一ヶ月のキロ
第○話
一か月の記録
文子と笑美が旅館に身を寄せてから、一か月が過ぎようとしていた。
笑美は少しずつ、子どもたちの輪に入れるようになっていた。
茉莉や睦子と歌い、一幸の折り紙を大事そうに抱き、夜は女の子同士で布団を並べて眠る。
文子もまた、旅館の仕事を覚え始めていた。
英語で観光客を案内したことをきっかけに、光博からは本気で女将候補として期待されるようになっていた。
しかし。
太田一之介の怒りは、日に日に膨れ上がっていた。
*
ある夜。
一之介は仕事を終えて自宅に戻った。
玄関を開ける。
暗い部屋。
文子の靴はない。
笑美の小さな靴もない。
食卓には何も置かれていない。
「……まだ帰ってこんのか」
コンビニで買った弁当を、乱暴にテーブルへ置く。
「なんで俺がコンビニ弁当で晩飯食わなあかんねん」
箸を割る音も荒い。
数口食べる。
すぐに箸を置く。
「あのヤロー……」
スマホを手に取る。
文子へ電話。
出ない。
もう一度。
出ない。
さらにもう一度。
出ない。
「帰ってきたら、ただじゃ済まさん」
一之介は誰もいない部屋に向かって吐き捨てた。
「そこらへんにおられんようにしたる」
*
しかし、一之介は気づいていなかった。
自分の行動が、すでに探偵事務所によって記録され続けていることに。
*
一之介の生活パターンは、かなり一定していた。
朝七時前。
自宅を出る。
滋賀県内の小売店へ向かう。
仕事は品出しや売場管理。
通常は十七時ごろ退勤。
残業がある日は十九時ごろ店を出る。
その後。
まっすぐ家に帰る日もある。
だが、多くの日は違った。
*
勤務先の駐車場。
一之介が店を出る。
数分後、別の車が近くへ停まる。
降りてきたのは、堀川桃。
二十一歳。
同じ職場で働く女性だった。
二人は周囲を気にする様子も少なく、自然に合流する。
何かを話している。
だが、その内容までは分からない。
探偵は十分な距離を保ち、出入口や駐車場の様子を記録する。
日時。
場所。
合流した相手。
移動先。
写真。
映像。
客観的な事実だけを淡々と積み重ねていく。
*
ある日は、二人で飲食店へ入った。
約一時間半後に店を出る。
そのまま桃の自宅マンションへ向かう。
午後二十時十二分。
二人がマンションへ入る。
翌朝六時過ぎ。
一之介が同じマンションから出てくる。
その夜、一之介は自宅へ戻っていない。
*
別の日。
勤務後に桃と合流。
二人で車に乗る。
向かった先はラブホテルだった。
十九時四十六分、入室。
二十二時二十八分、退室。
探偵はホテルの外から出入りの時刻と様子を記録した。
室内の会話は分からない。
何を話していたのかも分からない。
だが、二人がどこへ入り、どれだけ滞在し、いつ出てきたのか。
その事実は残る。
*
さらに、文子が以前見てしまったLINEのやり取りも整理された。
そこには、一之介に妻と娘がいることを桃が知っていたと分かる内容が含まれていた。
《奥さんには残業って言えば?》
《いっちゃん、私といる方が楽でしょ》
《早く別れてよ》
《笑美ちゃんがいるからって、いつまで奥さんといるの?》
《私の方がいっちゃんを分かってる》
文子を軽んじるような言葉。
笑美の存在を邪魔そうに扱うような言葉。
妻子がいることを知った上で続いていた関係。
この関係は、一年ほど続いていた。
*
一か月に及ぶ調査の結果、報告書は分厚くなっていた。
勤務先からの退勤時刻。
桃との合流。
飲食店への入退店。
桃のマンションへの出入り。
ラブホテルへの出入り。
自宅へ帰らなかった日。
文子への着信履歴。
罵倒や脅しに近い留守電。
LINEの保存記録。
それらが時系列で整理されていく。
*
探偵事務所の担当者は、麻里子に報告した。
「屋内の会話までは分かりません。ですが、行動記録としては十分です」
麻里子は頷いた。
「不貞行為の証拠として使えるレベルですか」
「弁護士さんの判断になりますが、複数回の宿泊、ホテル利用、継続性があります。資料としてはかなり強いと思います」
麻里子は深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
*
その日の夜。
旅館の奥の部屋に、梨花、麻里子、一絵、文子が集まった。
同席した弁護士が、報告書を一枚ずつ確認する。
文子は唇を噛みながら、それを見ていた。
一之介が仕事に行くと言っていた日。
帰りが遅くなると言っていた日。
連絡がつかなかった日。
その裏で、何をしていたのか。
事実が、写真と時刻で並んでいた。
*
文子の手が震える。
「一年……」
声がかすれる。
「一年も……」
梨花がそっと背中に手を添えた。
「無理に全部見なくていいです」
文子は首を横に振った。
「見ます」
涙が落ちる。
「私、ちゃんと見ます。笑美を守るために」
*
弁護士は静かに言った。
「これで、不貞行為についての慰謝料請求、離婚手続き、親権、接近禁止、DV・虐待に関する対応を進められます」
麻里子が資料を整える。
「桃さんにも請求できますね」
弁護士は頷いた。
「妻子がいることを知っていた可能性が高い内容が残っています。十分に検討できます」
一絵は文子を見た。
「ここから、さらにしんどい場面もあると思う」
文子はうなずいた。
「でも……もう戻りません」
*
そのころ、笑美は隣の部屋で眠っていた。
茉莉と睦子に挟まれ、一幸の折り紙の犬を抱いている。
寝顔はまだ幼い。
何も悪くない。
何も背負わなくていい子だった。
*
文子はその寝顔を見つめた。
「私、笑美が安心して眠れる場所を守りたいです」
梨花が頷く。
「守りましょう」
麻里子も言った。
「証拠は揃いました」
一絵が続ける。
「今度は、文子さんと笑美ちゃんの人生を取り戻す番です」
*
長い一か月だった。
だが、それは逃げるための一か月ではなかった。
声を上げるため。
真実を残すため。
安全を確保するため。
そして、母と娘がもう一度、自分の人生を歩き出すための一か月だった。
*
いよいよ、決戦の日が近づいていた。




