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再起動、一九九〇  作者: RSakamoto


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再起動、一九九〇 第一部

一

目が覚めたとき、最初に気づいたのは天井の低さだった。

木目のプリントが貼られた合板の天井。真ん中に、紐の垂れた丸

い蛍光灯。その紐の先に、色褪せた青いプラスチックの取っ手。

村瀬恒一は、しばらく動かずにそれを見ていた。

五十七年生きてきて、この天井を見たのは八王子のあの部屋だけ

だ。六畳一間、風呂なし、トイレ共同、家賃二万八千円。十九歳の

春から一年だけ住んだ、木造モルタルのアパート。

体を起こした。腰が痛くない。

それがいちばん奇妙だった。この十年、朝起きて腰が痛くない日

など一日もなかったのに。

薄い布団の上で、自分の手を見た。皺がない。指の関節の節くれ

もない。キーボードを三十五年叩き続けた右手の小指の変形が、消

えている。

窓の外で、中央線の音がした。

立ち上がって、流しの上の小さな鏡を覗いた。

十九歳の顔が、五十七歳の目でこちらを見ていた。


二

夢だと思わなかった、と言えば嘘になる。

だが恒一は、夢を疑う前に、まず状況の再現条件を確かめる人間

だった。三十五年間、証券会社の売買システムを作ってきた。障害

が起きたとき、最初にやることは「何が起きたか」を正確に記録す

ることであって、「なぜ起きたか」を考えることではない。

流しの脇に、朝日新聞が一部あった。昨日買ったものらしい。日

付は、一九九〇年四月二日、月曜日。

一面は、日経平均の急落だった。二万八千二円。年初は三万八千

円台だったはずだ。この四か月で一万円も落ちている。恒一は記事

を最後まで読み、それから紙面を閉じた。

知っている。この先どうなるか、全部知っている。

この年の十月には二万円を割る。三年後に山一が潰れ、金融機関

が次々と消え、失われた十年と呼ばれ、二十年と呼ばれ、三十年

と呼ばれる。阪神淡路。地下鉄サリン。ウィンドウズ95。インター

ネット。二〇〇一年の九月。リーマン。三月十一日。スマートフォ

ン。ビットコイン。そして、自分が寝落ちする直前まで書いてい

た、あの執行エンジンのコード。

最後の記憶は、二〇二六年の九月、深夜三時過ぎ。本番リリース

前の最終ビルドを流して、ターミナルのログが流れるのを眺めなが

ら、椅子の上で意識が途切れた。

それがここに繋がっている理屈は、わからない。

わからないものは、いったん置く。

恒一は座卓の引き出しを開けた。大学ノートが二冊、使い古しの

シャープペン、テレホンカードが一枚、そして財布。中には千円札

が三枚と小銭。通帳を確認すると残高は八万四千円。仕送りは月に

十万円だったはずだ。

壁のカレンダーに、鉛筆で丸がしてあった。四月九日、開講式。

新宿の予備校。

「……浪人か」

声も、若かった。


三

京王八王子から特急で新宿まで、四十分弱。

車内は煙草の煙で白かった。一九九〇年の朝の電車は、こんなに

臭かったのか。誰も気にしていない。サラリーマンが吊り革につか

まったまま新聞を読み、その隣で女子高生が、ウォークマンのイヤ

ホンからシャカシャカと音を漏らしている。

恒一は窓に映る自分を見た。ジーンズにグレーのトレーナー、肩

まで届きかけの髪。母親が買ってくれたナイロンのリュック。中に

はノートと、五冊の参考書。

新宿は、どこもかしこも工事中だった。都庁が建ちかけている。

西口の地下道に、まだホームレスの段ボールの家は少ない。あと数

年でここは埋まる。

予備校の教室は、高校の教室より少しだけ広く、天井が低かっ

た。三百人が詰め込まれて、みんな同じ方向を見ている。壇上の英

語講師は五十くらい、灰色のジャケットで、黒板にチョークを叩き

つけるように書く。

「いいか、仮定法過去完了ってのは、過去に対する後悔だ。あの

とき、こうしていれば。おまえら浪人なんだから、その気持ちはよ

くわかるだろう」

教室がどっと笑った。

恒一は笑わなかった。

もし自分が、この教室の誰よりも、その構文の意味を知っている

としたら。

隣の席の男が、机の下でこっそり「週刊少年ジャンプ」を開いて

いた。『ドラゴンボール』の連載中だった。恒一はその表紙をしば

らく見て、目を逸らした。

授業の内容は、ほとんど覚えていた。というより、内容そのもの

はこの三十八年間、必要になるたびに使ってきたものだ。英語は仕

事で嫌というほど読んだ。数学は、システムを設計する上で骨格に

なっていた。問題を解くことは、たぶんできる。

だがそれは、十九歳の自分がやりたかったことなのだろうか。


四

帰り道、八王子駅の北口に緑の公衆電話があった。

テレホンカードを差し込む。度数は三十二。実家の番号は、指が

覚えていた。

三回鳴って、母が出た。

「はい、村瀬です」

恒一は、何も言えなかった。

母は二〇一九年の冬に死んだ。最後の三年は病院で、最後の半年

は恒一が誰なのかわからなくなっていた。その声が、今、いつもの

調子で、どこか眠そうに、受話器の向こうにある。

「もしもし? 恒一?」

「……うん」

「なに、どうしたの。お金?」

「違うよ」

「じゃあなに」

「別に。……電話しただけ」

受話器の向こうで、母が少し笑った気配がした

「変な子ね。ちゃんとご飯食べてる?」

「食べてる」

「予備校、始まったんでしょ」

「来週から」

「そう。頑張りなさいよ。お父さんは、まあ、心配してないふり

してるけど」

恒一は目を閉じた。

「母さん」

「なに」

「健康診断、ちゃんと行って。毎年」

「なに言ってんの、急に」

「いいから。行って。約束して」

母は少し黙って、それから「はいはい」と言った。

テレホンカードの度数が、二十六まで減っていた。恒一は受話器

を置いて、しばらく電話ボックスの中に立っていた。

外は、四月の夕暮れだった。駅前のマクドナルドから、若い声が

漏れてくる。

母親に医者に行けと言った十九歳を、母はきっと変な子だと思っ

ただろう。それでいい。それ以上のことは、この電話では言えな

い。言っても、伝わらない。


五

その夜、恒一は大学ノートを開き、覚えていることを書き始め

た。

最初は市場のことだった。日経平均の年末の値。翌年の値。金利

の動き。地価の暴落。九〇年代に潰れる銀行と証券会社の名前。そ

のあと、コンピュータ業界のこと。マイクロソフト、インテル、シ

スコ、アマゾン、グーグル、アップル。どの株をいつ買って、いつ

売れば、いくらになるか。

二ページ書いたところで、手が止まった。

八万四千円。

これが自分の全財産だ。信用取引口座を開くには、二十歳にすら

なっていない。親の名義を借りるか。親に何と説明する。「息子は

未来を知っている」と。

それに、と恒一は思った。

もし本当に、この知識で金を作ったとして。

それは、自分が三十五年かけて作ってきたものを、全部いらない

ものにする行為ではないか。

恒一は、証券会社の中で、発注の速度を競う仕事をしてきた。取

引所の板に注文が届くまでの時間を、ミリ秒から、マイクロ秒に、

それからナノ秒に削る仕事だ。三十五年間、その一点だけを彫り続

けてきた。

未来を知っているなら、速度は要らない。何も要らない。ただ

知っていることを、順番に実行すればいい。

それは自分の人生の否定だ。

恒一はノートの二ページを、丁寧に破って、流しで燃やした。合

板の天井に煙が届く前に火は消えた。

残った白いページに、代わりにこう書いた。

「知っていることと、できることは、違う」


六

日曜日、恒一は兜町に行った。

東京証券取引所の見学席から、立会場を見下ろした。

そこには、人がいた。

何百人という、揃いのジャケットを着た男たち。場立ちと呼ばれ

る証券会社の職員が、ポストの周りに群がって、手で合図を送り

合っている。指を立て、掌を振り、叫ぶ。売り、買い、値段、株

数。全部、手と声で。

恒一の仕事は、この光景を消すことだった。

彼が最初に社会人になったとき、この立会場はまだ動いていた。

九九年に閉じた。そのあと、取引はすべて電子になり、板は画面に

なり、恒一が書いたプログラムが、あの男たちの指の代わりになっ

た。

その、消える前の光景が、今、目の前で動いている。

騒音と、体温と、紙の匂い。

「すごいだろう」

隣に立っていた初老の男が、話しかけてきた。見学者らしい。

「わしは三十年ここで働いた。今は引退したがね。あそこにいる

のは、みんな職人だ。相場の空気を、肌で読む」

恒一は頷いた。

「いつか、これが全部コンピュータになるって言うやつがいる」

男は笑った。「馬鹿な話だ。人間の判断を、機械が代わりにできる

わけがない」

恒一は何も言わなかった。

立会場の一角で、若い場立ちが、両手を上げて何かを叫んでい

た。その顔は、恒一の記憶の中の、誰でもなかった。あの男は、九

年後に何になるんだろう。

帰りの電車で、恒一はようやく理解した。

自分が持っているのは、未来の知識ではない。三十八年分の、後

悔と、努力と、間違いと、少しの成功の記憶だ。それは株価表では

ない。それは、方法だ。


七

翌週、恒一は秋葉原に行った。

ラジオ会館の三階で、PC-9801RXの展示機の前に立った。定価

三十六万八千円。メモリは六百四十キロバイト。ハードディスクは

別売り、四十メガで十万円。

キーボードに触れた。

MS-DOSのプロンプトが、緑の画面に点滅している。

恒一は「A>」の後に、しばらく何も打たなかった。

この機械で書けることは、少ない。ネットワークはない。パソコ

ン通信のモデムは二千四百bps、二〇二六年の光回線の四十万分の

一。この機械に、自分の知る言語はほとんど存在しない。Cはある

がC++は怪しい。ライブラリはない。フレームワークという言葉も

ない。ソースを共有する場所はない。検索する場所もない。

自分の頭の中には、三十五年分の設計がある。それを、この機械

の上で、一行ずつ、自分の手で、最初から書かなければならない。

それは絶望だろうか。

恒一は、隣の男が退屈そうに触っていた別の機械の画面を見た。

BASICで、誰かが書きかけの、ボールが跳ねるだけのプログラム。

「……ああ」

これは、絶望ではない。

これは、自分がいちばん楽しかった頃の景色だ。

道具がなくて、書く。知識がなくて、調べる。誰も教えてくれな

くて、試す。三十五年のあいだに、いつの間にか恒一は、それを忘

れていた。ライブラリを組み合わせ、レビューを通し、リリースを

流す。それが仕事になり、仕事になったときに、あの熱が消えた。

十九歳の体は、その熱を覚えている。

恒一は展示機の前で、C言語のコンパイラの値段を店員に聞い

た。

三万二千円。それに、走らせる機械が三十六万八千円。財布の中

身と通帳の残高を足しても、届かない。仕送りを一年貯めても、届

かない。

恒一は、店員に礼を言って、ラジオ会館を出た。

駅前の書泉で、中古のC言語の本を一冊、千八百円で買った。そ

れと、大学ノートを三冊。

道具が来るまで、紙に書く。

一九九一年に大学に入れば、計算機センターがある。そこに、た

ぶん、UNIXがある。それまでの一年、設計は紙でいい。設計は、

もともと紙で始まるものだ。


八

四月九日、開講式。

新宿の教室に、三百人の十八歳と十九歳が座っている。恒一は後

ろから四列目の、窓側の席に着いた。

前の席で、隣の男がまた漫画を読んでいる。

壇上の講師が言った。

「一年は長い。でも、一年しかない。この一年をどう使うかで、

たぶんおまえらの人生は変わる。変わらないやつもいるけどな」

教室がまた笑った。

恒一はノートを開いた。表紙に、前の週に書いた言葉。

知っていることと、できることは、違う。

彼は、大学に行くことにした。

前と同じ大学かどうかは、わからない。前と同じ会社に入るか

も、わからない。だが、受験勉強はやる。この一年を飛ばさない。

理由は簡単だった。

三十五年、システムを作ってきて、ひとつだけ確かなことがあ

る。障害を再現するには、手順を飛ばしてはいけない。ひとつでも

飛ばしたら、それは別のシステムになる。

自分は、今ここにいる自分が、なぜここにいるのかを知らない。

だから、手順を守る。守った上で、変えられるところを変える。

秋葉原で買ったのは、中古の本と、大学ノートが三冊。コンパイ

ラも、機械も、まだ買えない。買えるのは、たぶん、来年の秋以降

だ。

夜、部屋に戻ったら、大学ノートの残りのページに、設計を書

く。三十五年後に自分が作ることになる、あの執行エンジンの設計

だ。取引所の板をメモリに映し、注文を分けて、いつ、いくつ、ど

こに送るかを決める仕組み。今書けば、それは誰の設計でもない。

自分の設計だ。

まだ存在しない世界に向けて、一行ずつ。

講師が黒板に、最初の英文を書き始めた。

恒一はシャープペンを握った。指の関節に、まだ痛みはなかっ

た。

窓の外を、中央線が通り過ぎていった。


九

その夜、八王子の部屋で、恒一は電気を消して布団に入った。

合板の天井が、暗闇の中で見えなくなった。

いつか目を覚ましたら、二〇二六年の椅子の上かもしれない。

ターミナルのログはとっくに流れ終わって、ビルドは通っている

か、落ちているか。

それでもいい、と恒一は思った。

どちらの世界にいても、やることは同じだ。

朝起きて、机に向かって、書く。

窓の外で、終電が過ぎていった。

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