逃げ場のない部屋
逃げ場のない部屋
レンタルルームのドアが、乱暴に開いた。
一之介が入ってくる。
その顔には、最初から怒りが浮かんでいた。
文子の姿を見つけた瞬間、目つきが変わる。
「テメー、このクソヤローが」
文子の肩がびくっと震えた。
「俺にまた罵声浴びせられたいんか」
だが、次の瞬間。
一之介は言葉を止めた。
部屋の空気が、明らかに違っていた。
文子一人ではない。
梨花。
麻里子。
一絵。
弁護士。
探偵事務所の担当者。
そして、屈強なラガーマンの立会人。
さらに、黒いスーツ姿の光永夏菜子。
一之介は部屋を見回した。
「……なんや、これ」
*
ラガーマンの立会人が、静かに立ち上がった。
「本日は立会人として同席します」
声は穏やかだった。
しかし、圧があった。
続いて、光永夏菜子も名乗る。
「光永夏菜子です。文子さんから相談を受けていました」
一之介の眉が動いた。
「相談?」
夏菜子は表情を変えない。
「はい。暴言、威圧、家庭内での問題についてです」
一之介は鼻で笑った。
「は? 夫婦げんかやろ」
麻里子の目が細くなる。
だが、まだ誰も証拠は出さない。
*
一之介は文子を睨んだ。
「話ってなんや」
文子は膝の上で手を握りしめていた。
怖い。
声が震えそうになる。
でも、隣には梨花がいる。
麻里子がいる。
一絵がいる。
弁護士がいる。
笑美は、旅館で待っている。
文子は、ゆっくり顔を上げた。
「一之介」
「なんや」
「なんで私と笑美が出ていったと思う?」
一之介はすぐに言った。
「知らんわ。お前が勝手にヒステリー起こしたんやろ」
文子は目を逸らさなかった。
「本当に、心当たりない?」
「あるわけないやろ」
*
梨花は何も言わない。
麻里子も黙っている。
一絵も静かに文子を見守っている。
この場は、文子が自分の声で立つための場所だった。
*
文子は続けた。
「あんたも、いい大人なんやから」
一之介が舌打ちする。
「やっていいことと、悪いことの区別くらいつくよな?」
一之介の顔が歪む。
「説教か?」
「違う」
文子は静かに言った。
「確認してるだけ」
*
部屋の空気が、少しずつ重くなる。
文子は一呼吸置いた。
「笑美に対して、何か謝らなあかんこと、あるんちゃう?」
一之介の視線がわずかに揺れた。
だが、すぐに強がる。
「何をや」
「本当に分からん?」
「子どもが言うこと聞かんから、しつけしただけやろ」
その言葉に、梨花の拳がぎゅっと握られた。
麻里子の表情も険しくなる。
一絵は唇を噛んだ。
*
文子は、ゆっくりと言った。
「四歳の子に張り手を浴びせることを、しつけって言うん?」
一之介は黙る。
「泣いた笑美に向かって、うるさい、使えん子やって怒鳴ることも、しつけなん?」
「お前が甘やかすからやろ」
「私のせい?」
「そうや。お前がちゃんと母親してないから、俺が厳しくせなあかんかったんや」
*
その瞬間、文子の目が変わった。
前なら、そこで黙っていた。
自分が悪いのかもしれないと思っていた。
でも今は違う。
「違う」
一之介が眉をひそめる。
「違うって何がや」
「笑美が叩かれたのは、私のせいじゃない」
文子の声は震えていた。
でも、折れてはいなかった。
「笑美が怯えたのは、笑美のせいでもない」
*
一之介は苛立ったように椅子へ座った。
「で? それを言うために呼んだんか」
文子は首を横に振る。
「まだある」
「は?」
「ほかにも、あんたには謝ってもらわなあかんことがいっぱいある」
一之介の顔がこわばる。
「なんやそれ」
「私に対しても」
文子は続けた。
「笑美に対しても」
少し間を置く。
「それから、あんた自身が壊したもの全部に対して」
*
一之介は椅子の背にもたれ、鼻で笑った。
「大げさやな」
麻里子が初めて口を開いた。
「大げさかどうかは、これから確認しましょう」
一之介が麻里子を睨む。
「誰やお前」
「文子さんの支援者です」
「関係ないやつが口出すな」
その瞬間、ラガーマンの立会人が静かに言った。
「威圧的な発言は控えてください」
一之介は舌打ちする。
だが、立会人の体格を見て、それ以上は言わなかった。
*
弁護士が淡々と口を開く。
「本日は、太田文子さんと笑美さんの安全、今後の生活、離婚および必要な法的手続きについて確認する場です」
一之介が目を見開く。
「離婚?」
文子は、まっすぐ一之介を見た。
「うん」
「何勝手に決めてんねん」
「勝手に決めたんやない」
文子の声が強くなる。
「私と笑美が、安心して生きるために決めた」
*
一之介は立ち上がりかけた。
その瞬間、光永夏菜子が一歩前に出た。
動きは静かだった。
けれど、一之介は反射的に止まった。
夏菜子は落ち着いて言う。
「座ってください」
短い一言。
それだけで、部屋の空気がさらに締まった。
*
一之介は乱暴に椅子へ座り直した。
「ふざけんなよ……」
文子はもう逃げなかった。
「ふざけてるのは、あんたや」
一之介が睨む。
「私と笑美を傷つけて、それをしつけだ、夫婦げんかだって言い張って」
文子はゆっくり息を吸った。
「まだ、何も証拠は見せてない」
一之介の表情が一瞬固まる。
「でも、あんたが今ここで言ったことだけでも、十分分かった」
*
麻里子が静かにメモを取る。
梨花は録音機器のランプを確認する。
一絵は文子の震える手に、そっと手を添える。
*
文子は最後に言った。
「一之介」
「……なんや」
「今日、私は責められに来たんやない」
目を逸らさずに。
「笑美を守るために来た」
その言葉に、一之介は何も返せなかった。
部屋の中には、ただ重い沈黙だけが落ちた。




