7
旧資料室側の通路は、翌朝には閉ざされていた。
半開きだった扉は閉められ、古い札には赤い印がつけられた。騎士科の男子生徒たちは合同訓練から外され、教官の指導と正式な懲戒を受けることになったらしい。
ミーナは保護者を呼び出され、しばらく謹慎になった。
騎士科生徒との接触も、学園内での単独行動も制限される。
泣きそうな顔をした彼女に、教師が言ったそうだ。
泣いても、事実は変わりません。
その言葉を聞いた時、オリヴィエは少しだけ息を止めた。
当たり前のことだ。
でも、当たり前のことを当たり前に置かれると、胸の奥が少し軽くなる。
ロイドからも謝罪があった。
婚約破棄の場で、オリヴィエに「黙れ」と言ったこと。
疲れると言ったこと。
ミーナ側に立って、場の空気をそのまま信じたこと。
フォルカー家から正式な抗議が入り、婚約破棄の手続きはロイド側の有責を含めて進められることになった。
「謝罪は受け取ります。けれど、黙れと言われた場所へ戻るつもりはありません」
オリヴィエはそう言った。
それで終わりだった。
ロイドが何を思ったのか。
ミーナがこれからどう泣くのか。
騎士科の男子生徒たちがどれだけ叱られるのか。
それはもう、オリヴィエが見に行くものではなかった。
その代わりに、別の問題が来た。
イヴァン・レインハルト第一騎士団副団長が、フォルカー伯爵へ正式な面会を申し込んだのである。
父は書類を握り潰しかけた。
「お父様、書類の角が負けています」
「負けていない。耐えている」
「紙は耐えるものではありません」
「今日は耐えてもらう」
父の声はたいへん低かった。
オリヴィエは向かいの席で背筋を伸ばしていた。
母は扇の向こうで静かに笑っている。
笑っている。
つまり、全部分かっている顔だ。
「お母様」
「なあに」
「何かおかしいでしょうか」
「あなたが困っている顔をしているだけよ」
「困っています」
「そうね。でも、婚約破棄された日にしていた顔とは違うわ」
オリヴィエはまばたきをした。
母の声はやわらかかった。
けれど、そこにはきちんとした重さがあった。
「お前が、また少し笑うようになった」
父が低く言った。オリヴィエは父を見る。
父はまだ書類を握っている。角はかなり負けている。
けれど、父の目は怒っているだけではなかった。
「婚約破棄のあと、お前は泣かなかった。泣かなかったが、笑ってもいなかった」
「……はい」
「昨日から、少し違う」
「違いますか」
「違う。ものすごく違う。腹立たしいくらい違う」
「腹立たしい」
「相手が副団長でなければ、もう少し素直に喜べた」
母が扇で口元を隠した。
笑ったのだと思う。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
喜ぶ。
父が。
自分が笑っていることを。
それは少し、胸の奥にじんわり来た。
じんわり来るところではない。
今は副団長様が来る前で、きちんと座っていなければならない。
けれど、少しだけ目が熱くなった。
「お前が笑っているなら、それは認める」
父が言った。
「だが、早い」
「はい」
「早すぎる」
「はい」
「ものすごく早い」
「はい」
「返事が素直すぎる」
「はい。あ、今のは私にですか?」
「副団長に言う練習だ」
「練習」
たいへん父だった。
「あなた」
母が父を見た。
穏やかな声だった。
けれど、父の肩がほんの少しだけ止まった。
「練習はそこまでにしましょう。あなたが何度練習しても、レインハルト副団長は来るわ」
「来るのが問題だ」
「来ない人より、ずっといいわ」
「それは、そうだが」
「なら、座って待ちなさい」
父は黙った。
父は母に勝てないのだと思う。
理性値が見えなくても、分かることはある。
ほどなくして、イヴァンが来た。
騎士服ではない。
きちんとした訪問着だった。紺に近い落ち着いた色で、余計な飾りはない。
それなのに、顔がいい。
言わない。
今日は言わない。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
イヴァンの頭上には、理性値が見えていた。
理性値:26。
低い。
けれど、一桁ではない。
かなり頑張っている。
何を頑張っているのかは、考えない方がいい。
応接室には、父と母とオリヴィエがいた。
イヴァンは父の前で、まっすぐに頭を下げる。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「礼はいい。娘を助けてもらったことには感謝している。だが、それとこれとは別だ」
「承知しております」
「婚約破棄されたばかりの娘に、早すぎるとは思わないのか」
「思っています」
「では、なぜ来た」
「急かすためではありません。ですが、正式に申し込むためです」
父の眉が動いた。
オリヴィエも動きそうになった。
膝の上の指が、少しだけ跳ねる。
指まで跳ねなくていい。
イヴァンは軽く笑わなかった。
声も、いつものように甘く崩してはいなかった。
「返事を急がせるつもりはありません。ですが、私が本気であることを、ご家族とご本人に隠したくありません」
「隠さなければ何でも許されると思うな」
「はい」
「娘は、お前の理想を満たすための娘ではない」
「はい」
「守りたいと言って囲うだけなら、許さん」
「はい」
「黙らせる男も許さん」
「それは、私も許しません」
そこで、イヴァンの声が少しだけ低くなった。
「彼女が見たものを、私は聞きたい。間違っていれば確認します。危うければ止めます。けれど、見たことそのものをなかったことにはしません」
応接室が静かになった。
母が扇を閉じる音だけがする。
オリヴィエは、イヴァンを見た。
理性値:19。
下がっている。
父の前なのに。
今、下がるところだったのだろうか。
でも、少し分かる。
怒りではない。焦りでもない。
言葉を軽くしないように、抑えているのだと思った。
父はしばらくイヴァンを見ていた。
理性値は見えないはずなのに、父も何かを見ようとしている顔だった。
「オリヴィエ」
「はい」
呼ばれて、オリヴィエは背筋を伸ばした。
「お前の気持ちは」
「わ」
声が変なところで引っかかった。
オリヴィエは自分の口元を押さえそうになって、やめた。
押さえても出るものは出る。
「私の」
「そうだ」
「気持ち」
「そうだ」
「今、それを父の前で言わせるのは、あまりにも父です」
「父だから聞いている」
「父が強いです」
「父だからな」
母が扇の向こうで肩を揺らした。
オリヴィエは顔が熱くなるのを感じた。
頬だけではない。耳まで熱い。たいへん困る。
イヴァンがこちらを見ている。
見ないでほしい。
いや、見てほしい。
違う。
見ないでほしい。
心の中が忙しい。
忙しすぎる。
リタに見られたら、あとで櫛を通しながら静かに何か言われる。
「オリヴィエ」
父の声が、少しだけやわらかくなった。
「嫌なのか」
オリヴィエは息を吸った。
嫌。
その言葉は、違うと思った。
市場の続き。
まだ見ていない露店。
仕事中なのに一回だけと言って、二回リボンを褒めた声。
旧資料室で、自分の前に立った背中。
低い理性値。
それでも触れなかった手。
嫌ではない。
そこだけは、もう見えている。
「嫌では、ないです」
声は小さかった。
でも、出た。
イヴァンの目元が、ほんの少し崩れた。
父はその顔を見て、次にオリヴィエを見た。
しばらく黙る。
「……分かった」
「お父様」
「腹立たしいが、分かった」
「腹立たしいのですね」
「腹立たしい。だが、お前がそういう顔をするなら、一度だけ黙る」
「一度だけ」
「だが、二度目はない」
「何の二度目ですか」
「娘を泣かせる二度目だ」
オリヴィエは言葉を失った。
失うこともあるらしい。
とても珍しい。
イヴァンが静かに頭を下げる。
「二度目にはしません」
父はすぐには答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
母がそこで、静かに立ち上がった。
「少し庭を歩いていらっしゃい」
「お母様」
「返事は、あなたの口でしなさい。お父様の顔を見ながらではなくてね」
「返事」
「ええ。あなたの返事よ」
また顔が熱くなる。
返事。
自分の返事。
父が苦い顔をした。
「庭は近い」
「あなた」
「窓から見える」
「見すぎないように」
「努力はする」
「努力ではなく、そうなさい」
母はにこりと笑った。父は黙った。
庭は夕方の光の中にあった。
応接室から続く石畳の先に、低い植え込みと白い小花が並んでいる。花壇はよく手入れされていて、風が吹くと葉先が小さく揺れた。
遠くにはリタが控えている。
屋敷の窓も見える。
きっと父も見ている。
完全な二人きりではない。
けれど、声は届かない。
逃げ道のある場所だ。
オリヴィエは、それに気づいてしまった。
「副団長様」
「うん」
「ここも、逃げ道があります」
イヴァンが少し笑った。
「お母上が選んでくださった」
「はい」
「たぶん、俺より上手だ」
それはそうかもしれない。
オリヴィエは庭の石畳へ視線を落とした。
落としたけれど、すぐにイヴァンを見てしまう。
理性値:15。
低い。
父母の前より下がっている。
庭だからだろうか。
庭は危険なのだろうか。
いや、危険なのは庭ではない。
「オリヴィエ嬢」
「はい」
イヴァンが、正面からオリヴィエを見る。
いつもの軽さはない。
でも、重すぎて逃げ道を塞ぐような圧でもない。
ただ、まっすぐだった。
「俺と婚約してください」
言葉は短かった。
その短さが、胸に落ちた。
オリヴィエはすぐに答えられなかった。
答えたいのか、答えたくないのか。
分からないのではない。
分かるところと、分からないところがある。
嫌ではない。
それは分かる。
けれど、婚約。
イヴァン様。
昨日までは手も取らなかった人。
でも正式に席は取りに来る人。
情報が多い。
心臓も多い。
心臓は一つのはずなのに、今は三つくらい跳ねている気がする。
「返事は急がない」
イヴァンが言った。
「急がないのですか」
「急がない。けど、正式には申し込む」
「強いです」
「うん。そこは譲らない」
譲らない。
その言葉に、また胸が跳ねた。
跳ねなくていい。
いや、今は少し仕方ないのかもしれない。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
でも、言葉は出る。
「嫌じゃ、ないです」
イヴァンの目元が揺れた。
「……それ、返事として受け取っていい?」
「まだ全部じゃ、ないです」
「うん」
「でも……続きを見てもいいとは、思っています」
言ってから、オリヴィエは少しだけ息を吸った。
市場の続き。
まだ見ていない露店。
隣を歩く距離の続き。
逃げ道があるのに、使わなかった自分の続き。
そして、この人の隣で、自分が何を言うのかの続き。
「私は、まだ婚約破棄されたばかりです」
「うん」
「父も心配しています」
「うん」
「母も、たぶん心配しています。笑っていますけど」
「うん」
「私も、自分がどうしたいのか、全部は分かりません」
「うん」
「でも」
オリヴィエはイヴァンを見た。
「副団長様が私の言葉を黙らせないことは、少し信じています」
イヴァンの目が、やわらかくなった。
「少し?」
「はい。全部ではありません」
「厳しいね」
「事実なので」
「うん」
イヴァンが小さく笑った。
「じゃあ、続きを見てもらえるようにする」
「はい」
「急かさない」
「はい」
「でも、誘う」
「そこは急ぐのですか」
「席は取りに来たからね」
「強いです」
「そこは譲れない」
また、胸が跳ねた。
譲らない、ではなかった。
譲れない。
その一文字の違いが、なぜか胸に残った。
オリヴィエは視線を落としそうになって、やめた。
怖い時ほど見てしまう。
けれど今は、怖いからではない。
見たいと思った。
この人が、どういう顔で待つのか。
どんな声で、次の約束を差し出すのか。
どれだけ理性値が低くても、どこまで手を伸ばさずにいるのか。
それを、続きを、見たいと思った。
「では」
声が少し細くなった。
でも、止まらなかった。
「よろしくお願いします。イヴァン様」
初めて名前で呼んだ。
イヴァンの理性値が、一気に下がった。
理性値:6。
たいへん低い。
イヴァンは片手で目元を覆った。
「……こんな時に、それはずるい」
「事実なので」
「うん」
目元を覆ったまま、イヴァンは笑った。
笑ったのに、声が少し低い。
「今、君のお父上が窓の向こうにいるから、俺はかなり理性的でいられる」
「父がいなかったら?」
「言わない」
「言わないのですか」
「君の安全のために」
オリヴィエは瞬きをした。それから、少しだけ笑ってしまった。
笑ったら、イヴァンが手を下ろした。
その顔を見て、また胸が跳ねる。
理性値:5。
下がった。
笑っただけで下がった。
でも、嫌ではない。
「オリヴィエ」
「はい」
「手を取っても?」
イヴァンがそう聞いた。
今まで、取らなかったのに。
そう思った言葉は、口から出なかった。
代わりに、オリヴィエは自分の手を見た。
それから、イヴァンの手を見る。
大きい。
剣を持つ手だ。
人を守る手で、人を止める手で、昨日は怒っていても、誰にも乱暴に触れなかった手。
その手の上に、オリヴィエはそっと自分の指を置いた。
理性値:4。
下がった。
イヴァンの指が、ほんの少し動く。
けれど、握り込まない。
逃げようと思えば逃げられる持ち方だった。
だから、オリヴィエは逃げなかった。
「これも、嫌なら止めて」
「……止める時は、言います」
理性値:3。
さらに低い。
それなのに、怖くはない。
イヴァンの手はまだ、逃げられる形を残している。
「うん」
イヴァンが、少しだけ身を屈める。
唇が、手の甲に触れた。
ほんの一瞬だった。
その瞬間、数字が揺れた。
滲んで、ほどけて、夕方の庭の光に溶けるように消える。
オリヴィエは瞬きをした。
もう、理性値は見えない。
「……副団長様」
「うん」
「理性値が、見えなくなりました」
イヴァンの指が、ほんの少し止まった。
目元から、いつもの余裕が抜ける。
一瞬だけ、驚いた顔になる。
その奥から、ゆっくり嬉しさが滲んできた。
イヴァンは、オリヴィエの手を支えたまま、少しだけ息を吐いた。
「困る?」
「困ります」
「そっか」
困ると言ったのに、イヴァンはあまり困っていなさそうだった。
むしろ、嬉しさを隠しきれていないように見える。
数字は見えない。
けれど、その顔が嬉しそうなことくらいは分かった。
「じゃあ、次のデートはいつにする?」
オリヴィエは瞬きをした。
「……もう決めるのですか」
「うん」
「今ですか」
「今」
「理性値が見えなくなった直後です」
「だからだよ」
イヴァンは、支えていた手をゆっくり離した。
けれど距離は詰めない。
手の甲に残った熱だけが、まだ残っている。
「もう数字は見えないんでしょ」
「はい」
「じゃあ、次は俺を見て考えて」
オリヴィエは息を止めた。
数字ではなく。
イヴァン様を。
顔。
声。
手。
距離。
笑い方。
言葉の前に、少しだけ落ちる息。
見れば、きっと分かってしまう。
数字がなくても、この人が何を抑えているのか。
何を言おうとしているのか。
それを、今度は自分が見る。
そう思っただけで、手の甲の熱が戻ってきた。
「俺は、ずっと君を見てたよ」
「……言われましたね」
「うん。だから、今度は君が見て」
また、言われた。
覚えている。
前にも言われた。
さらっと告白しないでください、と口から出てしまったことも覚えている。
あの時は、まだ理性値が見えていた。
数字があった。
低いから抑えているのだと、見て分かった。
けれど、今はもう数字がない。
それなのに、この人がこちらを見ていることは分かる。
声が少しだけ甘いことも分かる。
手を離したのに、まだ近いことも分かる。
分かってしまう。
たいへん困る。
「できれば――俺の隣で、ずっと」
オリヴィエは息を止めた。
ずっと。
今、ずっとと言った。
さらっと。
まるで次のデートの日取りを決めるついでみたいに。
けれど、さらっと言っていい言葉ではない。
「……ずるいです」
「そうかもね」
「今のは、たいへん、ずるいです」
「うん」
「認めるのですね」
「勝てる場所で戦うから」
「私は戦場ではありません」
「そうだね。大事な相手だ」
まただ。
また、そういう言い方をする。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
結んだのに、言葉は出た。
「……イヴァン様は、かっこいいです」
イヴァンが、一瞬だけ動きを止めた。
それから、抑えきれなかったみたいに顔を綻ばせた。
いつもの軽い笑みではなかった。
余裕のある副団長の顔でもない。
ただ嬉しい、という感情が、目元から先に漏れていた。
オリヴィエはその顔を見て、また心臓が跳ねた。
跳ねなくていい。今日はもう、十分跳ねた。
でも、イヴァンがそういう顔をするからいけない。
「次のデートは、露店巡りの続きのあと、広場沿いの菓子店に寄ろうか」
「……もう決めるのですか」
「うん。奥に喫茶席があるらしいよ。木の実を使ったケーキが人気だって」
オリヴィエは黙った。
黙った。
黙ったのに、目が少し動いた。
木の実。
ケーキ。
広場沿いの菓子店。
奥の喫茶席。
それは、少し見たい。
たいへん見たい。
「……調べたのですか」
「君が好きそうだったから」
また、そういうことを言う。
理性値はもう見えない。数字はない。
けれど、イヴァン様が今、こちらを見ていることは分かる。
そして、自分が次のデートのことを考えてしまっていることも、分かる。
まだ見ていない露店。
広場沿いの菓子店。
木の実のケーキ。
隣に座る距離。
数字ではなく、イヴァン様を見る時間。
こんなの困る。
もう次のデートが楽しみな自分が、一番困っている。




