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婚約破棄されたのでしょぼしょぼしていたら、顔のいい副団長様の理性値が下がりました  作者: 篠瀬


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4/7

4


 その日の授業は、いつもより少し長かった。


 先生の声は聞こえている。

 黒板の文字も見えている。

 隣の席の令嬢が、ペン先を少し噛みそうになって、慌てて戻したのも見えている。


 見えているのに、どうにも意識が放課後へ逃げた。


 デート。


 なるほど。


 何もなるほどではない。


 父への正式な申し込みは、本当に来た。

 父は少し黙ったあと、書類を一枚破きかけたらしい。破いてはいない。理性的なので。


 理性的とは。


 けれど許可は出た。


 母は、昨日帰ってきたオリヴィエの顔を見て、少しだけ笑っていた。

 母には、理性値ではない何かが見えている。かなり見えている。


 オリヴィエはノートの端を見つめた。


 放課後。

 理性値観察の練習。

 それから、口説くため。


 後半がそのまま父へ伝わっている。


 やはり、なるほどではない。


     *


 放課後、イヴァン副団長は学園の門の外にいた。


 騎士服ではなかった。


 きちんとした上着を着ている。

 市井へ出るには上等で、貴族の令嬢を連れて歩くには軽すぎない。

 けれど、騎士庁舎で見る時よりも少しだけ柔らかい。


 顔は相変わらず仕事をしている。


「こんにちは、オリヴィエ嬢」

「こんにちは、副団長様。今日も顔がいいですね……あっ」

「ありがとう。君も可愛いね」


 返された。即座に返された。


 オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。


 挨拶のつもりだった。

 いや、挨拶のつもりで顔がいいと言うのも、どうなのか。


 分からない。


 ただ、見たものが出た。今日も出た。


 たいへんよろしくない。


「今日もちゃんと来てくれた」

「父と母の許可が出ましたので」

「君の意思は?」

「来ました」


 イヴァン副団長が笑った。


 頭上には、理性値:11。


 昨日より少し高い。

 努力したのだろうか。


「理性値、上げてきたんですね」

「努力したからね」

「努力で上がるものなのですか」

「君に会う前は少し上がった」

「会った後は」

「聞く?」

「聞かないほうがよさそうです」

「賢いね」


 褒められた、でいいのだろうか。


 オリヴィエは鞄の持ち手を握り直した。


「今日はどちらへ」

「市場広場」

「市場」

「露店が多い。人も多い。理性値を見る練習にはちょうどいい」

「はい」

「それに、外だからね」


 外。


 オリヴィエは瞬きをした。


「外だと、何かあるのですか」

「息がしやすい。人目もある。嫌になったら、立ち止まっても、帰ってもいい」


 イヴァン副団長は、軽く言った。けれど、昨日の続きのようだった。


 低いのに、待つ。

 近いのに、逃げ道を残す。


 今日も、この人はそれをする。


「帰ってもいいのですか」

「いいよ」

「デートなのに」

「うん。君が帰りたい俺には、なりたくないから」


 さらっと。


 また、さらっと。


 オリヴィエは前を向いた。

 今、顔を見ると何かが出る。


「では、帰らないようにします」

「努力目標?」

「はい」

「うん。嬉しい」


 その声が、思ったより素直だった。オリヴィエは隣を見る。


 イヴァン副団長は、いつものように笑っていた。

 けれど、目元が少しだけ柔らかい。


 見てしまった。


 見なかったことにはできない。


     *


 市場広場は、思っていたより明るかった。


 中央に噴水があり、その周りを囲むように丸テーブルが並んでいる。

 白いパラソルの下で、学生らしい若者たちが果実水を飲んでいた。

 小さな子どもを連れた母親が、焼き菓子の包みを分けている。

 少し離れたところでは、老人たちが盤上の駒を動かしていた。


 友人。家族。恋人。

 いろんな人がいて、いろんな声がする。


 逃げ道が多い場所だった。


 どこへでも歩いていける。

 立ち止まってもいい。

 噴水を一周してもいい。

 帰る道も見えている。


 それなのに、イヴァン副団長は隣にいる。


 近い。

 でも、触れない。


「まずは練習」

「はい」

「あの果物屋の店主は?」

「理性値が高いです。でも、少し怒っています」

「理由は?」

「値切られているからです。笑っていますが、指先が木箱を叩いています」

「正解」


 即答だった。

 オリヴィエは、イヴァン副団長を見た。


「副団長様」

「うん」

「分かっていましたね?」

「分かってた」

「これは練習ではありません」

「そうだね」

「認めるのですね」

「嘘はよくないから」

「その言い方も、何かよくありません」

「正直で偉い」


 違う。そうではない。


 言い返そうとした時、イヴァン副団長が少しだけ身をかがめた。


 市場は賑やかだ。

 普通に話しても聞こえる。

 それでも、少し声を落とすには近づく必要がある。


 近い。


 肩が触れるほどではない。けれど、昨日より近い。

 顔を上げると、イヴァン副団長の口元が見える距離。


「君とこうして話したかったから」


 低く言われた。


 ひそひそ話の距離だった。


 オリヴィエは視線を前に戻した。


 理性値:9。


 下がっている。


 近づいたからだろうか。いや、近づいたのは副団長様である。

 自分で近づいて、自分で下がっている。


 どういうことなのか。


「次は?」

「次」


 オリヴィエは、通りを見た。


 果物屋の隣では、小さな移動式の本屋が開かれていた。

 背表紙の色が揃っていない本が、木箱の中に斜めに入っている。

 その向こうでは、花屋が季節の花を束ねていた。赤い花。白い花。名前の分からない青い花。

 別の露店には、平民向けの髪飾りや小さな指輪が並んでいる。

 さらに奥には、用途の分からない短い刃物や細い金具が置かれた店があった。


 武器だろうか。道具だろうか。


 分からないものが多くて、視線が忙しい。


「気になる?」

「分からないものが多いです」

「見に行く?」

「いいのですか」

「そのために来たからね」


 そのため。


 理性値観察の練習では。

 口実だった。そうだった。


 オリヴィエは移動式の本屋を見た。

 題名が読めるものもあれば、擦り切れて読めないものもある。

 小さな料理の本。旅の記録。薬草の絵本。騎士物語。


 騎士物語の表紙には、やけに凛々しい騎士が描かれていた。

 隣のイヴァン副団長を見てから、表紙を見る。


 違う。


 何が違うかは分からないが、違う。


「今、比べた?」

「見比べました」

「どっちがいい?」

「副団長様のほうが顔がいいです」

「ありがとう」

「……また出ました」

「俺は嬉しいよ」


 嬉しいらしい。

 オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。


 次に見た花屋では、イヴァン副団長が花の名前をいくつか教えてくれた。

 意外だった。花の名前を知っている人なのか。


「女性に花を贈り慣れているからですか」

「そう思う?」

「思いました」

「騎士団の慰問や式典で使うからだよ」

「そうなのですか」

「半分は」

「残り半分は」

「女の子に花を渡すと、笑ってくれることが多いから」


 否定しない。

 そういうところが、また困る。


 オリヴィエは花束を見た。


 淡い黄色の小さな花。

 白く丸い花。

 細い紫の花。


 紫。


 目が、少し止まった。


 イヴァン副団長の瞳とは違う。でも、少し近い。


「それ、好き?」

「色が」

「うん」

「……見ていただけです」

「そっか」


 イヴァン副団長は、それ以上聞かなかった。


 ただ、見ていた。

 オリヴィエが何を見るかを、見ている。

 それが少し分かってきた。


 通りの端では、小さな鳥が芸をしていた。


 異国から来たという鳥らしい。

 鮮やかな緑色の羽で、小さな輪をくぐる。

 子どもたちが拍手をする。

 鳥は得意げに頭を下げた。


 頭上に理性値は見えない。


 鳥だからだろうか。

 それとも、鳥には別の何かが見えるのだろうか。


 考えかけて、やめた。


 これ以上、世界に表示されるものが増えると困る。


「楽しそう」

「鳥ですか」

「君が」

「私が」

「うん」


 イヴァン副団長は、少し笑っていた。


 軽い笑みではなかった。柔らかい笑みだった。


「嬉しそうですね」

「嬉しいよ」

「何がですか」

「君の好きなものを知れるから」


 返事ができなかった。


 チャラいのでは。

 女慣れしているのでは。

 軽いのでは。


 そう思っていたはずなのに、今の声は少し違った。


 嬉しいよ、と言った声が、あまりにも素直だった。


 困る。


 オリヴィエは鳥を見た。


 鳥は輪をくぐっている。楽しそうである。

 鳥は何も答えない。便利である。


 焼き菓子の匂いがした。


 少し離れたところで、子どもが母親の手を握ったまま焼き菓子の露店を見つめている。

 理性値は低めだった。

 でも、悪いことをしようとしているわけではない。


 焼き菓子を食べたいのを抑えているように見えた。


 たいへん分かりやすい。

 気持ちは少し分かる。


「食べる?」

「あとにします」

「どうして?」

「今は、デートなので」


 言ってから、オリヴィエは少し止まった。


 自分で言った。


 デート。


 オリヴィエが言った。


 イヴァン副団長も、ほんの少しだけ止まった。


 それから、口元を緩める。


「そうだね、デートだ」


 声が優しかった。

 なぜそこで優しくなるのか。


 オリヴィエは前を向いた。


 見てはいけない。

 今、顔を見ると何かが出る。


 少し歩いた先に、布を扱う露店があった。


 反物ほど大きなものではなく、リボンや端布、刺繍用の細い紐などが並んでいる。

 風に揺れる細いリボンが、日差しを受けてちらちら光っていた。


 淡い青。

 濃い緑。

 白。

 薄い黄色。

 灰紫。


 灰紫。


 オリヴィエの目が止まった。


 イヴァン副団長の瞳の色に、少し似ている。


 見てしまった。


「それ、似合うと思うよ」

「見ていません」

「目が止まってた」

「見ました」

「正直で可愛い」


 まただ。


 可愛い、と言われると、何かが跳ねる。


 心臓が跳ねる。

 跳ねなくていい。


 オリヴィエは灰紫のリボンを指先で持ち上げた。


 柔らかくて、細い。

 髪に結ぶには少し大人びているけれど、手帳や鞄につけるならちょうどいい。


「買う?」

「自分で買います」

「うん」


 イヴァン副団長は止めなかった。


 贈ると言わなかった。ただ、隣で見ていた。

 その後で、彼の指が別のリボンに伸びた。


 淡い琥珀色の細いリボンだった。


 オリヴィエはそれを見た。


「それは」

「綺麗だと思って」

「……そうですか」

「うん」


 琥珀色。


 自分の瞳に近い色だと、思った。


 言わない。


 言ったら何かが決まってしまう気がした。


 イヴァン副団長は、そのリボンを自分で買った。

 オリヴィエも、灰紫のリボンを自分で買った。


 贈り物ではない。そう言える。


 言えるのに、包まれたリボンを鞄へしまう指が少しぎこちなかった。


 イヴァン副団長は、それを見ていた。見ていたけれど、からかわなかった。

 ただ、自然に微笑んだ。


 それが困る。

 からかわれるより、困る。


「あら、レインハルト様」


 少し先の焼き菓子の露店から、明るい声がした。


 さっき子どもが見つめていた店だった。

 店先には蜂蜜菓子と木の実菓子、それから冷たい果実水の瓶が並んでいる。


 売り子の若い女性が、イヴァン副団長を見て笑った。


「今日はずいぶん分かりやすいんですね」

「そう?」

「さっきから、その方ばかり見てます。そろそろ休ませてあげたらどうです? 蜂蜜菓子、焼きたてですよ」


 商売が上手い。


 女の人は、菓子の包み紙をさっと広げた。


「こちらの木の実菓子もおすすめです。飲み物なら果実水もありますよ」

「じゃあ、それを」

「はい、ありがとうございます」


 イヴァン副団長は慣れた様子で礼を言った。

 その時の理性値は、昨日より高かった。


 落ち着いている。余裕がある。

 女の子に声をかけられても、軽く笑って返せる。


 やっぱり。


 やっぱり、慣れている。


 悪いことではない。

 悪いことではないのに。


 むむ。


 オリヴィエはリボンの包みを鞄の中で押さえた。


「はい、どうぞ。蜂蜜の方は崩れやすいので気をつけてくださいね」

「ありがとう」

「またどうぞ」


 それだけだった。

 それだけなのに、耳に残った。


 その方ばかり見てます。


 その方。


 オリヴィエは受け取った焼き菓子の包みを両手で持った。


「座る?」

「はい」


 パラソル付きの丸テーブルは、噴水の近くにあった。


 水の音がする。人の声もする。けれど、騒がしすぎない。


 逃げ道がある場所だった。


 座っても、立てる。

 話しても、黙れる。

 人目があるから、近すぎない。


 それなのに、丸テーブル越しのイヴァン副団長は、近い。


 オリヴィエは焼き菓子の包みを開いた。


 蜂蜜の匂いがする。

 木の実の香りもする。


 おいしそう。


 おいしそうなのに、さっきの言葉が耳に残っている。


 さっきから、その方ばかり見てます。


 その方。


 オリヴィエは焼き菓子をひとつ取った。

 食べる前に、イヴァン副団長を見た。


「やっぱり副団長様は噂通りなんですね」

「噂?」

「女好きってやつです」


 言った。


 言ってしまった。


 イヴァン副団長は怒らなかった。むしろ、面白そうに目を細めた。


「まぁ、男よりは女の子のほうが花があるからね」


 否定しない。


 オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。


 否定しないのですね、と言いそうになった。もう少しで出るところだった。


 えらい。出ていない。


 イヴァン副団長は、丸テーブルに片肘をついた。


 さっきまで露店の女の子に向けていた余裕の顔とは、少し違う。

 目元の笑みが、オリヴィエへ向いた瞬間に変わった。


 数字が下がる。


 見えている。たいへん見えている。


「けど、俺の理性値が見えるなら、答えは知ってるはずだよね?」


 声が、少しだけ低い。


 軽いままだ。

 軽いままなのに、逃げ場をふさがれた気がした。


「それとも、聞きたい? 君にだけは本気だよって」


 水の音がした。


 噴水の水が、白く弾ける。

 周りでは、学生たちが笑っている。

 子どもが焼き菓子をこぼして、母親が布で口元を拭いている。


 世界は普通に動いている。


 オリヴィエの手の中だけ、止まっていた。


 焼き菓子を持つ指に力が入る。

 崩れやすいと言われた蜂蜜の菓子が、少しだけ割れた。


「……意地悪な人は嫌いです」

「ごめん。言い方が悪かった」


 イヴァン副団長は、すぐに声を緩めた。


 軽い。でも、逃げない。

 灰紫の瞳が、オリヴィエを見ている。


「好きだよ、オリヴィエ」


 名前。


 名前で呼ばれた。


 それだけで、さっきとは違うところが跳ねた。


 心臓である。

 跳ねなくていい。


 言ったのに、あまり聞いてくれない。


「……その、手慣れている感じが、悪いところなんです」


 言いながら、オリヴィエは焼き菓子へ視線を落とした。


 怒っている。たぶん、怒っている。


 けれど、声は思ったより弱くなった。

 頬が熱い。口元は結んでいるのに、目だけが逃げきれない。


 イヴァン副団長は、一度だけ瞬きをした。


 それから、ふっと口元を緩めた。

 笑っているのに、目元だけが少し負けたように下がっている。


 困った顔なのに、嬉しそうだった。


「うん。そこは悪いところだね」

「認めるのですね」

「君に怒られるなら、直すところと、直さないところを考える」

「全部直してください」

「全部直したら、俺じゃなくなるかも」

「それは困ります」


 言ってから、オリヴィエは固まった。


 今のは何だろう。


 困ります。


 何が。


 イヴァン副団長が黙った。


 黙った。


 いつもならすぐ軽口が返ってくるのに、返ってこない。


 噴水の音が、また少し大きく聞こえた。


 数字が下がった。


 さっき、露店の女の子と話していた時は落ち着いていたのに。余裕があったのに。


 オリヴィエがむむっとして、困りますと言っただけで。


 下がった。


「可愛い」


 声が低かった。


 いつもの軽さが、目元から抜けていた。

 笑っているのに、笑いきれていない。

 灰紫の瞳が、熱を持ったみたいに細くなる。


 イヴァン副団長は、そこで口元を片手で覆った。


「ごめん、今、顔見ないで」

「なんでですか」

「理性がヤバくなるからかな」


 昨日も聞いた。


 昨日も聞いたのに、今日の方が困る。


 露店の女の子へ向けていた笑みは、明るくて軽かった。

 礼も、返事も、自然だった。


 けれど、今の顔は違う。


 口元は笑っているのに、目元が逃げない。

 余裕が、少し剥がれている。


 それが見えてしまった。

 見えてしまうから、困る。


「……そういう顔、しないでください」

「だから見ないでって言ったのに」

「困るんです」


 言ってから、オリヴィエは焼き菓子の包みを見た。


 顔は上げられない。

 上げられないのに、頬が熱いことだけは分かる。

 たぶん、今の自分はひどい顔をしている。


 困って、恥ずかしくて、それでも逃げていない顔。


 嫌なら、簡単だった。

 嫌です、と言えばよかった。

 帰ります、と言えばよかった。

 父に報告します、と言えばよかった。


 でも、違う。


「……嫌じゃない自分が、いるから」


 言ってしまった。


 言ってから、オリヴィエは息を止めた。


 今のは、たいへんひどい。

 自分で言って、自分で逃げ道をなくした。


 イヴァン副団長は、しばらく動かなかった。


 それから、ゆっくり片手を持ち上げる。

 目元を覆って、息を吐いた。

 笑ったのか、呻いたのか、少し分からない息だった。


 背筋は伸びたままなのに、どこか負けたように見えた。


「副団長様?」


 声をかけると、イヴァン副団長は目元を覆ったまま、小さく笑った。


「……こんなに可愛いなんて、俺をどうしたいの」


 声が低かった。


 オリヴィエは焼き菓子の包みを見た。

 見たのに、逃げ場にならなかった。


 イヴァン副団長は、目元を覆っていた手を下ろした。もう笑っていた。


 けれど、その笑みはいつもより薄い。

 薄いのに、目だけがまだ熱を持っている。


「今日はここまでにしよう」

「……え、でも」

「君の安全のために」


 誰から、とは言わなかった。


 けれど、少し分かった。分かってしまった。


 イヴァン副団長の手は、丸テーブルの上にあった。


 近い。

 オリヴィエの手から、ほんの少し離れた場所。


 けれど、触れない。


 数字は低い。

 けれど、その手はまだ動かない。


「……今のは」

「うん」

「余計だったかもしれません」

「いや、必要なことだったと思うよ」


 イヴァン副団長は、そこでやっと少しだけ笑った。

 いつもの軽い笑みではなかった。


「言ってくれて、嬉しい」

「嬉しいのですか」

「うん。かなり」


 その言い方が、少しだけ素直だった。


 でも、今日はここまで。 


 もう少し、一緒にいるのだと思っていた。

 思っていた、らしい。


 オリヴィエはそこで、自分が少し残念に思っていることに気づいた。


 気づいた。気づいてしまった。たいへん困る。


 オリヴィエは焼き菓子をもう一口食べた。


 甘い。

 おいしい。

 逃げ場として優秀である。


 でも、全部は隠してくれなかった。


     *


 帰り道、イヴァン副団長は今日も手を取らなかった。

 ただ、隣を歩いた。


 近い。でも、触れない。

 いつでも逃げられる距離で、けれど転ばない距離。


 その距離は、昨日より少しだけ近かった。


「今日は、来てくれてありがとう」

「いえ」


 オリヴィエは、鞄の持ち手を握り直した。


「私も、楽しかったです」


 言ってから、少しだけ息が止まった。


 楽しかった。


 言えた。言ってしまった。


 けれど、言ってしまった言葉はそれだけでは終わらなかった。


「まだ一緒に、見ていない露店がありましたし」


 そこまで出て、オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。


 遅い。もう出ている。


 見ていない露店があった。それは事実である。

 一緒に、も出た。それも、たぶん事実である。


 事実だが、それを今言う必要があったかどうかは、たいへん怪しい。


「そう」


 イヴァン副団長の声が、少しだけ柔らかくなった。


「じゃあ、続きに行こう」

「続き」

「うん。また誘う」


 続き。


 また。


 オリヴィエは、返事をしようとして、少し遅れた。


「……はい」


 返事をした瞬間、顔が熱くなった。


 きっと真っ赤だ。

 だって、その証拠に、イヴァン副団長は目元を緩ませていた。

 オリヴィエは急いで前を向く。耳まで真っ赤な気がした。


 イヴァン副団長が、笑ったような声をこぼす。思わず目が動きそうになる。

 それを堪えて、オリヴィエは鞄を持つ手に力を込めた。


 外の道。

 人の声。

 逃げ道のある距離。


 その距離が嫌ではない。


 そう思ってしまった自分に、オリヴィエはまた困ってしまった。


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