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月影浴2 ノイズ~静寂  作者: @naka-motoo
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少女の怒り(その3)

「結構、人っ気が無いね」

「うん・・・ちょっと一人で来るには怖い所だね・・・」

 結構物騒なところだな、と思った。

 僕とさつきちゃんは資材の注文を終わってホームセンターの駐車場を突っ切り、バス停に向かおうとしていた。ホームセンターの辺りは買い物客の車がひっきりなしに出入りしているけれども、その敷地を一歩外に出ると、周囲は刈り取りの始まった田んぼばかりだ。バス停も少し離れた場所にある。今時、自家用車ではなく、バスでホームセンターに買い物に来る人はいないのだろう。バス停に向かうのは僕とさつきちゃんの2人だけだった。

 ただ、50mほど後ろに、まばらにある街灯の中、ぼんやりと人影が見えた。あれ、あの人もバスに乗るのかな?と思った瞬間、その人影は田んぼのあぜ道の方へ曲がっていった。

 時刻は20:50。

 こんな時間に田んぼ仕事?もしかして、米泥棒とか?などと想像してみるが、すぐに意識は別の所に移った。

「あ、バス停、見えて来たよ」

 さつきちゃんが、ベンチが置いてあるだけのバス停を指さす。

「虫の声がにぎやかなくらいだね」

 さつきちゃんの言葉に、確かに、と思った。種類を聞きわけることができないくらいの様々な虫の音が僕らの耳に飛び込んでくる。ただ、僕の左耳は鼓膜が破れた後、相変わらず蝉の鳴き声しか聞こえないけれども。

ベンチには座らず、バス停の看板の隣に並んで立った僕たちの背後で、カサコソと音がした。

蛙も鳴いていたので、そうだろうとばかり思っていると、突然ガサガサっと稲が踏み倒されるような音がした。次の瞬間、

‘カン!’

 後頭部に、質としては軽いが、かなりの衝撃を受けた。その物体を受け止めた僕の後頭部自身の分析によると、これはおそらく金属製の中が空洞のものだ。おそらく筒状のパイプのようなもの。衝撃の質感としては鉄ではなくもっと軽いアルミか何かでできたパイプだろう。建築用の細い配管資材か何か。多分、人間の片手でも力任せに振り回せるくらいの軽さと長さのもの。それを僕の後頭部めがけて躊躇なく振り下ろしてきたのだろう。

‘ズパッ!’

僕の後頭部自身の分析が終わりかけた頃、今度はまた違う衝撃が後頭部のほぼ同じ部分に加わった。パイプの先端部分が僕の後頭部の肉を少しえぐって斜めにかすっていくような感じの。多分、僕が前のめりによろめいたので、パイプの側面ではなく先端がかすめるような形になったのだろう。でもその分鋭利な痛みが加わる。

僕はその場に崩れ落ち、ようやくのことで片膝をついた。

‘横になりたい’

 僕は倒れるのではなく、そのままそこに仰向けになってしまった。眼はまだ開けていられる。

 さつきちゃんが一瞬僕の方をちらっと見、僕を抱き起したいような表情を見せる。でもさつきちゃんはそのままパイプのようなものを持っているだろう相手の方に向き合う。

 もし、僕を守ろうとするなら正しくて冷静な選択だ。相手はまだ攻撃態勢を解いた訳ではないだろうから。

 でも、それはさつきちゃんが武器を持った相手に戦闘で勝てるのならばという話だ。

「岡崎君・・・」

 さつきちゃんが相手に向かって声をかける。さつきちゃんの後ろ姿の向こうに見える相手の顔を見てみる。

 マスクとニット帽で顔を隠そうとしているがどう見ても岡崎だ。

 骨折した手首はまだくっついておらず腕を吊ったままだ。

 だから片手で操れる武器を使ったのか。

 武器?

 それは武器とすら呼べない卑怯で陰険な代物だ。岡崎が持っているのはただの‘凶器’だ。目の前にいる岡崎は凶器を持った犯罪者だ。

 僕はそこで事態の本当の重大さにようやく気付いた。

‘さつきちゃん、逃げなきゃだめだ!’

 そう怒鳴ろうとするが、もはや声を出すことすらできない。

「岡崎君・・・あなたは卑怯者ですらない・・・」

 さつきちゃんは背筋をこれ以上ないというくらいぴんと伸ばして真正面から相手を見据えている。それに対して岡崎はパイプを片手に握ったままゆらゆらしている。

「あなたはただの恥知らず」

 さつきちゃんは相手の攻撃を更に呼び寄せるような言葉を吐く。これ以上相手を挑発してどうするんだ、逃げろ、と僕は思った。

 けれども、さつきちゃんの後ろ姿をもう一度見て僕は何も言えなくなった。

 小柄なさつきちゃんの後ろ姿からは炎のような怒りが感じられる。さつきちゃんの頭頂部辺りの髪の何本かが宙に向いているように見える。多分、風で髪が少しあおられているだけなのだろうけれども、怒気で本当に髪の毛が逆立っているのではないかと錯覚する。

 まさか、凶器を持った岡崎に本気で勝つつもりなのか?

「岡崎!」

 一瞬、それが誰の声なのか分からなかった。さつきちゃんは今まで決して人を呼び捨てにすることは無かった。でも、それは間違いなくさつきちゃんの声だ。そして、いつものさつきちゃんの声質・声の高さではあるけれども、そこにウーファーから出たような重い、猛獣の咆哮のような響きが加わっている。

 岡崎はその声に一瞬驚いたような表情を見せたけれども、次の瞬間、岡崎から表情が消えた。まずい、岡崎がキレた!と僕は焦ったけれども、そうではなかった。

 岡崎の目は既に焦点すら定められず、怒りの塊のようなさつきちゃんの姿から目を反らそうとしていた。岡崎はもう、負けている。

「岡崎っ!」

 さっきよりも更に一段圧力のある声でさつきちゃんは岡崎を‘叱り飛ばした’。

 岡崎は目線を合わせるどころか、さつきちゃんの方向を見ることすらできないようだ。走って逃げることさえ怖くてできない様子だ。岡崎は背後に怯えるような素振りを何度も見せながら、恐ろしくゆっくりとした足取りでのろのろと歩いて去って行った。

 ああ、さつきちゃんはこんなに強いのに。なんで僕はこんなに弱いんだろう。

 そんなことをぼんやりと考えながら、僕は眠りにつくように目を閉じた。


 鈍い痛みはあるけれども、我慢できないほどではない。それに意識が薄れていく、というのはこういう感覚なんだな、と初めて知った。このまま意識が薄れてどこかのタイミングで消えてしまうのが‘死’だとしたら。そしてそれが神様のご意向なのだとしたら。僕はそれを受け入れるしかないだろうし、意外なほど穏やかな生と死の境目に僕はそんなに嫌悪感を抱いていない。

 でも、さっきからさつきちゃんの声が何度も何度も聞こえてくるような気がする。

「かおるくん、かおるくん、かおるくん!」

 何度もただただ僕の名前を呼び続けている。

 背中にさつきちゃんの腕の感覚がある。さつきちゃんの腕の体温と、これは膝なのだろうか?少し硬い筋肉のような感触が背中からお尻の辺りに感じられる。僕は、さつきちゃんに抱きかかえられているようだ。

「かおるくん、かおるくん・・・

 かおるくんが居なくなったら、どうしよう・・・どうしよう・・・」

 僕は意識が薄れ、もはやさつきちゃんの声は聞こえない。けれども、声ではない声といおうか、さつきちゃんの心の起伏が直接僕に伝わってきているらしい。さつきちゃんが泣いているということも僕の心に直に伝わってくる。

 こうして思うと僕とさつきちゃんの縁というのは不思議なものだったな、と思う。

 今となっては気恥ずかしい‘告白’から恋愛ではなく、‘縁’としか呼べないような関係が始まり、惚れた腫れたではない遣り取りを意識してきた。でも、ここへきてごく普通の女の子が使うような言葉が突然にさつきちゃんから出て来た。僕が生き死にの分かれ目にいるらしいその時に出て来た言葉は、多分‘惚れた腫れた’とは違う意味の感情だとは思う。

 僕に対する繊細で言葉にし難い感情を無理に何かに置き換えるとしたら‘どうしよう’という言葉しかとりあえず思いつかなかった、というようなものだと思う。

 でも、さつきちゃん。人間の生き死には人間ではどうすることもできない。愚痴なことを言わないで。僕もできればさつきちゃんと一緒にいたい。だけどこれ以上2人して愚痴なことを言ってもどうにもならない。

 僕は薄れゆく意識に身を任せてこのまま死んでしまうことへの抵抗感は無くなっていた。さつきちゃんの言葉に後ろ髪は引かれるけれども、詮無いことだ。

 けれども、次に感じたさつきちゃんの言葉に、僕の心は震えてしまった。


「わたしの結婚相手は、かおるくんだったのに・・・・」


 思わず、涙がこぼれた。僕自身の体は死に向かって衰弱し、涙も出ないはずだけれども、それでも涙があふれた。

 人間の生き死には神様がお決めになられることだ。そしてそれは人間の幸・不幸といったことをはるかに超えた基準でなされるはずだ。そこには人間ごときが思いもつかない深い深い意味がある。この人智など及びもしない神様の深いご意向を、残念ながら凡人の僕は感じることがなかなかできない。感じ取れないから‘理不尽だ’と腹を立ててしまう。

 でも、そもそも、僕は神様のご意向を感じ取ろうとしただろうか?

 僕は今自分が死に向かうことが神様のご意向だと思い込んでいる。でも、それは単に自分の今の肉体の状態が‘死にそうだ’という常識から自分で勝手に判断しているだけではないいのか?

 僕は心を静めてみる。すると、幾度も幾度も呼び寄せて頂きお参りさせていただいた、神社の風景が浮かんできた。

 桜の季節の美しい花の香り。それが散って間髪を入れず初夏に向かう眩しい日差しと鮮やかな新緑の木々が作り出すくっきりとした真っ黒な木陰。真夏の蝉の鳴き声と衰弱して地面を這うようにして歩く同じ蝉の姿。神様に最後のご挨拶をするように神前で動かなくなっているスズメバチの死骸。手水の井戸水の冷たさ。秋深まる涼しい空気の中、数が増えて来る合格祈願の絵馬。冬の朝、雪が積もった白い境内を、新しい足跡をつけながら向かうご神前。そして、また春が来て、さつきちゃん、太一、脇坂さん、遠藤さん、耕太郎と一緒に見させて頂いた満開の桜。

 この、幾度もお参りさせていただいた日々は偶然だったのだろうか?

 さつきちゃんとの出会い、5人組+1名との出会いも偶然なのだろうか?

 古い木造の家のおばあちゃんとお地蔵様・お不動様がその場所からいなくなられたのも偶然だったのだろうか?

 さつきちゃんのおばあちゃんの‘クリームソーダ’の話も偶然だったのだろうか?

 僕のおばあちゃんが十数年前、僕を連れて見たであろう神社の桜の、その匂いの記憶も偶然だったのだろうか?

 そして、あの、掛け軸の人の涼しい目と、それを見て僕がこんな男になりたいと思ったことは、すべてみんな偶然だったのだろうか?

 僕は残念ながら、まだ神様のご意向が本当は何なのか感じ取ることはできない。

 でも。

 けれども。

 もし、僕とさつきちゃんが結婚するようなことがあったとして、もしそれで子供を授かったとして。

 そして、もしその子が神様のご意向を感じ取ることのできる子に育つのだとしたら、僕が今死に向かうことは本当に神様のご意向なのだろうか?それまでのすべてのことは偶然で、今僕が死に向かうということだけが必然なのだろうか?


 突然、何かが僕の薄れゆく意識の中に響いてきた。

‘眼を開けよ’

 これは、何なのだろう。

 声でもない。文字でもない。でも、はっきりと自分に伝わってくる。感じ取れる。

 それは、左の鼓膜が破れた耳の蝉の音が一瞬静寂になり、その左耳の側から、音ではなく、別の方法で感じられるものだった。

 ああ、ここで即座にこの語り掛けに反応しないと。

 咄嗟に僕はそう思うのだけれども、神様、眼が開きません。眼を開こうとしても開けることができません。

‘今一度、眼を開けよ’

 再び、この言葉が感じられた。

 もし、これが本当に神様のご意向であるならば。

 眼は開くはずだ。

 神様はできないことをお示しにはならない筈だ。

 もし、自分がそれをできないのだとしたら、神様のご意向に背こうとする思い上がりが自分の中にあるからだ。

‘かたじけない。’僕がこれまで使ったことの無いようなこんな古風な言葉が、自分自身の心の中にふっと浮かび上がった。

 もう一度、静かに眼を開けようと試みる。

 ゆっくりと。ゆっくりと。瞼の隙間から一閃、少しオレンジがかった柔らかな光が差し込んでくる。鳥居が見える。それは、デパートの大通りに沿って一直線上に神社の鳥居の上にあったあの夕陽の光だ。僕が家に向かって歩いている時、背後から後押しするように照らしてくれた、哀しくて優しいあの光だ。

 そのままもう少し瞼を開けてみる。すると今度は白い光に変わった。

 白い光は街灯の蛍光灯の光のようだ。その光を背景にするようにぼんやりと影が見える。

「かおるくん・・・・」

 涙に濡れたような悲しみに溢れたような声が聞こえる。

 僕はそのまま一気に目を開けた。

「かおるくん・・・!」

 今度は心ではなく、自分の耳にさつきちゃんの声がはっきりと聞こえる。開いた目にさつきちゃんの泣き顔がはっきりと映っている。

 僕が目を開いて何度か瞬きをした瞬間、さつきちゃんは、堪えたような声を出してさっきよりもぽろぽろと涙をこぼした。

 さつきちゃん。僕が目を開けたのになんで泣くの?

 僕が単純にそう思った時、さつきちゃんは突然顔を近づけ、僕の左頬にキスをした。

 え、なんで今?と思ったけれど、さつきちゃんは一度頬から唇を離すと、もう一度頬の同じ場所にキスしてくれた。

「ごめんね・・・」

 僕はさつきちゃんの心の分析を試みる。きっとさっき、僕がこのまま死んでしまったら、手さえつないであげなかった、頬にキスさえしてあげなかった、ということがさつきちゃん自身の心残りのような、僕への罪悪感のようになると思ったのだろう。だから、生き返った瞬間に、とりあえずキスしておこうと思ったのに違いない。そう僕は勝手に解釈する。

 さつきちゃんはもう一度、頬の同じ場所にキスしてくれた。三度もキスしてくれたのだ。三度目は、唇を小鳥の嘴のような感じにして、‘かぷっ’とほっぺたを齧るような感じで。僕はちょっと‘?’という感じになる。この‘かぷっ’というのは一体どういう意味なのだろうか?シリアスから急にコミカルに転じるようなユーモラスな感触。

 けれども、後頭部からは血が出たままだ。重傷には違いない。それに以前‘血が固まりにくい体質だ’とも言われている。でも、さっきからの出来事の中で、何だか脳が頭の中でかき混ぜられるような、よく分からないけれども脳の部品が元あった位置に戻っていくような不思議な感覚があった。

 そして、僕は驚いたことに、ゆっくりと上体を無意識のうちに起こしていた。

 さつきちゃんは僕の動きに応じて抱き起してくれた。

「わたし、救急車呼びに行くね」

 僕たちは2人とも携帯電話を持っていない。さつきちゃんはずっと向うにあるホームセンターまで戻って救急車を呼んでもらうつもりらしい。僕は自分でも驚いたことに、そのままゆっくりと立ち上がった。さつきちゃんは「え?」という感じで大急ぎで肩を支えてくれた。

「救急車は駄目だ」

 僕は自分でも何を言っているのか分からなかった。自分で思考してこう言っているのではなく、自動的に喋っているとしか思えない。

 さつきちゃんは次に当然の反応を示してきた。

「どうして?こんなに血が出てるのに・・・ほんとに死んじゃうよ・・・どうしてそんなこと言うの?」

 さっきのネコ科の猛獣のような怒りの塊ではなく、今、さつきちゃんはただの1人の女の子になってしまっている。でも、僕はそんなさつきちゃんが、かわいらしいと感じる。

「救急車を呼んだら警察沙汰になる。そしたら岡崎はもう社会復帰できない。

 それに、救急車が搬送する病院に行ったら、僕は助からない・・・」

 さつきちゃんは絶句している。涙を流したまま僕の顔をじっと見ている。

 僕自身も一体なぜ自分がこんな言葉を発しているのかさっぱり分からない。ただ、自動的に自分の口が動く。

「じゃあ、どうすればいいの?」

 さつきちゃんは何かを感じ取ったのか、僕であって僕ではない何かが発しているその言葉に素直に対応しようとし始めている。

「ここから500mの場所に個人の脳外科医がある。今日はまだ病院を開けたままで僕を待ってくれている。そこに行けば僕は助かる」

「わたし、かおるくんをおんぶするよ」

 さつきちゃんは本当に凄いと思う。さつきちゃんの心意気に感動する。

 でも、僕はさつきちゃんを遮った。

「大丈夫、自分で歩ける。肩だけ貸して」

 さつきちゃんは精一杯背伸びして僕の身長にできるだけ合うようにして肩を貸してくれている。

 僕の足はよろよろとよろめきながら、それでも躊躇なく目的地を目指して歩いているようだ。全く見たことの無い風景の中、時間をかけて進んでいく。後頭部からの血はまだ流れているようだ。時折心配そうにさつきちゃんが、大丈夫?、と声を掛けて来る。これも僕の意思とは関係なく、‘心配ない’と答える。僕が‘心配ない’という言い回しでさつきちゃんに答える筈がないのだ。やはり今僕を動かしているのは僕以外の誰かだ。

 たどり着いた目の前には本当に病院があった。「こばやし脳神経外科クリニック」と看板がかかっている。病院の建物はまだ新しい。案内板に書かれた診療時間は19:00までとなっている。今、21:30。とっくに終わっているがカーテンのかかった窓からはまだ明かりが漏れている。さつきちゃんはインターフォンを鳴らしてくれた。

「はい。どうされました?」

 男性の声だ。医者だろうか?

「夜分遅く申し訳ありません。頭を怪我したんです。出血もかなりあって・・・

 どうか、診ていただけないでしょうか?」

 さつきちゃんがそう相手に話すと、しばらくして入り口の所に人影がやってきてガチャガチャと鍵を開けた。

「どうぞ、お入りください。歩けますか?」

 僕たちを迎えてくれたのはインターフォンの男性ではなく女性の看護師だった。僕は、はい、と返事して、さつきちゃんと2人で診察室に向かった。

 さっきインターフォンで話した‘小林先生’は僕たちを前にちょっと信じられないことを言った。でも僕はごく自然なこととして捉えた。さつきちゃんもさっきからの出来事の流れから、事実として受け止めているようだ。

「あなた方が来るのはわたしには分かっていました。今日の夕方、どうしてか分かりませんが、夜に急患が来るような気がして病院を開けておかなければ、と強く感じたんです。実はこういうことは以前にも何度かありました。だから、看護師も無理に1人残って貰っていました。そして、怪我の状態もあらかじめわたしは直感できたんです。

 二回、何かで後頭部を殴られましたね。二回目で頭が切れて血が出た。

 何で殴られましたか?」

 まるでその場で見ていたかのようなこの不思議な質問に、さつきちゃんは落ち着いて的確に答えてくれた。

「建築用資材のようなパイプです。太さは直径5cmくらいで、材質は多分アルミです。かおるくんが殴られた時の音の感じで鉄ではないと思いました」

 小林先生はさつきちゃんの顔を見てうんうんと頷きながら、ペンを持った自分の手元は見ずにカルテに物凄いスピードでメモを取っている。

「よく、分かりました。多分もう少し重量のあるパイプで殴られていたら即死だったでしょう。殴られた箇所は人間の急所です。傷口をまず見てからすぐにMRIを撮りましょう」

 驚いたことに、個人病院にも拘わらず、MRIを始め、最新鋭の機器が一通り揃えられていた。入院用のベッドもあるという。

 完全な止血は難しいようだが、とりあえず傷口を消毒しガーゼを当てられた。そのままM

RIの部屋に入る。

 僕がMRIに入っている間に、さつきちゃんは僕の家に電話をしてお母さんに知らせてくれた。夏に鼻を折り、鼓膜を破って入院した時と同じだと思った。僕に進歩がないのか、それとも岡崎に進歩が無いのか見解の分かれるところだろう。僕の家に電話した後、さつきちゃんは自分の家にも電話し、僕に一晩付き添うことの了承を得た。さつきちゃんのお母さんも思う所大だろう。

 MRIの結果は頭蓋骨・脳内ともに異常無しだった。小林先生は手際よく処置をしながらしきりに首をかしげている。

 僕は何か参考になるかと思い、さっき、脳みその中がかき回されるような、何か脳の中の収まりがつくような感覚があったと伝えた。

「ああ、成程」

 小林先生は再び、まるで日常会話のように続けた。

「どうも、私の病院を時折誰かが指定してくれているようなんですよ。その誰かというのは多分とんでもなく偉い人だと思います。もしかしてあなたに心当たりはないですかね」

 僕は小林先生にどこまで話していいのか分からなかった。でも、小林先生の目を見ていると、何だかすべてを話したくなった。小林先生は‘信じる’というよりは、‘事実をそのままに認める’ことができる人のような気がした。

 僕は、意識が薄れかけた時に見た、毎日お参りさせていただいた神社の四季の風景のことを話した。

「やはり、そうか・・・」

 小林先生は長年の謎が解けた、と言った。

「大変光栄であり、また、畏れ多いことではありますが、どうやら私の病院はその神社の神様ご本人か、その神様に関わりのあるこれまた人間でない誰かのご指定で時折あなたのような患者さんを受け入れてきたようです。私がここで開業して5年ですが、その間に‘予感’があった患者さんはあなたで4人目です」

 小林先生は僕にMRIの写真を見せながら説明してくれた。

「さっきあなたのお連れの女性から聞いた話だと、殴ったのは大の男だという。片手とはいえ、音からしても力任せに振った筈だという。間違いなくあなたの脳や脳の中の血管は何らかのダメージを受けていたはずなのです。

 でも、何の異常もない。これはあなたがここへ来る前にその誰かが応急処置どころか完全な治療まで終えてしまっているとしか考えられない。

 私が施すのはあなたの傷口を数針縫うことだけです」

 僕は後頭部の傷口周辺の髪を看護師に剃って貰い局部麻酔を受けた。小林先生はまるで理髪師が髪を切るような躊躇の無さであっという間に傷口を縫い終わった。

「私の病院が選ばれたのは私の技量とは関係ないでしょう。

 検査用の設備が一通り揃っていることがひとつ。もうひとつは、‘神様’という普通の人がなかなか認めようとしない‘事実’をそのまま認めてしまうような私の‘愚かさ’からでしょう」


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