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沈黙の琵琶湖2 ― 涙の向こうに咲く笑顔 ―  作者: リンダ


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呼ばれた女

 呼ばれた女

 文子は、一之介をまっすぐ見た。


「なんもないって言うんやったら、相手の女性を呼んで」


 一之介の顔が歪む。


「は?」


「堀川桃さん。呼んで」


「なんでやねん」


「なんもないんやろ?」


 文子の声は静かだった。


 けれど、その静けさが一之介を追い詰めていた。


「同僚なんやろ? 相談に乗ってただけなんやろ? それなら、ここで話してもらえるよね」


 *


 一之介の椅子が大きな音を立てた。


「調子乗んなや!」


 次の瞬間、一之介は文子の方へ身を乗り出した。


 だが、その一歩目で止められた。


 屈強なラガーマンの立会人が、すっと間に入ったのだ。


「お兄さん」


 声は穏やかだった。


 しかし腕は、一之介の動きを完全に抑えていた。


「ここで暴れては困りますねぇ」


 一之介がもがく。


「離せ! 離しやがれ!」


「奥さんに襲いかからないって約束するなら離しますけど?」


「わかったから離せ!」


「約束できますね」


「できるわ!」


 立会人は、ゆっくり手を離した。


 一之介は肩で息をしながら、椅子へ戻る。


 光永夏菜子が、冷たい目で見ていた。


「次に立ち上がったら、その時点で話し合いは中止です」


 一之介は舌打ちした。


 *


 文子は怯えていた。


 体は震えていた。


 けれど、もう引かなかった。


「呼んで」


 一之介は黙る。


「呼べないの?」


「……」


「なんもないなら、呼べるよね」


 一之介はスマホを握ったまま動かない。


 麻里子が静かに言った。


「呼ばないなら、こちらから堀川桃さんのマンションへ伺うこともできます」


 一之介の顔が青ざめた。


 梨花が続ける。


「もちろん、こちらも弁護士同席のうえで」


 一絵は文子の横で静かに言った。


「逃げ続けても、事実は消えません」


 *


 一之介は追い詰められた顔で、スマホを操作した。


 電話をかける。


 数コールで相手が出た。


『もしもし、いっちゃん?』


 一之介は低い声で言う。


「今から送る住所に来てほしい」


『え? いっちゃんに会えるんやね。楽しみ』


 一之介は一瞬、目を閉じた。


 その声はあまりに軽かった。


 部屋の空気を知らない声だった。


「……とにかく来てくれ」


『うん。すぐ行くね』


 電話が切れた。


 *


 部屋には重い沈黙が落ちた。


 文子はゆっくり息を吐く。


 梨花が小さく声をかける。


「大丈夫?」


 文子はうなずいた。


「怖いです」


「うん」


「でも、逃げません」


 麻里子が静かに言う。


「逃げる必要はもうないです」


 一絵も頷いた。


「ここは、文子さんが責められる場所じゃない」


 *


 数十分後。


 レンタルルームの外に足音が近づいた。


 ノック。


 ドアが開く。


 堀川桃が入ってきた。


 二十一歳。


 少し派手な服装。


 最初は笑顔だった。


 しかし、部屋の中を見た瞬間、その顔が固まった。


 文子。


 一之介。


 弁護士。


 探偵。


 立会人。


 梨花、麻里子、一絵。


 異様な空気。


 桃は思わず言った。


「……なんなん、これ?」


 *


 一之介は目を逸らした。


 桃はその様子を見て、さらに不安そうに眉をひそめる。


「いっちゃん?」


 その呼び方で、文子の目がわずかに動いた。


 文子は立ち上がらなかった。


 ただ、まっすぐ桃を見た。


「あなたが、うちの旦那の不倫相手?」


 桃の顔から血の気が引いた。


「は?」


「堀川桃さんですね」


 弁護士が確認する。


 桃は視線を泳がせた。


「なんで名前……」


 麻里子が静かに言う。


「質問に答えてください」


 文子は続けた。


「嘘偽りなく、言い訳せずに答えなさいよ」


 *


 桃は一之介を見る。


「いっちゃん、どういうこと?」


 一之介は答えない。


 文子はさらに問いかけた。


「あなた、一之介に妻と娘がいること、知ってたよね?」


 桃の唇が震える。


「……」


「知らなかった?」


 桃は何か言いかける。


 しかし、弁護士が淡々と告げた。


「ここで虚偽の説明をすると、後の手続きで不利になる可能性があります」


 桃は目を伏せた。


 *


 文子は静かに言った。


「もう一度聞くね」


「あなたは、一之介に妻と四歳の娘がいることを知った上で、関係を続けていたんですか」


 桃は、かすれた声で答えた。


「……知ってました」


 一之介が苛立つ。


「桃!」


 立会人が一歩前に出る。


「静かに」


 一之介は黙った。


 *


 文子の手が震えた。


 でも、声は崩れなかった。


「一年ほど続いてたんやね」


 桃は黙る。


「違う?」


「……だいたい、それくらいです」


 部屋の空気がさらに重くなった。


 一絵が、唇を噛む。


 梨花は文子の背中にそっと手を添えた。


 麻里子は、桃の言葉を正確にメモしていた。


 *


 文子は言った。


「あなた、LINEで書いてたよね」


 桃の顔が強張る。


「奥さんには残業って言えばいい」


「私の方がいっちゃんを分かってる」


「早く別れてよ」


「笑美ちゃんがいるからって、いつまで奥さんといるの」


 桃の目が泳ぐ。


 文子は声を低くした。


「うちの娘の名前まで出してたよね」


 *


 桃は小さく言った。


「そんなつもりじゃ……」


「そんなつもりじゃなかった?」


 文子の声が初めて少し震えた。


「私と笑美の存在を知っていて、それでも関係を続けて、家庭を壊すような言葉を送って」


 文子は涙をこらえた。


「それでも、そんなつもりじゃなかったって言うん?」


 *


 桃は何も言えなかった。


 文子はまっすぐ続けた。


「私も笑美も、あなたたち二人の遊びの邪魔者やない」


「私は妻やった」


「笑美は娘や」


「人間や」


 部屋に、誰も言葉を挟めなかった。


 *


 弁護士が静かに言った。


「本件については、不貞行為およびそれに伴う慰謝料請求を検討しています」


 桃の顔が青ざめる。


「慰謝料……?」


 麻里子が冷静に言った。


「当然です」


 一絵も静かに続ける。


「知っていて続けたなら、責任はあります」


 *


 一之介は頭を抱えた。


 桃は椅子に座り込む。


 文子は、二人を見た。


 怖かった。


 苦しかった。


 怒りもある。


 でも、今の文子は、泣き寝入りするためにここに来たわけではない。


 *


「一之介」


 文子は夫だった男に向き直る。


「桃さん」


 そして、不倫相手にも視線を向ける。


「私と笑美を傷つけたこと、ちゃんと向き合ってもらいます」


 その声は静かだった。


 けれど、逃げ場のない強さがあった。


 *


 レンタルルームの窓の外では、大津の街の明かりが揺れていた。


 その部屋の中で、一之介と桃の嘘は、少しずつ剥がされていった。

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