4
その日の授業は、いつもより少し長かった。
先生の声は聞こえている。
黒板の文字も見えている。
隣の席の令嬢が、ペン先を少し噛みそうになって、慌てて戻したのも見えている。
見えているのに、どうにも意識が放課後へ逃げた。
デート。
なるほど。
何もなるほどではない。
父への正式な申し込みは、本当に来た。
父は少し黙ったあと、書類を一枚破きかけたらしい。破いてはいない。理性的なので。
理性的とは。
けれど許可は出た。
母は、昨日帰ってきたオリヴィエの顔を見て、少しだけ笑っていた。
母には、理性値ではない何かが見えている。かなり見えている。
オリヴィエはノートの端を見つめた。
放課後。
理性値観察の練習。
それから、口説くため。
後半がそのまま父へ伝わっている。
やはり、なるほどではない。
*
放課後、イヴァン副団長は学園の門の外にいた。
騎士服ではなかった。
きちんとした上着を着ている。
市井へ出るには上等で、貴族の令嬢を連れて歩くには軽すぎない。
けれど、騎士庁舎で見る時よりも少しだけ柔らかい。
顔は相変わらず仕事をしている。
「こんにちは、オリヴィエ嬢」
「こんにちは、副団長様。今日も顔がいいですね……あっ」
「ありがとう。君も可愛いね」
返された。即座に返された。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
挨拶のつもりだった。
いや、挨拶のつもりで顔がいいと言うのも、どうなのか。
分からない。
ただ、見たものが出た。今日も出た。
たいへんよろしくない。
「今日もちゃんと来てくれた」
「父と母の許可が出ましたので」
「君の意思は?」
「来ました」
イヴァン副団長が笑った。
頭上には、理性値:11。
昨日より少し高い。
努力したのだろうか。
「理性値、上げてきたんですね」
「努力したからね」
「努力で上がるものなのですか」
「君に会う前は少し上がった」
「会った後は」
「聞く?」
「聞かないほうがよさそうです」
「賢いね」
褒められた、でいいのだろうか。
オリヴィエは鞄の持ち手を握り直した。
「今日はどちらへ」
「市場広場」
「市場」
「露店が多い。人も多い。理性値を見る練習にはちょうどいい」
「はい」
「それに、外だからね」
外。
オリヴィエは瞬きをした。
「外だと、何かあるのですか」
「息がしやすい。人目もある。嫌になったら、立ち止まっても、帰ってもいい」
イヴァン副団長は、軽く言った。けれど、昨日の続きのようだった。
低いのに、待つ。
近いのに、逃げ道を残す。
今日も、この人はそれをする。
「帰ってもいいのですか」
「いいよ」
「デートなのに」
「うん。君が帰りたい俺には、なりたくないから」
さらっと。
また、さらっと。
オリヴィエは前を向いた。
今、顔を見ると何かが出る。
「では、帰らないようにします」
「努力目標?」
「はい」
「うん。嬉しい」
その声が、思ったより素直だった。オリヴィエは隣を見る。
イヴァン副団長は、いつものように笑っていた。
けれど、目元が少しだけ柔らかい。
見てしまった。
見なかったことにはできない。
*
市場広場は、思っていたより明るかった。
中央に噴水があり、その周りを囲むように丸テーブルが並んでいる。
白いパラソルの下で、学生らしい若者たちが果実水を飲んでいた。
小さな子どもを連れた母親が、焼き菓子の包みを分けている。
少し離れたところでは、老人たちが盤上の駒を動かしていた。
友人。家族。恋人。
いろんな人がいて、いろんな声がする。
逃げ道が多い場所だった。
どこへでも歩いていける。
立ち止まってもいい。
噴水を一周してもいい。
帰る道も見えている。
それなのに、イヴァン副団長は隣にいる。
近い。
でも、触れない。
「まずは練習」
「はい」
「あの果物屋の店主は?」
「理性値が高いです。でも、少し怒っています」
「理由は?」
「値切られているからです。笑っていますが、指先が木箱を叩いています」
「正解」
即答だった。
オリヴィエは、イヴァン副団長を見た。
「副団長様」
「うん」
「分かっていましたね?」
「分かってた」
「これは練習ではありません」
「そうだね」
「認めるのですね」
「嘘はよくないから」
「その言い方も、何かよくありません」
「正直で偉い」
違う。そうではない。
言い返そうとした時、イヴァン副団長が少しだけ身をかがめた。
市場は賑やかだ。
普通に話しても聞こえる。
それでも、少し声を落とすには近づく必要がある。
近い。
肩が触れるほどではない。けれど、昨日より近い。
顔を上げると、イヴァン副団長の口元が見える距離。
「君とこうして話したかったから」
低く言われた。
ひそひそ話の距離だった。
オリヴィエは視線を前に戻した。
理性値:9。
下がっている。
近づいたからだろうか。いや、近づいたのは副団長様である。
自分で近づいて、自分で下がっている。
どういうことなのか。
「次は?」
「次」
オリヴィエは、通りを見た。
果物屋の隣では、小さな移動式の本屋が開かれていた。
背表紙の色が揃っていない本が、木箱の中に斜めに入っている。
その向こうでは、花屋が季節の花を束ねていた。赤い花。白い花。名前の分からない青い花。
別の露店には、平民向けの髪飾りや小さな指輪が並んでいる。
さらに奥には、用途の分からない短い刃物や細い金具が置かれた店があった。
武器だろうか。道具だろうか。
分からないものが多くて、視線が忙しい。
「気になる?」
「分からないものが多いです」
「見に行く?」
「いいのですか」
「そのために来たからね」
そのため。
理性値観察の練習では。
口実だった。そうだった。
オリヴィエは移動式の本屋を見た。
題名が読めるものもあれば、擦り切れて読めないものもある。
小さな料理の本。旅の記録。薬草の絵本。騎士物語。
騎士物語の表紙には、やけに凛々しい騎士が描かれていた。
隣のイヴァン副団長を見てから、表紙を見る。
違う。
何が違うかは分からないが、違う。
「今、比べた?」
「見比べました」
「どっちがいい?」
「副団長様のほうが顔がいいです」
「ありがとう」
「……また出ました」
「俺は嬉しいよ」
嬉しいらしい。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
次に見た花屋では、イヴァン副団長が花の名前をいくつか教えてくれた。
意外だった。花の名前を知っている人なのか。
「女性に花を贈り慣れているからですか」
「そう思う?」
「思いました」
「騎士団の慰問や式典で使うからだよ」
「そうなのですか」
「半分は」
「残り半分は」
「女の子に花を渡すと、笑ってくれることが多いから」
否定しない。
そういうところが、また困る。
オリヴィエは花束を見た。
淡い黄色の小さな花。
白く丸い花。
細い紫の花。
紫。
目が、少し止まった。
イヴァン副団長の瞳とは違う。でも、少し近い。
「それ、好き?」
「色が」
「うん」
「……見ていただけです」
「そっか」
イヴァン副団長は、それ以上聞かなかった。
ただ、見ていた。
オリヴィエが何を見るかを、見ている。
それが少し分かってきた。
通りの端では、小さな鳥が芸をしていた。
異国から来たという鳥らしい。
鮮やかな緑色の羽で、小さな輪をくぐる。
子どもたちが拍手をする。
鳥は得意げに頭を下げた。
頭上に理性値は見えない。
鳥だからだろうか。
それとも、鳥には別の何かが見えるのだろうか。
考えかけて、やめた。
これ以上、世界に表示されるものが増えると困る。
「楽しそう」
「鳥ですか」
「君が」
「私が」
「うん」
イヴァン副団長は、少し笑っていた。
軽い笑みではなかった。柔らかい笑みだった。
「嬉しそうですね」
「嬉しいよ」
「何がですか」
「君の好きなものを知れるから」
返事ができなかった。
チャラいのでは。
女慣れしているのでは。
軽いのでは。
そう思っていたはずなのに、今の声は少し違った。
嬉しいよ、と言った声が、あまりにも素直だった。
困る。
オリヴィエは鳥を見た。
鳥は輪をくぐっている。楽しそうである。
鳥は何も答えない。便利である。
焼き菓子の匂いがした。
少し離れたところで、子どもが母親の手を握ったまま焼き菓子の露店を見つめている。
理性値は低めだった。
でも、悪いことをしようとしているわけではない。
焼き菓子を食べたいのを抑えているように見えた。
たいへん分かりやすい。
気持ちは少し分かる。
「食べる?」
「あとにします」
「どうして?」
「今は、デートなので」
言ってから、オリヴィエは少し止まった。
自分で言った。
デート。
オリヴィエが言った。
イヴァン副団長も、ほんの少しだけ止まった。
それから、口元を緩める。
「そうだね、デートだ」
声が優しかった。
なぜそこで優しくなるのか。
オリヴィエは前を向いた。
見てはいけない。
今、顔を見ると何かが出る。
少し歩いた先に、布を扱う露店があった。
反物ほど大きなものではなく、リボンや端布、刺繍用の細い紐などが並んでいる。
風に揺れる細いリボンが、日差しを受けてちらちら光っていた。
淡い青。
濃い緑。
白。
薄い黄色。
灰紫。
灰紫。
オリヴィエの目が止まった。
イヴァン副団長の瞳の色に、少し似ている。
見てしまった。
「それ、似合うと思うよ」
「見ていません」
「目が止まってた」
「見ました」
「正直で可愛い」
まただ。
可愛い、と言われると、何かが跳ねる。
心臓が跳ねる。
跳ねなくていい。
オリヴィエは灰紫のリボンを指先で持ち上げた。
柔らかくて、細い。
髪に結ぶには少し大人びているけれど、手帳や鞄につけるならちょうどいい。
「買う?」
「自分で買います」
「うん」
イヴァン副団長は止めなかった。
贈ると言わなかった。ただ、隣で見ていた。
その後で、彼の指が別のリボンに伸びた。
淡い琥珀色の細いリボンだった。
オリヴィエはそれを見た。
「それは」
「綺麗だと思って」
「……そうですか」
「うん」
琥珀色。
自分の瞳に近い色だと、思った。
言わない。
言ったら何かが決まってしまう気がした。
イヴァン副団長は、そのリボンを自分で買った。
オリヴィエも、灰紫のリボンを自分で買った。
贈り物ではない。そう言える。
言えるのに、包まれたリボンを鞄へしまう指が少しぎこちなかった。
イヴァン副団長は、それを見ていた。見ていたけれど、からかわなかった。
ただ、自然に微笑んだ。
それが困る。
からかわれるより、困る。
「あら、レインハルト様」
少し先の焼き菓子の露店から、明るい声がした。
さっき子どもが見つめていた店だった。
店先には蜂蜜菓子と木の実菓子、それから冷たい果実水の瓶が並んでいる。
売り子の若い女性が、イヴァン副団長を見て笑った。
「今日はずいぶん分かりやすいんですね」
「そう?」
「さっきから、その方ばかり見てます。そろそろ休ませてあげたらどうです? 蜂蜜菓子、焼きたてですよ」
商売が上手い。
女の人は、菓子の包み紙をさっと広げた。
「こちらの木の実菓子もおすすめです。飲み物なら果実水もありますよ」
「じゃあ、それを」
「はい、ありがとうございます」
イヴァン副団長は慣れた様子で礼を言った。
その時の理性値は、昨日より高かった。
落ち着いている。余裕がある。
女の子に声をかけられても、軽く笑って返せる。
やっぱり。
やっぱり、慣れている。
悪いことではない。
悪いことではないのに。
むむ。
オリヴィエはリボンの包みを鞄の中で押さえた。
「はい、どうぞ。蜂蜜の方は崩れやすいので気をつけてくださいね」
「ありがとう」
「またどうぞ」
それだけだった。
それだけなのに、耳に残った。
その方ばかり見てます。
その方。
オリヴィエは受け取った焼き菓子の包みを両手で持った。
「座る?」
「はい」
パラソル付きの丸テーブルは、噴水の近くにあった。
水の音がする。人の声もする。けれど、騒がしすぎない。
逃げ道がある場所だった。
座っても、立てる。
話しても、黙れる。
人目があるから、近すぎない。
それなのに、丸テーブル越しのイヴァン副団長は、近い。
オリヴィエは焼き菓子の包みを開いた。
蜂蜜の匂いがする。
木の実の香りもする。
おいしそう。
おいしそうなのに、さっきの言葉が耳に残っている。
さっきから、その方ばかり見てます。
その方。
オリヴィエは焼き菓子をひとつ取った。
食べる前に、イヴァン副団長を見た。
「やっぱり副団長様は噂通りなんですね」
「噂?」
「女好きってやつです」
言った。
言ってしまった。
イヴァン副団長は怒らなかった。むしろ、面白そうに目を細めた。
「まぁ、男よりは女の子のほうが花があるからね」
否定しない。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
否定しないのですね、と言いそうになった。もう少しで出るところだった。
えらい。出ていない。
イヴァン副団長は、丸テーブルに片肘をついた。
さっきまで露店の女の子に向けていた余裕の顔とは、少し違う。
目元の笑みが、オリヴィエへ向いた瞬間に変わった。
数字が下がる。
見えている。たいへん見えている。
「けど、俺の理性値が見えるなら、答えは知ってるはずだよね?」
声が、少しだけ低い。
軽いままだ。
軽いままなのに、逃げ場をふさがれた気がした。
「それとも、聞きたい? 君にだけは本気だよって」
水の音がした。
噴水の水が、白く弾ける。
周りでは、学生たちが笑っている。
子どもが焼き菓子をこぼして、母親が布で口元を拭いている。
世界は普通に動いている。
オリヴィエの手の中だけ、止まっていた。
焼き菓子を持つ指に力が入る。
崩れやすいと言われた蜂蜜の菓子が、少しだけ割れた。
「……意地悪な人は嫌いです」
「ごめん。言い方が悪かった」
イヴァン副団長は、すぐに声を緩めた。
軽い。でも、逃げない。
灰紫の瞳が、オリヴィエを見ている。
「好きだよ、オリヴィエ」
名前。
名前で呼ばれた。
それだけで、さっきとは違うところが跳ねた。
心臓である。
跳ねなくていい。
言ったのに、あまり聞いてくれない。
「……その、手慣れている感じが、悪いところなんです」
言いながら、オリヴィエは焼き菓子へ視線を落とした。
怒っている。たぶん、怒っている。
けれど、声は思ったより弱くなった。
頬が熱い。口元は結んでいるのに、目だけが逃げきれない。
イヴァン副団長は、一度だけ瞬きをした。
それから、ふっと口元を緩めた。
笑っているのに、目元だけが少し負けたように下がっている。
困った顔なのに、嬉しそうだった。
「うん。そこは悪いところだね」
「認めるのですね」
「君に怒られるなら、直すところと、直さないところを考える」
「全部直してください」
「全部直したら、俺じゃなくなるかも」
「それは困ります」
言ってから、オリヴィエは固まった。
今のは何だろう。
困ります。
何が。
イヴァン副団長が黙った。
黙った。
いつもならすぐ軽口が返ってくるのに、返ってこない。
噴水の音が、また少し大きく聞こえた。
数字が下がった。
さっき、露店の女の子と話していた時は落ち着いていたのに。余裕があったのに。
オリヴィエがむむっとして、困りますと言っただけで。
下がった。
「可愛い」
声が低かった。
いつもの軽さが、目元から抜けていた。
笑っているのに、笑いきれていない。
灰紫の瞳が、熱を持ったみたいに細くなる。
イヴァン副団長は、そこで口元を片手で覆った。
「ごめん、今、顔見ないで」
「なんでですか」
「理性がヤバくなるからかな」
昨日も聞いた。
昨日も聞いたのに、今日の方が困る。
露店の女の子へ向けていた笑みは、明るくて軽かった。
礼も、返事も、自然だった。
けれど、今の顔は違う。
口元は笑っているのに、目元が逃げない。
余裕が、少し剥がれている。
それが見えてしまった。
見えてしまうから、困る。
「……そういう顔、しないでください」
「だから見ないでって言ったのに」
「困るんです」
言ってから、オリヴィエは焼き菓子の包みを見た。
顔は上げられない。
上げられないのに、頬が熱いことだけは分かる。
たぶん、今の自分はひどい顔をしている。
困って、恥ずかしくて、それでも逃げていない顔。
嫌なら、簡単だった。
嫌です、と言えばよかった。
帰ります、と言えばよかった。
父に報告します、と言えばよかった。
でも、違う。
「……嫌じゃない自分が、いるから」
言ってしまった。
言ってから、オリヴィエは息を止めた。
今のは、たいへんひどい。
自分で言って、自分で逃げ道をなくした。
イヴァン副団長は、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり片手を持ち上げる。
目元を覆って、息を吐いた。
笑ったのか、呻いたのか、少し分からない息だった。
背筋は伸びたままなのに、どこか負けたように見えた。
「副団長様?」
声をかけると、イヴァン副団長は目元を覆ったまま、小さく笑った。
「……こんなに可愛いなんて、俺をどうしたいの」
声が低かった。
オリヴィエは焼き菓子の包みを見た。
見たのに、逃げ場にならなかった。
イヴァン副団長は、目元を覆っていた手を下ろした。もう笑っていた。
けれど、その笑みはいつもより薄い。
薄いのに、目だけがまだ熱を持っている。
「今日はここまでにしよう」
「……え、でも」
「君の安全のために」
誰から、とは言わなかった。
けれど、少し分かった。分かってしまった。
イヴァン副団長の手は、丸テーブルの上にあった。
近い。
オリヴィエの手から、ほんの少し離れた場所。
けれど、触れない。
数字は低い。
けれど、その手はまだ動かない。
「……今のは」
「うん」
「余計だったかもしれません」
「いや、必要なことだったと思うよ」
イヴァン副団長は、そこでやっと少しだけ笑った。
いつもの軽い笑みではなかった。
「言ってくれて、嬉しい」
「嬉しいのですか」
「うん。かなり」
その言い方が、少しだけ素直だった。
でも、今日はここまで。
もう少し、一緒にいるのだと思っていた。
思っていた、らしい。
オリヴィエはそこで、自分が少し残念に思っていることに気づいた。
気づいた。気づいてしまった。たいへん困る。
オリヴィエは焼き菓子をもう一口食べた。
甘い。
おいしい。
逃げ場として優秀である。
でも、全部は隠してくれなかった。
*
帰り道、イヴァン副団長は今日も手を取らなかった。
ただ、隣を歩いた。
近い。でも、触れない。
いつでも逃げられる距離で、けれど転ばない距離。
その距離は、昨日より少しだけ近かった。
「今日は、来てくれてありがとう」
「いえ」
オリヴィエは、鞄の持ち手を握り直した。
「私も、楽しかったです」
言ってから、少しだけ息が止まった。
楽しかった。
言えた。言ってしまった。
けれど、言ってしまった言葉はそれだけでは終わらなかった。
「まだ一緒に、見ていない露店がありましたし」
そこまで出て、オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
遅い。もう出ている。
見ていない露店があった。それは事実である。
一緒に、も出た。それも、たぶん事実である。
事実だが、それを今言う必要があったかどうかは、たいへん怪しい。
「そう」
イヴァン副団長の声が、少しだけ柔らかくなった。
「じゃあ、続きに行こう」
「続き」
「うん。また誘う」
続き。
また。
オリヴィエは、返事をしようとして、少し遅れた。
「……はい」
返事をした瞬間、顔が熱くなった。
きっと真っ赤だ。
だって、その証拠に、イヴァン副団長は目元を緩ませていた。
オリヴィエは急いで前を向く。耳まで真っ赤な気がした。
イヴァン副団長が、笑ったような声をこぼす。思わず目が動きそうになる。
それを堪えて、オリヴィエは鞄を持つ手に力を込めた。
外の道。
人の声。
逃げ道のある距離。
その距離が嫌ではない。
そう思ってしまった自分に、オリヴィエはまた困ってしまった。




