逃げ道を塞ぐ証拠
逃げ道を塞ぐ証拠
文子は、もう一度深く息を吸った。
そして、弁護士に静かにうなずいた。
「お願いします」
弁護士は、机の上に新しい封筒を置いた。
中に入っていたのは、写真ではなかった。
音声データの一覧。
笑美の診断書。
そして、文子が通っていたメンタルクリニックの診断書。
その三つだった。
*
まず流されたのは、一之介の留守電だった。
『何勝手に出て行っとんねん』
『お前ほんま母親として終わってんな』
『帰ってこんかったら、どうなるか分かっとるんやろな』
部屋に、一之介自身の怒声が響く。
さっきまで強がっていた一之介の顔から、少しずつ色が引いていった。
*
続いて、弁護士が診断書を提示した。
「こちらは、笑美さんの診断書です」
文子の指が震える。
梨花がそっと背中に手を添えた。
弁護士は淡々と続ける。
「身体的な所見に加え、強い恐怖反応、不安症状が確認されています」
桃は思わず口元を押さえた。
一之介は何も言わない。
*
さらに、もう一枚。
「こちらは、文子さんが通院されているメンタルクリニックの診断書です」
弁護士の声は静かだった。
「継続的な罵倒、威圧、家庭内での精神的負荷により、睡眠障害、不安症状、抑うつ状態が認められています」
文子は涙をこらえていた。
けれど、もう下を向かなかった。
*
一之介は、書類を見つめていた。
何か言わなければ。
何か言い返さなければ。
どうにかして、この場を切り抜けなければ。
そのことで頭がいっぱいだった。
反省ではなかった。
謝罪でもなかった。
目の前にあるのは、妻と娘が傷ついた証拠だった。
だが一之介は、まだ自分がどう逃げるかを考えていた。
*
文子は、それを見抜いていた。
「今、何考えてる?」
一之介は顔を上げる。
「……」
「謝ること?」
沈黙。
「笑美に何をしたか?」
沈黙。
「それとも、どうやってこの場を逃げるか?」
一之介の喉が動いた。
*
文子は、静かに言った。
「それが、あんたの答えなんやね」
一之介はようやく口を開いた。
「俺は……」
だが、言葉が続かない。
麻里子が低い声で言った。
「もう、怒鳴って黙らせる相手はいませんよ」
一絵も続ける。
「ここにあるのは、文子さんと笑美ちゃんが苦しんだ記録です」
梨花は一之介を見た。
「あなたが軽く扱ってきたものです」
*
桃は震える声で言った。
「私……そこまでとは……」
文子が振り向く。
「そこまでとは思わなかった?」
桃は黙る。
「笑美の名前をLINEで出してたよね」
「……」
「妻子がいるのを知っていたよね」
「……はい」
「それでも関係を続けた」
桃は涙をこぼした。
でも文子は続けた。
「泣くのは自由です。でも、泣いたから責任が消えるわけじゃありません」
*
弁護士が書類を整えた。
「今後、太田一之介さんには、離婚、慰謝料、養育費、接近禁止に関する手続きを進めます」
次に桃を見る。
「堀川桃さんにも、不貞行為に関する慰謝料請求を行う方針です」
桃の顔が青ざめる。
一之介は拳を握った。
しかし、立ち上がることはできなかった。
ラガーマンの立会人が静かに見ていた。
光永夏菜子も、わずかに姿勢を正した。
*
文子は最後に、一之介へ言った。
「私は、もうあんたに怒鳴られて黙る文子じゃない」
声は震えていた。
でも、確かに前を向いていた。
「笑美を守る」
「私も生き直す」
「そのために、あんたには責任を取ってもらう」
*
一之介は何も言えなかった。
部屋には、証拠だけが残っていた。
怒鳴り声。
診断書。
行動記録。
不貞の証拠。
そして、文子の言葉。
逃げ道は、もうほとんど残されていなかった。




