それは」


 その瞬間、光永夏菜子が短く言った。


「声を荒げないでください」


 一之介は口を閉じた。


     *


 弁護士が淡々と告げる。


「太田一之介さん。離婚届への署名は任意です。ただし、応じられない場合は、調停および裁判手続きへ進みます」


 一之介の喉が鳴る。


「また、これまでの不貞行為、暴言、暴力、精神的被害、笑美さんへの影響について、すでに資料は整理されています」


 文子は最後に言った。


「私は、もう戻らない」


 そして、離婚届を一之介の前へ滑らせた。


「署名して」


     *


 一之介はペンを見つめた。


 桃はうつむき、肩を震わせている。


 文子は逃げなかった。


 もう、怒鳴り声に支配される女ではなかった。


 笑美を守る母親として、そこに立っていた。

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