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婚約破棄されたのでしょぼしょぼしていたら、顔のいい副団長様の理性値が下がりました  作者: 篠瀬


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6/7

6


 イヴァンが仕事へ戻ったあと、オリヴィエも教室へ戻るはずだった。

 はずだった、というのは、戻れなかったからだ。


 午後の学園は、少しだけ騎士庁舎に似ていた。廊下の向こうでは騎士科の生徒たちが行き来している。教師に呼ばれた者。騎士に何かを確認されている者。背筋を伸ばして歩く者。


 髪の後ろで、灰紫のリボンが揺れた。

 意識しないようにした時点で、もう駄目だった。


「フォルカー嬢」


 声をかけられて、オリヴィエは足を止めた。


 騎士科の男子生徒だった。制服の上着は一般科と同じ形だが、胸元に騎士科の徽章がある。見覚えは、少しだけあった。先ほど、騎士科の生徒たちが廊下の端を通った時、その中にいた気がする。


 頭上には、理性値:67。


 高すぎず、低すぎない。


 ただ、指先が落ち着かなかった。上着の裾を一度つまみ、すぐ離す。視線はオリヴィエへ向いているのに、すぐ横へ逃げる。


「騎士科の教官が、旧資料室前でお呼びです」

「旧資料室前で、ですか」

「はい。副団長様の確認の件だそうです。総括官の娘であるあなたに、聞きたいことがあると」


 オリヴィエは瞬きをした。


 副団長様。


 それは、間違ってはいない。

 けれど、先ほどのイヴァンは騎士科の訓練場も見てくると言っていた。今日はここまで、とも言った。


 用があるなら、自分で言う人だと思う。


 けれど、オリヴィエは仕事の手順をすべて知っているわけではない。父の職務に関わると言われれば、無視してよいのか分からなかった。


「どなたがお呼びですか」

「教官です」

「お名前は」


 男子生徒の喉が小さく動いた。


「……急いでいるので。来ていただければ分かります」


 オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。


 嘘をついている、とまでは言えない。けれど、全部は言っていない。


 そういう顔だった。


「分かりました」


 言ってから、すぐに思う。


 分かっていない。何も分かっていない。


 けれど、本当に教官からの呼び出しだった場合、父の仕事に差し障るかもしれない。副団長の仕事の邪魔になるかもしれない。それは、困る。


 オリヴィエは男子生徒の後ろについて歩いた。


 学園の廊下は、表側は明るい。


 けれど、旧資料室へ近づくにつれて人の声が薄くなっていく。中庭へ抜ける道から外れ、普段は使われない通路へ入る。壁の色も、少し暗い。窓はあるが、片方の鎧戸が歪んでいて光の入り方が細い。


 昨日の市場には、逃げ道があった。ここには、少ない。

 そう思った瞬間、イヴァンの声がよみがえった。


 曖昧な扉が、一番危ない。


 旧資料室の扉は、半分だけ開いていた。

 閉まっているのでも、開いているのでもない。曖昧だった。


 とても、よくない。


「あの」


 オリヴィエが足を止める。


「教官の方は、どちらに」

「中です」

「中には入りません」


 男子生徒が振り返った。


「え」

「旧資料室は、今日の確認で副団長様が危ない場所だとおっしゃっていました。教官の方が中にいらっしゃるなら、扉の外でお待ちします」

「……面倒くさいな」


 声が変わった。

 それは独り言のようだったけれど、オリヴィエの耳には届いた。


 見たものは、口から出る。

 聞こえたものも、たまに出る。


「今、面倒くさいとおっしゃいました」

「言ってない」

「聞こえました」

「言ってないって」

「では、私の耳が嘘をついたことになります」


 男子生徒の理性値が、47まで下がった。


 廊下の奥で、扉の影が動く。


 一人ではなかった。


 旧資料室の中から、別の男子生徒が二人出てきた。どちらも騎士科の徽章をつけている。片方は背が高く、もう片方は横幅がある。三人とも、オリヴィエより体が大きい。


 オリヴィエは一歩下がった。下がった先に、壁があった。


「少し話を聞くだけだよ、フォルカー嬢」

「話なら、明るい廊下でお願いします」

「ここでいいだろ。誰にも邪魔されないし」

「邪魔が入らない場所で女性を囲むのは、話ではなく脅しです」


 三人が黙った。


 口が滑った。


 けれど、滑った先が事実だったので、拾いに行く必要はない。


 そう言えた。言えたけれど、指先は冷たくなっていた。

 背の高い男子生徒が、鼻で笑った。


「婚約破棄されたばかりなのに、随分元気だな」

「私は、ミーナ様に何かしましたか」

「泣いてたんだよ」

「先ほどは、泣いていませんでした」

「泣きそうだったんだよ」

「泣きそう、は泣いたとは違います」

「そういうところだろ」


 横幅のある男子生徒が、苛立ったように一歩近づいた。


 理性値:39。


 怒っている。


 けれど、怒る理由がこちらへ向いていない。彼らは最初から何かを決めている。オリヴィエが何を言っても、決めた形へ押し込もうとしている。


「ミーナ嬢は、君に話したいだけだって言ってたんだ」

「では、ミーナ様ご本人がいらっしゃればよかったと思います」

「女の子が怯えてるんだから、こっちが助けてやるのは当然だろ」

「怯えている方が、人を人気のない場所へ呼び出すのでしょうか」

「だから、話を――」

「話なら明るい廊下でできます」


 声は、思ったより細かった。


 オリヴィエは扉を見た。半分開いた旧資料室。

 隙間から見えるのは、古い棚と、使われていない訓練用の棒、破れた布をかぶせられた木箱。天井近くの棚板が少し傾いている。


 危ない。


 見れば分かる。見えてしまう。


 だから、困る。


「私は戻ります」


 オリヴィエが一歩横へ動こうとした時、最初に声をかけてきた男子生徒が前へ出た。


 道が塞がれる。


「謝るまで戻すなって」


 言ってから、彼ははっとした。

 言ってはいけないことを言った人の目だった。

 オリヴィエはそれも見た。


「どなたに、そう言われたのですか」

「……っ」

「ミーナ様ですか」

「違う」

「違うと言う前に、視線が右へ逃げました」

「うるさいな」


 横幅のある男子生徒が手を伸ばした。


 肩をつかもうとしたのだと思う。

 オリヴィエは反射的に身を引いた。


 背中が旧資料室の扉に当たる。半開きだった扉が、ぎい、と音を立ててさらに開いた。


 中の棚が揺れた。傾いていた棚板が、ずれた。

 上に積まれていた木箱が、一つ落ちる。


 乾いた音。

 埃。

 棒が転がる。


 オリヴィエは息を止めた。


 逃げる場所が、ない。


「動くな」


 低い声がした。


 廊下の空気が、変わった。


 三人の男子生徒が振り返るより早く、紺色の騎士服が視界に入った。


 イヴァンだった。


 仕事中の、冷静な副団長。


 の、はずだった。


 頭上の数字は、理性値:3。


 低い。低すぎる。


 けれど、オリヴィエは怖くなかった。

 なぜなら、その数字がこちらへ向いていないと分かったからだ。


 抑えているのは、怒り。それから、加減。


「オリヴィエ嬢」

「はい」

「俺の後ろにいて」


 イヴァンは三人から視線を外さないまま、静かに言った。


「そこが一番安全だから」


 オリヴィエは、すぐに動いた。自分でも驚くくらい、すぐだった。

 イヴァンの背中の後ろへ入る。広い背中だった。


 紺色の騎士服。銀の飾緒。腰の剣。仕事の人の背中。


 そして、理性値:3の背中。


 怖くない。

 理性値が3なのに、怖くない。


「レインハルト副団長、これは」

「黙れ」


 短い声だった。三人が止まる。

 イヴァンは笑った。口元だけ、薄く。


 笑っているのに、空気がまったく柔らかくならない。むしろ廊下の温度が下がった気がした。


「騎士科の生徒が三人で、一般科の令嬢を人気のない旧資料室へ呼び出した。半開きの扉。管理不明の棚。退路の遮断。言い訳は、あとで聞く」

「俺たちは、ただ」

「ただ?」


 イヴァンが一歩進む。

 背の高い男子生徒が、反射的に身構えた。


 騎士科の生徒としては、正しい反応だったのだと思う。けれど、相手が悪かった。


 イヴァンが、一歩で間合いを消した。


 次の瞬間、背の高い男子生徒の腕がねじられ、体が壁へ押さえつけられていた。剣は抜いていない。拳も入れていない。ただ、関節と重心だけで、相手を動けなくしている。


「遅い」


 低い声だった。

 それなのに、口元だけは薄く笑っていた。


 横幅のある男子生徒が飛びかかろうとした。訓練で習った動きなのだろう。踏み込みは強い。


 でも、次の一歩がなかった。


 イヴァンは半身をずらし、足を払う。勢いを殺さず、けれど床へ叩きつけすぎない角度で落とした。音は大きいが、怪我をさせる落とし方ではない。


「足りない」


 笑っている。

 笑っているのに、怖い。


 騎士団長様が仕込んだ、何かが出ている。


 野生。


 たいへん野生。


「逃げ――」


 最初に呼びに来た男子生徒が踵を返した。

 イヴァンは床に転がっていた訓練用の棒を靴先で跳ね上げ、手に収める。そのまま投げた。

 棒は男子生徒の足元に当たり、走り出しかけた足が止まる。


 次の瞬間、イヴァンは背後にいた。


「判断が遅い」


 肩を押さえられた男子生徒が、その場に膝をついた。


 三人。


 ほんの数息。


 誰も大きな怪我はしていない。


 でも、誰も立てない。


 オリヴィエはイヴァンの背中の後ろで、唇をきゅっと結んだ。

 今、口を開くと、よくない言葉が出る。


「レインハルト副団長!」


 廊下の向こうから、教師と騎士科の教官が走ってくる。少し遅れて、騎士が二人。

 騎士科の教官の顔色が変わった。


 自分の生徒が、騎士科の徽章をつけたまま何をしたのか。遅れて、その意味が届いた顔だった。

 教官は一度、旧資料室の半開きの扉を見た。そして、唇を引き結んだ。


 イヴァンは三人を押さえたまま、顔だけを向けた。


「教官。旧資料室側の通路は、今日から管理対象に入れてください」

「……はい」

「鍵の所在。扉の状態。棚の固定。呼び出しに使われた生徒名。全て確認を」

「すぐに」

「それと」


 イヴァンの声が、さらに低くなる。


「誰の指示で動いたか、聞いてください」


 男子生徒たちの肩が揺れた。


 オリヴィエは見てしまった。


 最初に呼びに来た男子生徒が、廊下の角を一瞬だけ見た。


 イヴァンも、それを見た。見逃さなかった。


「そこの隠れている君」


 廊下が静かになった。

 教師も、教官も、騎士も、男子生徒たちも、同じ方向を見る。


 そこには、ミーナがいた。


 廊下の角。ちょうど、こちらからは半分隠れる位置。

 ミーナはびくりと肩を揺らした。


「出ておいで」


 イヴァンの声は、優しくなかった。

 怒鳴ってもいない。ただ、逃げ道を塞ぐ声だった。


 ミーナは動かなかった。


「二度言わせる気かな」


 今度は、動いた。


 ミーナはゆっくりと廊下の角から出てきた。目元は潤んでいない。唇も震えていない。けれど、両手で制服のスカートを握っている。指先だけが白い。


 頭上には、理性値:84。


 高い。


 高いのに、優しそうには見えなかった。


 何かを抑えている。

 少なくとも、涙ではなかった。


「わ、私は……」

「まだ何も聞いていないよ」


 イヴァンが静かに言った。ミーナの言葉が止まる。

 教師の一人が、困惑したようにミーナを見る。


「ミーナ嬢。なぜここに」

「私は、ただ……心配で」

「誰を」


 ミーナは小さく息を吸った。


「オリヴィエ様を、です」


 心配。


 人気のない場所に呼び出された自分を、廊下の角から隠れて見ていること。

 それは、心配とは少し違う気がした。


「心配なら、まず教師を呼ぶべきだった」


 イヴァンが言った。


「騎士科の生徒三人に囲まれた令嬢を見て、隠れている理由にはならない」

「でも、私は……そんなつもりじゃ」

「つもりは、後で聞く」


 ミーナの肩がまた小さく揺れる。

 その時、床に膝をついていた男子生徒の一人が顔を上げた。


「ミーナ嬢が、フォルカー嬢に謝ってほしいって」

「やめて!」


 ミーナの声が響いた。高い声だった。

 泣いてはいない。怒っている。


 教師たちの視線が、ミーナへ集まる。


 ミーナははっとしたように口を押さえた。けれど、もう遅い。


 オリヴィエは見ていた。


 叫ぶ前の息も。叫んだ後の指先も。それでも、涙の出ない目元も。


「ミーナ様」


 オリヴィエは言った。イヴァンがほんの少しだけ振り返る。


 止めない。


 ミーナがこちらを見た。


 オリヴィエは、唇をきゅっと結ぶ。

 結んだ。けれど、言葉は出た。


「今日は、泣かないのですね」


 廊下が、静かになった。


 ミーナの目が大きく開く。

 教師の一人が息を止めたのが分かった。騎士科の教官が、何かを理解したように眉を寄せる。


 泣いているから可哀想。

 怯えているから助けなければいけない。


 そういう形が、今はなかった。


 ただ、泣いていないミーナがいた。怒っているミーナがいた。

 そして、人気のない旧資料室の前で、オリヴィエを囲んだ男子生徒たちがいた。


「わ、私は……」

「ここから先は、教師と教官の前で話してください」


 イヴァンが遮った。


 それから、少しだけ横へ視線を流す。

 廊下のさらに向こう。そこに、ロイドがいた。


 遠巻きに立ち尽くしている。驚いたようにこちらを見ていた。ミーナへ駆け寄ろうとしたのか、半歩だけ足が前に出ている。


「アシュフォード令息」


 イヴァンの声に、ロイドがびくりとする。


「今は近づくな。関係者を増やすだけだ」

「しかし、ミーナが」

「教師がいる。教官もいる。騎士もいる。君が今することはない」


 ロイドは口を開いた。けれど、何も言わなかった。


 オリヴィエは、ロイドを見なかった。

 見ようと思えば見えた。でも、見なかった。

 もう、あの人が何を言うかは、今の自分にはあまり関係がない気がした。


 それよりも、目の前のことだ。


 ミーナ。

 騎士科の男子生徒たち。

 旧資料室の扉。

 落ちた木箱。

 閉まっていなかった場所。

 見えていたのに、進んでしまった自分。


 その全部が、ここにある。


「オリヴィエ嬢」


 イヴァンに呼ばれて、オリヴィエは視線を戻した。


 いつの間にか、男子生徒たちは騎士と教官に引き渡されている。床に落ちた木箱や棒も、教師が慌てて片づけ始めていた。

 ミーナも教師のそばに立たされている。泣いていない。ただ、指先だけが白い。


 イヴァンは、オリヴィエの前に立っていた。


 理性値:9。


 少しだけ上がった。それでも一桁だった。


「怪我は」

「ありません」

「本当に?」

「はい」

「怖かった?」


 オリヴィエは答えようとして、止まった。


 旧資料室の扉。

 落ちた木箱。

 三人の男子生徒。

 逃げ道の少ない通路。

 怖かった。


 怖かった、と思う。


 けれど。


「副団長様が来てからは、怖くありませんでした」


 イヴァンの目元が、一瞬だけ動いた。

 それから、口元を覆うように片手を上げる。


「……今、それを言うの」

「事実なので」

「うん」


 イヴァンが息を吐いた。

 笑ったのか、困ったのか、少し分からない息だった。


「それで、さっきの俺は?」

「たいへん野生でした」


 言ってしまった。


 イヴァンが止まった。数秒、本当に止まった。


 それから、肩を小さく震わせた。


「野生」

「はい。騎士団長様の気配がしました」

「それ、団長が聞いたら笑うよ」

「褒め言葉に聞こえますか」

「少なくとも、俺はちょっと嬉しい」

「喜ぶところではありません」

「うん。ごめん」


 そう言う声は、先ほどとは違っていた。


 柔らかい。けれど、まだ低い。

 怒りが全部消えたわけではないのだと思う。


 イヴァンはオリヴィエに触れなかった。

 手を伸ばしかけもしなかった。


 ただ、少しだけ距離を取って立っている。人目のある廊下。逃げ道のある位置。オリヴィエが動こうと思えば、すぐ動ける距離。


 理性値は低い。

 それなのに、やっぱり手は動かない。


「俺が離れたあとだった」

「副団長様のお仕事中でした」

「それでも、次は呼んで」


 イヴァンの声は静かだった。

 静かなのに、譲る気がない声だった。


「誰をですか」

「俺を」

「お仕事中でも?」

「仕事中でも」

「ご迷惑では」

「迷惑じゃない」


 即答だった。

 オリヴィエは目を上げる。


 イヴァンの理性値が、また少し下がった。


 理性値:6。


「君が危ないと思ったら、確認が違ってもいい。勘違いでもいい。後で笑われてもいい。俺が行く」

「副団長様」

「うん」

「それは、少し重いです」

「抑えてる」

「理性値が6です」

「そこは言っちゃうんだ」

「事実なので」


 イヴァンは困ったように笑った。

 さっき、男子生徒たちへ向けた笑みとはまったく違う。

 こちらは、少し負けたように目元が緩んでいる。


 見ていると、心臓が跳ねる。


 跳ねなくていい。

 今は、跳ねる場面ではない。


 旧資料室の扉が、教師の手で閉められる。きちんと閉まる音がした。曖昧ではなくなった音だった。


 ミーナは教師たちに囲まれている。

 泣いていない。理性値も高い。だから、善良というわけではない。


 何かを抑えているだけ。


 オリヴィエは、その意味を少しだけ分かった気がした。


「オリヴィエ嬢」

「はい」

「教室まで送る」

「お仕事は」

「戻る前に送る」

「……はい」


 断れる距離だった。

 断っても、きっとイヴァンは引く。

 分かっているのに、断らなかった。


 イヴァンは今日も手を取らない。

 ただ、隣ではなく、少しだけ前を歩いた。


 俺の後ろにいて。

 そこが一番安全だから。


 さっき言われた言葉が、まだ耳に残っている。


 旧資料室の扉は、もう半分開いていなかった。


 理性値が一桁でも、安全な場所はあるらしい。


 それが、たいへん困る。


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