5
朝、リタはいつも通りオリヴィエの髪を整えていた。
櫛を通す。髪をまとめる。制服に合う髪飾りを選ぶ。
そこまでは、いつも通りだった。
「今日は、こちらにいたしましょう」
リタが手に取ったのは、灰紫のリボンだった。
昨日、市場広場でオリヴィエが自分で買ったものだ。
贈り物ではない。ただ、自分で選んだだけのリボン。
「それは」
「昨日、お買い求めになったリボンですね」
「自分で買いました」
「はい。お嬢様がご自分でお選びになった色です」
リタは侍女の顔で言った。
侍女の顔は強い。
何も言っていないようで、かなり言っている。
「別に、特別な意味はありません」
「はい」
「本当に」
「はい」
返事が丁寧すぎる。
オリヴィエは鏡の中の自分を見た。
灰紫のリボンは、制服によく合っていた。
派手ではない。けれど、いつもより少しだけ目に留まる。
イヴァン副団長の瞳の色に、少し似ている。
そう思ってしまって、オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
よろしくない。
たいへんよろしくない。
「お嬢様」
「はい」
「よくお似合いです」
「……ありがとうございます」
受け取ってしまった。
褒め言葉を受け取る練習は、昨日したばかりだった。
練習の成果が、出なくてもいい場所で出ている。
*
学園は、いつも通りだった。
白い石造りの廊下。磨かれた窓。先生の声。令嬢たちの視線。
婚約破棄の話は、当然のように広まっていた。
当然ではない。広まらなくていい。けれど、広まるものは広まる。
視線が来る。小さな声が聞こえる。誰かがこちらを見て、すぐに目を逸らす。
理性値は、だいたい高い。
聞きたいこと。言いたいこと。面白がりたい気持ち。同情している顔をしたい気持ち。
皆、いろいろ抑えている。
オリヴィエは、まだ何も言っていない。
けれど、灰紫のリボンが髪で揺れるたび、少しだけ落ち着かなかった。
自分で買ったものだ。
贈り物ではない。
ただのリボンだ。
そう思うのに、昨日の声が耳の奥に残っている。
じゃあ、続きに行こう。
また誘う。
続き。
また。
授業中に思い出すものではない。
たいへんよくない。
*
午後、廊下が少しざわついた。
騎士が来ているらしい。そう聞こえた。
騎士。
オリヴィエは手元の教科書へ目を落とした。
騎士はたくさんいる。
学園には騎士科もあり、来月には騎士庁舎との合同訓練もある。
だから、騎士と聞いただけで何かを思うのは早い。
早いのに、心臓が少し強めに動いた。
跳ねた、ではない。
動いた。強めに。
授業が終わり、廊下へ出ると、その理由はすぐに分かった。イヴァン副団長がいた。
紺を基調にした第一騎士団の服。銀の留め具。整えられた襟元。腰には剣。手には革の書類入れ。
教師と、騎士科の教官らしい男を相手に話している。
顔は仕事をしている。とても、している。
「騎士科の訓練場から中庭へ抜ける導線は、当日は塞がない方がいい」
「理由は」
「見学の生徒と騎士科の生徒がぶつかる。流れが割れる場所に警備を置くなら、正面ではなく斜めだ」
「なるほど」
「それと、旧資料室側の通路は?」
「普段は使っておりません」
「なら、当日だけ開けるなら鍵の管理を明確に。使わないなら閉じたままにしてください」
イヴァン副団長は、旧資料室の扉へ視線を向けた。
「曖昧な扉が、一番危ない」
短い。
正確。
無駄がない。
イヴァン副団長は、本当に副団長だった。
昨日、焼き菓子の前であんなふうに笑った人と同じ人なのに、まるで違う。
理性値:88。
とても高い。
高いのに、優しいというより、冷静だった。
何を見て、どこを塞がず、どこを守るか。
それをきちんと考えている人の数字だった。
騎士科の男子生徒たちが、廊下の端を通っていく。イヴァン副団長を見て、何人かが慌てて背筋を伸ばした。
オリヴィエは、その動きまで見てしまった。
見えるものが多いのは、疲れる。
けれど、今日はそれよりも、イヴァン副団長を見ていた。
その瞬間、イヴァン副団長がこちらを見た。
仕事の顔のまま。
けれど、ほんの少しだけ目元が緩む。
理性値:64。
下がった。
仕事中なのに。
今、下がるところだっただろうか。
「フォルカー伯爵令嬢」
仕事の声で呼ばれた。
周りに教師がいる。
騎士科の教官もいる。
生徒も廊下を歩いている。
だから、オリヴィエもきちんと返事をした。
「こんにちは、副団長様。今日も……」
止まった。
今日も。
顔がいいですね、と続きそうだった。危ない。
イヴァン副団長の目元が、さらに少しだけ緩んだ。
「顔?」
「まだ言っていません」
「言いそうだった」
「言いそうでした」
「正直で偉い」
「褒めるところではありません。仕事中です」
「そうだね」
イヴァン副団長は、書類へ目を落とした。
仕事に戻った。戻ったのに、オリヴィエを見る時だけ、声が少し柔らかい。
「そのリボン、似合うね」
「仕事中です」
「うん。だから、一回だけ」
一回だけならいい、という話ではない。
騎士科の教官が咳払いをした。オリヴィエは前を向いた。
たいへん困る。
褒められたリボンが、髪で揺れている気がする。
ただのリボンだ。自分で買ったものだ。
けれど、イヴァン副団長に似合うと言われてしまった。
言われてしまった言葉は、戻らない。
「レインハルト副団長」
「失礼。確認を続けます」
イヴァン副団長は、すぐ仕事の顔に戻った。
切り替えが早い。仕事ができる。
できるのに、こちらを見ると少しだけ崩れる。
それが分かってしまう。
分かってしまうから、困る。
*
確認作業は、長くは続かなかった。
イヴァン副団長は廊下を見て、扉を見て、階段を見て、必要なことだけを短く伝えていく。
旧資料室。
中庭側の通用口。
騎士科の訓練場へ続く通路。
普段は閉じている扉。
オリヴィエは関わっていない。
ただ、少し離れたところで見ていただけだ。
それでも、分かった。
副団長様は、よく見ている。
危ない場所。
人が滞る場所。
逃げ道になる場所。
塞いではいけない場所。
そういうものを、当たり前のように拾っている。
見えるものが多いのは、疲れる。
でも、見えるものを役に立てられる人は、少しかっこいい。
そこまで考えて、オリヴィエは目を伏せた。
少し、ではないかもしれない。
かなり。
かなり、かもしれない。
考えるのをやめたい。
やめたいのに、髪のリボンが揺れる。
「オリヴィエ嬢」
また呼ばれた。
今度は、教師たちから少し離れた場所だった。
完全に二人きりではない。人目はある。逃げ道もある。
イヴァン副団長は、いつもそういう場所を選ぶ。
「はい」
「市場の続き、忘れてないよ」
「……今、それを言うのですか」
「今なら一回で済むから」
「一回だけが多いです」
「ばれた」
悪びれない。
オリヴィエは唇をきゅっと結ぶ。
「お仕事で来たのでは」
「仕事だよ」
「本当に?」
「本当に。君に会える可能性がある仕事だっただけ」
また、さらっと。
理性値:21。
下がっている。仕事中なのに。
けれど、イヴァン副団長の手は動かない。距離も詰めない。
ただ、少しだけ柔らかい目でオリヴィエを見る。
「困らせてるね」
「分かっているなら、やめてください」
「やめた方がいい?」
「……困るだけです」
「うん」
それ以上は踏み込まなかった。
嫌かどうかを、もう一度聞かない。逃げ道を残す。
昨日と同じだ。
それなのに、昨日より少しだけ、オリヴィエの方が逃げ道を使いづらくなっている。
たいへん困る。
*
廊下の向こうに、ロイドとミーナがいた。
声は聞こえない。遠い。けれど、見える。
ロイドは何か言いたそうな顔をしていた。
けれど、イヴァン副団長の姿を見て、こちらへ来ることはしない。
ミーナは、ロイドの少し後ろにいた。
泣いていなかった。
目元は潤んでいない。口元も震えていない。
ただ、ミーナの視線はオリヴィエの髪で止まった。それから、イヴァン副団長へ移る。
仕事中の副団長が、オリヴィエを見る時だけ、少し目元を緩める。その瞬間を、見たのだと思う。
ミーナの唇が、小さく動いた。
声は聞こえない。
ただ、どうして、と言ったように見えた。
オリヴィエは瞬きをした。
見えてしまった。泣いていない。
けれど、怒っているように見えた。
「オリヴィエ嬢」
イヴァン副団長の声がした。
オリヴィエは、はっとして視線を戻す。
「はい」
「戻っておいで」
「……見ていました」
「知ってる」
イヴァン副団長は、ロイドたちの方へ行かなかった。
責めにも行かない。
釘を刺しにも行かない。
ただ、オリヴィエの隣にいる。
「向こうが来ないなら、こちらから用はない」
「よいのですか」
「うん。まだ仕事があるからね」
「騎士科の視察ですか」
「そう。訓練場も見てくる」
「はい」
「だから、今日はここまで」
今日はここまで。
昨日も似たような言葉を聞いた。
けれど、今日は仕事が理由だった。
少しだけ、残念だと思ってしまった。
思ってしまった。
たいへん困る。
「市場の続き」
「……はい」
「また誘う」
「はい」
また。
昨日も聞いた。
今日も聞いた。
また、が増えていく。
オリヴィエは、少し遅れてうなずいた。
その時、髪の灰紫のリボンが小さく揺れた。
イヴァン副団長の視線が、ほんの一瞬だけそこへ落ちる。
「……やっぱり、似合ってる」
「一回だけでは」
「ごめん。二回目だった」
理性値:18。
下がった。
自分で言って、自分で下がっている。
やはり、よく分からない。
「副団長様」
「うん」
「仕事中です」
「そうだね」
イヴァン副団長は、声を立てずに笑った。
それから、仕事の顔に戻る。
「またね、オリヴィエ嬢」
そう言って、騎士科の教官たちの方へ歩いていった。その背中は、やはり副団長だった。
冷静で。無駄がなくて。仕事ができる人だった。
けれど、オリヴィエを見る時だけ、少し違う。
普通に話しているだけなのに、普通ではない。
昨日より少し近くなった距離が、今日も嫌ではなかった。
そう思ってしまった自分に、オリヴィエはまた困った。
廊下の向こうで、ミーナはまだ泣いていなかった。
ただ、制服のスカートを握る指先だけが、白くなっていた。




