6
イヴァンが仕事へ戻ったあと、オリヴィエも教室へ戻るはずだった。
はずだった、というのは、戻れなかったからだ。
午後の学園は、少しだけ騎士庁舎に似ていた。廊下の向こうでは騎士科の生徒たちが行き来している。教師に呼ばれた者。騎士に何かを確認されている者。背筋を伸ばして歩く者。
髪の後ろで、灰紫のリボンが揺れた。
意識しないようにした時点で、もう駄目だった。
「フォルカー嬢」
声をかけられて、オリヴィエは足を止めた。
騎士科の男子生徒だった。制服の上着は一般科と同じ形だが、胸元に騎士科の徽章がある。見覚えは、少しだけあった。先ほど、騎士科の生徒たちが廊下の端を通った時、その中にいた気がする。
頭上には、理性値:67。
高すぎず、低すぎない。
ただ、指先が落ち着かなかった。上着の裾を一度つまみ、すぐ離す。視線はオリヴィエへ向いているのに、すぐ横へ逃げる。
「騎士科の教官が、旧資料室前でお呼びです」
「旧資料室前で、ですか」
「はい。副団長様の確認の件だそうです。総括官の娘であるあなたに、聞きたいことがあると」
オリヴィエは瞬きをした。
副団長様。
それは、間違ってはいない。
けれど、先ほどのイヴァンは騎士科の訓練場も見てくると言っていた。今日はここまで、とも言った。
用があるなら、自分で言う人だと思う。
けれど、オリヴィエは仕事の手順をすべて知っているわけではない。父の職務に関わると言われれば、無視してよいのか分からなかった。
「どなたがお呼びですか」
「教官です」
「お名前は」
男子生徒の喉が小さく動いた。
「……急いでいるので。来ていただければ分かります」
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
嘘をついている、とまでは言えない。けれど、全部は言っていない。
そういう顔だった。
「分かりました」
言ってから、すぐに思う。
分かっていない。何も分かっていない。
けれど、本当に教官からの呼び出しだった場合、父の仕事に差し障るかもしれない。副団長の仕事の邪魔になるかもしれない。それは、困る。
オリヴィエは男子生徒の後ろについて歩いた。
学園の廊下は、表側は明るい。
けれど、旧資料室へ近づくにつれて人の声が薄くなっていく。中庭へ抜ける道から外れ、普段は使われない通路へ入る。壁の色も、少し暗い。窓はあるが、片方の鎧戸が歪んでいて光の入り方が細い。
昨日の市場には、逃げ道があった。ここには、少ない。
そう思った瞬間、イヴァンの声がよみがえった。
曖昧な扉が、一番危ない。
旧資料室の扉は、半分だけ開いていた。
閉まっているのでも、開いているのでもない。曖昧だった。
とても、よくない。
「あの」
オリヴィエが足を止める。
「教官の方は、どちらに」
「中です」
「中には入りません」
男子生徒が振り返った。
「え」
「旧資料室は、今日の確認で副団長様が危ない場所だとおっしゃっていました。教官の方が中にいらっしゃるなら、扉の外でお待ちします」
「……面倒くさいな」
声が変わった。
それは独り言のようだったけれど、オリヴィエの耳には届いた。
見たものは、口から出る。
聞こえたものも、たまに出る。
「今、面倒くさいとおっしゃいました」
「言ってない」
「聞こえました」
「言ってないって」
「では、私の耳が嘘をついたことになります」
男子生徒の理性値が、47まで下がった。
廊下の奥で、扉の影が動く。
一人ではなかった。
旧資料室の中から、別の男子生徒が二人出てきた。どちらも騎士科の徽章をつけている。片方は背が高く、もう片方は横幅がある。三人とも、オリヴィエより体が大きい。
オリヴィエは一歩下がった。下がった先に、壁があった。
「少し話を聞くだけだよ、フォルカー嬢」
「話なら、明るい廊下でお願いします」
「ここでいいだろ。誰にも邪魔されないし」
「邪魔が入らない場所で女性を囲むのは、話ではなく脅しです」
三人が黙った。
口が滑った。
けれど、滑った先が事実だったので、拾いに行く必要はない。
そう言えた。言えたけれど、指先は冷たくなっていた。
背の高い男子生徒が、鼻で笑った。
「婚約破棄されたばかりなのに、随分元気だな」
「私は、ミーナ様に何かしましたか」
「泣いてたんだよ」
「先ほどは、泣いていませんでした」
「泣きそうだったんだよ」
「泣きそう、は泣いたとは違います」
「そういうところだろ」
横幅のある男子生徒が、苛立ったように一歩近づいた。
理性値:39。
怒っている。
けれど、怒る理由がこちらへ向いていない。彼らは最初から何かを決めている。オリヴィエが何を言っても、決めた形へ押し込もうとしている。
「ミーナ嬢は、君に話したいだけだって言ってたんだ」
「では、ミーナ様ご本人がいらっしゃればよかったと思います」
「女の子が怯えてるんだから、こっちが助けてやるのは当然だろ」
「怯えている方が、人を人気のない場所へ呼び出すのでしょうか」
「だから、話を――」
「話なら明るい廊下でできます」
声は、思ったより細かった。
オリヴィエは扉を見た。半分開いた旧資料室。
隙間から見えるのは、古い棚と、使われていない訓練用の棒、破れた布をかぶせられた木箱。天井近くの棚板が少し傾いている。
危ない。
見れば分かる。見えてしまう。
だから、困る。
「私は戻ります」
オリヴィエが一歩横へ動こうとした時、最初に声をかけてきた男子生徒が前へ出た。
道が塞がれる。
「謝るまで戻すなって」
言ってから、彼ははっとした。
言ってはいけないことを言った人の目だった。
オリヴィエはそれも見た。
「どなたに、そう言われたのですか」
「……っ」
「ミーナ様ですか」
「違う」
「違うと言う前に、視線が右へ逃げました」
「うるさいな」
横幅のある男子生徒が手を伸ばした。
肩をつかもうとしたのだと思う。
オリヴィエは反射的に身を引いた。
背中が旧資料室の扉に当たる。半開きだった扉が、ぎい、と音を立ててさらに開いた。
中の棚が揺れた。傾いていた棚板が、ずれた。
上に積まれていた木箱が、一つ落ちる。
乾いた音。
埃。
棒が転がる。
オリヴィエは息を止めた。
逃げる場所が、ない。
「動くな」
低い声がした。
廊下の空気が、変わった。
三人の男子生徒が振り返るより早く、紺色の騎士服が視界に入った。
イヴァンだった。
仕事中の、冷静な副団長。
の、はずだった。
頭上の数字は、理性値:3。
低い。低すぎる。
けれど、オリヴィエは怖くなかった。
なぜなら、その数字がこちらへ向いていないと分かったからだ。
抑えているのは、怒り。それから、加減。
「オリヴィエ嬢」
「はい」
「俺の後ろにいて」
イヴァンは三人から視線を外さないまま、静かに言った。
「そこが一番安全だから」
オリヴィエは、すぐに動いた。自分でも驚くくらい、すぐだった。
イヴァンの背中の後ろへ入る。広い背中だった。
紺色の騎士服。銀の飾緒。腰の剣。仕事の人の背中。
そして、理性値:3の背中。
怖くない。
理性値が3なのに、怖くない。
「レインハルト副団長、これは」
「黙れ」
短い声だった。三人が止まる。
イヴァンは笑った。口元だけ、薄く。
笑っているのに、空気がまったく柔らかくならない。むしろ廊下の温度が下がった気がした。
「騎士科の生徒が三人で、一般科の令嬢を人気のない旧資料室へ呼び出した。半開きの扉。管理不明の棚。退路の遮断。言い訳は、あとで聞く」
「俺たちは、ただ」
「ただ?」
イヴァンが一歩進む。
背の高い男子生徒が、反射的に身構えた。
騎士科の生徒としては、正しい反応だったのだと思う。けれど、相手が悪かった。
イヴァンが、一歩で間合いを消した。
次の瞬間、背の高い男子生徒の腕がねじられ、体が壁へ押さえつけられていた。剣は抜いていない。拳も入れていない。ただ、関節と重心だけで、相手を動けなくしている。
「遅い」
低い声だった。
それなのに、口元だけは薄く笑っていた。
横幅のある男子生徒が飛びかかろうとした。訓練で習った動きなのだろう。踏み込みは強い。
でも、次の一歩がなかった。
イヴァンは半身をずらし、足を払う。勢いを殺さず、けれど床へ叩きつけすぎない角度で落とした。音は大きいが、怪我をさせる落とし方ではない。
「足りない」
笑っている。
笑っているのに、怖い。
騎士団長様が仕込んだ、何かが出ている。
野生。
たいへん野生。
「逃げ――」
最初に呼びに来た男子生徒が踵を返した。
イヴァンは床に転がっていた訓練用の棒を靴先で跳ね上げ、手に収める。そのまま投げた。
棒は男子生徒の足元に当たり、走り出しかけた足が止まる。
次の瞬間、イヴァンは背後にいた。
「判断が遅い」
肩を押さえられた男子生徒が、その場に膝をついた。
三人。
ほんの数息。
誰も大きな怪我はしていない。
でも、誰も立てない。
オリヴィエはイヴァンの背中の後ろで、唇をきゅっと結んだ。
今、口を開くと、よくない言葉が出る。
「レインハルト副団長!」
廊下の向こうから、教師と騎士科の教官が走ってくる。少し遅れて、騎士が二人。
騎士科の教官の顔色が変わった。
自分の生徒が、騎士科の徽章をつけたまま何をしたのか。遅れて、その意味が届いた顔だった。
教官は一度、旧資料室の半開きの扉を見た。そして、唇を引き結んだ。
イヴァンは三人を押さえたまま、顔だけを向けた。
「教官。旧資料室側の通路は、今日から管理対象に入れてください」
「……はい」
「鍵の所在。扉の状態。棚の固定。呼び出しに使われた生徒名。全て確認を」
「すぐに」
「それと」
イヴァンの声が、さらに低くなる。
「誰の指示で動いたか、聞いてください」
男子生徒たちの肩が揺れた。
オリヴィエは見てしまった。
最初に呼びに来た男子生徒が、廊下の角を一瞬だけ見た。
イヴァンも、それを見た。見逃さなかった。
「そこの隠れている君」
廊下が静かになった。
教師も、教官も、騎士も、男子生徒たちも、同じ方向を見る。
そこには、ミーナがいた。
廊下の角。ちょうど、こちらからは半分隠れる位置。
ミーナはびくりと肩を揺らした。
「出ておいで」
イヴァンの声は、優しくなかった。
怒鳴ってもいない。ただ、逃げ道を塞ぐ声だった。
ミーナは動かなかった。
「二度言わせる気かな」
今度は、動いた。
ミーナはゆっくりと廊下の角から出てきた。目元は潤んでいない。唇も震えていない。けれど、両手で制服のスカートを握っている。指先だけが白い。
頭上には、理性値:84。
高い。
高いのに、優しそうには見えなかった。
何かを抑えている。
少なくとも、涙ではなかった。
「わ、私は……」
「まだ何も聞いていないよ」
イヴァンが静かに言った。ミーナの言葉が止まる。
教師の一人が、困惑したようにミーナを見る。
「ミーナ嬢。なぜここに」
「私は、ただ……心配で」
「誰を」
ミーナは小さく息を吸った。
「オリヴィエ様を、です」
心配。
人気のない場所に呼び出された自分を、廊下の角から隠れて見ていること。
それは、心配とは少し違う気がした。
「心配なら、まず教師を呼ぶべきだった」
イヴァンが言った。
「騎士科の生徒三人に囲まれた令嬢を見て、隠れている理由にはならない」
「でも、私は……そんなつもりじゃ」
「つもりは、後で聞く」
ミーナの肩がまた小さく揺れる。
その時、床に膝をついていた男子生徒の一人が顔を上げた。
「ミーナ嬢が、フォルカー嬢に謝ってほしいって」
「やめて!」
ミーナの声が響いた。高い声だった。
泣いてはいない。怒っている。
教師たちの視線が、ミーナへ集まる。
ミーナははっとしたように口を押さえた。けれど、もう遅い。
オリヴィエは見ていた。
叫ぶ前の息も。叫んだ後の指先も。それでも、涙の出ない目元も。
「ミーナ様」
オリヴィエは言った。イヴァンがほんの少しだけ振り返る。
止めない。
ミーナがこちらを見た。
オリヴィエは、唇をきゅっと結ぶ。
結んだ。けれど、言葉は出た。
「今日は、泣かないのですね」
廊下が、静かになった。
ミーナの目が大きく開く。
教師の一人が息を止めたのが分かった。騎士科の教官が、何かを理解したように眉を寄せる。
泣いているから可哀想。
怯えているから助けなければいけない。
そういう形が、今はなかった。
ただ、泣いていないミーナがいた。怒っているミーナがいた。
そして、人気のない旧資料室の前で、オリヴィエを囲んだ男子生徒たちがいた。
「わ、私は……」
「ここから先は、教師と教官の前で話してください」
イヴァンが遮った。
それから、少しだけ横へ視線を流す。
廊下のさらに向こう。そこに、ロイドがいた。
遠巻きに立ち尽くしている。驚いたようにこちらを見ていた。ミーナへ駆け寄ろうとしたのか、半歩だけ足が前に出ている。
「アシュフォード令息」
イヴァンの声に、ロイドがびくりとする。
「今は近づくな。関係者を増やすだけだ」
「しかし、ミーナが」
「教師がいる。教官もいる。騎士もいる。君が今することはない」
ロイドは口を開いた。けれど、何も言わなかった。
オリヴィエは、ロイドを見なかった。
見ようと思えば見えた。でも、見なかった。
もう、あの人が何を言うかは、今の自分にはあまり関係がない気がした。
それよりも、目の前のことだ。
ミーナ。
騎士科の男子生徒たち。
旧資料室の扉。
落ちた木箱。
閉まっていなかった場所。
見えていたのに、進んでしまった自分。
その全部が、ここにある。
「オリヴィエ嬢」
イヴァンに呼ばれて、オリヴィエは視線を戻した。
いつの間にか、男子生徒たちは騎士と教官に引き渡されている。床に落ちた木箱や棒も、教師が慌てて片づけ始めていた。
ミーナも教師のそばに立たされている。泣いていない。ただ、指先だけが白い。
イヴァンは、オリヴィエの前に立っていた。
理性値:9。
少しだけ上がった。それでも一桁だった。
「怪我は」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「怖かった?」
オリヴィエは答えようとして、止まった。
旧資料室の扉。
落ちた木箱。
三人の男子生徒。
逃げ道の少ない通路。
怖かった。
怖かった、と思う。
けれど。
「副団長様が来てからは、怖くありませんでした」
イヴァンの目元が、一瞬だけ動いた。
それから、口元を覆うように片手を上げる。
「……今、それを言うの」
「事実なので」
「うん」
イヴァンが息を吐いた。
笑ったのか、困ったのか、少し分からない息だった。
「それで、さっきの俺は?」
「たいへん野生でした」
言ってしまった。
イヴァンが止まった。数秒、本当に止まった。
それから、肩を小さく震わせた。
「野生」
「はい。騎士団長様の気配がしました」
「それ、団長が聞いたら笑うよ」
「褒め言葉に聞こえますか」
「少なくとも、俺はちょっと嬉しい」
「喜ぶところではありません」
「うん。ごめん」
そう言う声は、先ほどとは違っていた。
柔らかい。けれど、まだ低い。
怒りが全部消えたわけではないのだと思う。
イヴァンはオリヴィエに触れなかった。
手を伸ばしかけもしなかった。
ただ、少しだけ距離を取って立っている。人目のある廊下。逃げ道のある位置。オリヴィエが動こうと思えば、すぐ動ける距離。
理性値は低い。
それなのに、やっぱり手は動かない。
「俺が離れたあとだった」
「副団長様のお仕事中でした」
「それでも、次は呼んで」
イヴァンの声は静かだった。
静かなのに、譲る気がない声だった。
「誰をですか」
「俺を」
「お仕事中でも?」
「仕事中でも」
「ご迷惑では」
「迷惑じゃない」
即答だった。
オリヴィエは目を上げる。
イヴァンの理性値が、また少し下がった。
理性値:6。
「君が危ないと思ったら、確認が違ってもいい。勘違いでもいい。後で笑われてもいい。俺が行く」
「副団長様」
「うん」
「それは、少し重いです」
「抑えてる」
「理性値が6です」
「そこは言っちゃうんだ」
「事実なので」
イヴァンは困ったように笑った。
さっき、男子生徒たちへ向けた笑みとはまったく違う。
こちらは、少し負けたように目元が緩んでいる。
見ていると、心臓が跳ねる。
跳ねなくていい。
今は、跳ねる場面ではない。
旧資料室の扉が、教師の手で閉められる。きちんと閉まる音がした。曖昧ではなくなった音だった。
ミーナは教師たちに囲まれている。
泣いていない。理性値も高い。だから、善良というわけではない。
何かを抑えているだけ。
オリヴィエは、その意味を少しだけ分かった気がした。
「オリヴィエ嬢」
「はい」
「教室まで送る」
「お仕事は」
「戻る前に送る」
「……はい」
断れる距離だった。
断っても、きっとイヴァンは引く。
分かっているのに、断らなかった。
イヴァンは今日も手を取らない。
ただ、隣ではなく、少しだけ前を歩いた。
俺の後ろにいて。
そこが一番安全だから。
さっき言われた言葉が、まだ耳に残っている。
旧資料室の扉は、もう半分開いていなかった。
理性値が一桁でも、安全な場所はあるらしい。
それが、たいへん困る。




