3
騎士庁舎を出ると、街はいつも通りだった。
石畳。
馬車。
焼き菓子の匂い。
店先に並ぶ布。
行き交う人々の頭上に浮かぶ数字。
いつも通りではない。
世の中は理性でいっぱいだった。
見える。
見えるが、見てはいけない気がする。
けれど、見えるものは見える。
たいへん困る。
「大丈夫?」
隣を歩くイヴァン副団長が、こちらを覗き込んだ。
顔がいい。
そして、頭上の数字は相変わらず低い。
大丈夫ではないのは、副団長様では。
言わない。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
「大丈夫です」
「今、俺の数字見た?」
「見ていません」
「嘘が下手だね」
「見ました」
「正直で可愛い」
返事を探した。
返事は見つからなかった。
代わりに、鞄の持ち手を握り直す。
この人はよくない。
何がよくないのかは分からないが、とにかくよくない。
理性値が低いのに、こちらの口を無理に塞がない。
距離が近いのに、逃げ道は残している。
顔がいいのに、顔だけで押し切らない。
ずるい。
ずるい、は余計なことだろうか。
たぶん余計である。
言わない。えらい。
「店はどっち?」
「あちらです。焼き菓子屋の角を曲がって、青い布が下がっている小さなお店です」
「焼き菓子屋」
「はい」
「さっきから、そっちを見てるのは?」
「道順の確認です」
「木の実菓子の確認じゃなくて?」
「……道順です」
イヴァン副団長が笑った。
笑い方が軽い。
けれど、目は周囲を見ている。
右から来る荷車。
左の路地に立つ男。
前を横切る子ども。
店の軒先から落ちかけた看板。
オリヴィエが見るより先に、イヴァン副団長は少し歩幅を変えた。
触れない。
引っ張らない。
けれど、オリヴィエがぶつからない道を作る。
「副団長様」
「ん?」
「理性値が低いのに、理性的な動きをしますね」
「褒めてる?」
「確認です」
「じゃあ、褒められるように頑張ろうかな」
頑張らなくていい。
いや、頑張ってほしい。
何を。
オリヴィエの頭の中が忙しい。
婚約破棄の余韻が入る場所がない。
今朝、婚約破棄されたはずなのに。
しょぼしょぼしていたはずなのに。
今は隣の副団長様の理性値と顔と歩き方と声と、焼き菓子屋の木の実菓子で頭がいっぱいである。
木の実菓子も入っている。
入ってしまった。
たいへん勝手に。
「ここです」
青い布の下がった店は、路地の奥にあった。
小さな看板には、月と草の絵が描かれている。
扉の横には乾かした薬草が束ねて吊るされていて、中からは甘くて少し苦い香りがした。
昨日は、リタと一緒だった。
学園帰りにリタが見つけて、少しだけ覗いてみましょうと言った。
中にいた占い師は、真実が見える薬草茶だと言って茶を出した。
リタも飲んだ。
オリヴィエも飲んだ。
リタには何も起きなかった。
オリヴィエには、理性値が見えた。
どういうことなのか。
分からない。
分からないが、扉を開けるしかない。
店の前で、イヴァン副団長が自然に半歩先へ出た。
扉の取っ手に手をかける。
その動きに、迷いはなかった。
「副団長様」
「確認だけ」
軽い声だった。
けれど、先に入ることについて、彼はオリヴィエに許可を求めなかった。
危ないかもしれない場所では、先に行く。
それがあまりに自然で、オリヴィエは一瞬、口を閉じるのを忘れた。
言うことがなかったから、閉じた。
イヴァン副団長は扉を開けた。
店内は薄暗かった。
棚には瓶が並び、乾燥させた花や葉が袋に詰められている。
奥の丸い机には水晶玉。
その横にカップ。
水晶玉。
いかにも占い師である。
水晶玉は職業意識なのだろうか。
「おや」
奥から、年配の女性が顔を出した。
白髪をひとつに結び、深い緑の上掛けを羽織っている。
昨日と同じ占い師だった。
頭上には、理性値:68。
思ったより普通。
占い師なのに。
「昨日のお嬢さんかい。今日は騎士様連れとはね」
「昨日の薬草茶について、お聞きしたいことがあります」
「腹でも壊したかい」
「頭の上に理性値が見えるようになりました」
「そりゃ大変だ」
占い師は、少しも大変そうではない顔で言った。
「茶はただの茶だよ」
「ただの」
「少し目が冴える。少し気が落ち着く。眠気が飛ぶ。薬草茶なんて、そんなもんさ」
「では、理性値は」
「知らないね」
知らない。
あっさり言われた。
「知らないのですか」
「知らないものは知らないよ。あたしゃ占い師であって、数字屋じゃない」
数字屋。
オリヴィエは、少しだけ納得しかけた。
危ない。
知らない職業にすぐ頷いてはいけない。
占い師は、机の上に置いた古いカードを一枚めくった。
そこには目の絵が描かれていた。
「ただ、お前さんは元からよく見てる」
「見て」
「人の手元。目線。声の前の息。お前さんは、そういうものをよく拾う」
「……見えてしまうので」
「それに名前がついただけかもしれないね」
名前。
オリヴィエは、自分の目元に触れかけて、やめた。
母には、目だけはよく動くのね、と言われる。
怖い時ほど見てしまうからだ。
そして、見たものは口から出る。
それに、名前がついた。
理性値。
なるほど。
何もなるほどではない。
「全部分かろうとすると疲れるよ」
「それは、少し分かります」
「だろうね」
占い師は、奥の棚から袋を取り出した。
「昨日の茶はこれだ。調べたけりゃ持っていきな」
「助かります」
イヴァン副団長が受け取った。
香りを嗅ぎ、葉の形を見て、袋の口を丁寧に閉じる。
その手つきは軽くない。
さっきまでの笑い声とは違う。
仕事の手だ。
「念のため、騎士団で確認する」
「好きにしな」
「代金は」
「昨日もらったよ」
「確認料」
「騎士様は律儀だねえ」
占い師は笑ったが、差し出された硬貨は受け取った。
イヴァン副団長は軽い。
でも、仕事は細かい。
分からない。
分からないので、オリヴィエは聞いた。
「副団長様」
「ん?」
「理性値が低いのは、悪いことではないのですか」
「悪いことだったら、俺は今ごろ退団してるかな」
「それは困ります」
「困る?」
「父が困ると思います」
「オリヴィエ嬢は?」
「……道案内の時に困ります」
イヴァン副団長は少しだけ目を細めた。
「そっか。道案内で困るなら、頑張らないとね」
何を。
何を頑張るのか。
占い師が喉の奥で笑った。
「理性なんてのはね、善悪じゃないよ」
「善悪ではない」
「何を抑えているかだ。怒りか、欲か、恐れか、言葉か、手か。高いから清いわけでも、低いから悪いわけでもない」
何を抑えているか。
オリヴィエは、イヴァン副団長を見た。
顔がいい。
見てしまう。
イヴァン副団長は、こちらを見返して、わずかに肩をすくめた。
「そんなに見られると、理性が仕事しなくなる」
「今もあまりしていないのでは」
「痛いところを突くね」
「見えたので」
「可愛い」
まただ。
可愛い、と言われると、何かが跳ねる。
心臓が跳ねる。
跳ねなくていい。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
「はいはい。続きは外でおやり」
占い師が手を振った。
「お嬢さん」
「はい」
「見えたもの全部を言わなくていい。けど、言わなきゃいけないものまで飲み込むんじゃないよ」
「……母と同じことを言います」
「いい母親だね」
「はい」
それはすぐに言えた。
余計ではない。
必要なことだと思った。
店を出ると、外の光が眩しかった。
オリヴィエは少し目を細める。
イヴァン副団長は、また先に一歩出て、通りの流れを見た。
「理性値は善悪じゃない」
「はい」
「何を抑えているか」
「はい」
「だから、俺の数字が低いからって、すぐ逃げなくてもいいよ」
イヴァン副団長が、軽く言った。
軽い。
軽いのに、言葉の端が少しだけ本気に見えた。
「逃げません」
「本当?」
「道が分からないので」
「またそこ」
「あと」
オリヴィエは一度、唇を結んだ。
言うべきか。
言わないべきか。
今日の線引きは、いつもより難しい。
でも、これは言ってもいい気がした。
「副団長様は、低くても怖くありません」
イヴァン副団長の足が、ほんの少しだけ遅れた。
ほんの半歩。
けれど、見えた。
横顔から、いつもの軽い笑みが少しだけ消える。
灰紫の瞳が、オリヴィエではなく、通りの向こうを見た。
風が抜ける。
銀の飾緒が、胸元で小さく揺れた。
「……それは」
声も、少し遅れた。
オリヴィエは見てしまった。
イヴァン副団長が、ほんの少しだけ目を伏せたところを。
数字がまた下がる。
「下がり――」
「言わないで」
「はい」
言わなかった。
えらい。
「ごめん。今、顔見ないで」
「なんでですか」
「理性がヤバくなるからかな」
ヤバい。
副団長様が、ヤバいと言った。
オリヴィエは固まった。
顔を見るなと言われると、顔を見ないようにする。
すると、視線が下がる。
下がった先に、イヴァン副団長の手が見える。
手袋をした手。
剣を握る手。
今は何も掴んでいない手。
触れてこない手。
それも見てはいけない気がした。
なので、オリヴィエは隣の店を見た。
焼き菓子屋だった。
木の実菓子が並んでいた。
見てしまった。
「木の実菓子」
「食べる?」
「今は確認中です」
「何の?」
「理性値と木の実菓子の関係です」
「たぶん関係ないよ」
「では、純粋に食べたいです」
イヴァン副団長が吹き出した。
笑われた。
でも、嫌な感じはしない。
「買おうか」
「いえ、自分で」
「今日、案内してくれたお礼」
「お礼をいただくほどのことではありません」
「俺があげたい」
「それは理由になるのですか」
「なるよ」
なるらしい。
イヴァン副団長は焼き菓子屋で、木の実菓子を二つ買った。
ついでに果実水も二つ買った。
店先には、小さな丸テーブルがあった。
通りを眺めながら、買った菓子や果実水を少しだけ楽しめる場所らしい。
イヴァン副団長は、そこで足を止めた。
「少し休もうか」
「休むのですか」
「君、朝から理性値と婚約破棄と占い師だよ」
「並べると忙しいですね」
「忙しいよ」
そうだった。
オリヴィエは、急に自分が疲れていたことに気づいた。
気づくと、足元が少しだけ重い。
イヴァン副団長はそれも見ていたのか、丸テーブルのそばで自然に立ち位置を変えた。
オリヴィエが通りから少し内側に入る位置。
けれど、囲うほど近くはない位置。
距離の取り方が上手い。
分からない。
オリヴィエは木の実菓子を受け取った。
焼きたてではないが、香ばしい。
蜂蜜とナッツの匂いがする。
両手で持つ。
イヴァン副団長が、こちらを見ている。
「……食べにくいです」
「ごめん。可愛くて」
「食べます」
「うん」
「見ないでください」
「それは難しい」
「難しくありません。視線を外すだけです」
「俺には難しいかな」
なぜ。
なぜ難しいのか。
オリヴィエは木の実菓子を少しだけかじった。
甘い。
香ばしい。
おいしい。
心臓が忙しくても、おいしいものはおいしい。
よかった。
世界にはまだ確かなものがある。
「おいしい?」
「はい」
「よかった」
イヴァン副団長の声が、少し柔らかい。
オリヴィエは木の実菓子を見つめた。
見つめていないと、隣の顔を見てしまう。
顔がいいので。
見てしまうので。
「副団長様」
「ん?」
「さきほど、占い師の方が、元からよく見ていると言っていました」
「うん」
「私は、そんなに見ていますか」
「見てるよ」
「副団長様も、見ていましたか」
イヴァン副団長の動きが、少し止まった。
果実水のグラスを置く音が、やけに小さく聞こえた。
軽い笑みは残っている。
けれど、灰紫の瞳が、笑みより先にこちらを見た。
「見てたよ」
声は軽かった。
でも、軽いだけではなかった。
「合同訓練の日、覚えてる?」
「訓練用の剣の留め具が緩んでいた日ですか」
「そう」
「覚えています。ロイド様に黙っていろと言われました」
「君は言った」
イヴァン副団長は、通りの向こうへ視線を移した。
馬車の車輪が石畳を鳴らしていく。
店先の布が揺れる。
丸テーブルの上のグラスに、光が反射した。
「あの時、見てた」
「副団長様が?」
「うん」
「見てたんですか」
「見てたよ。あの時からずっと、君を見てた」
さらっと言われた。
さらっと。
けれど、イヴァン副団長の指は、グラスの縁を少し強く押さえていた。
軽く言った声と、手の力が合っていない。
オリヴィエは、それも見てしまった。
胸の奥が、どきんと鳴る。
心臓が別件で忙しい。
忙しすぎる。
過労である。
「さらっと告白しないでください。ドキドキします」
言った。
言ってしまった。
イヴァン副団長が、こちらを見た。
数字がまた下がる。
見なかったことにしたい。
とても見えている。
「そう」
イヴァン副団長は、小さな丸テーブルに片肘をついた。
グラスを指先で軽く回しながら、首をかしげる。
いつもの笑みなのに、少しだけ悪い。
灰紫の瞳が、まっすぐオリヴィエを見ている。
「もっとドキドキしてほしいから、やめないね」
ひどい。
ひどいのでは。
オリヴィエは木の実菓子を抱えたまま、唇をきゅっと結んだ。
結んだのに、頬が熱い。
唇では頬を止められない。
困る。
「副団長様は、意地悪です」
「うん」
「認めるのですね」
「ブレインだからね」
「関係ありますか」
「あるよ。勝てる場所で戦う」
「私は戦場なのですか」
「大事な相手」
まただ。
また、さらっと出た。
オリヴィエは果実水を飲んだ。
冷たい。
助かる。
「君には婚約者がいたから、遠慮してた」
「はい」
「今日、婚約破棄されたって聞いた」
「はい」
「君の前では、よかったとは言わない」
「……はい」
「傷ついてないわけじゃないだろうから」
イヴァン副団長の声が、少しだけ低くなった。
オリヴィエは木の実菓子から目を上げた。
「でも、俺はほっとした」
「ほっと」
「君を黙らせる相手じゃなくなったことに」
胸の奥が、きゅっとした。
しょぼしょぼではない。
痛いだけでもない。
何だろう。
分からない。
「ロイド様には、疲れると言われました」
「うん」
「私は、自分でも少し疲れると思います」
「うん」
「見えるものが多くて、口から出ます」
「うん」
イヴァン副団長は、急かさなかった。
否定もしなかった。
慰めもしなかった。
ただ、オリヴィエの言葉が次に進むのを待っていた。
ロイドは、黙れと言った。
場を乱すなと言った。
夫となる者を立てろと言った。
たしかに、オリヴィエは余計なことを言う。
言いすぎて、失敗して、母に注意されて、あとから反省することも多い。
それでも。
あの日、訓練用の剣の留め具は緩んでいた。
黙っていたら、誰かが怪我をしていたかもしれない。
言わなければならないことは、ある。
「でも、黙っていたら、正しいことまで黙ることになります」
言ってから、オリヴィエは息を止めた。
通りの音が、少し遠くなった気がした。
イヴァン副団長は、笑わなかった。
風で、銀の飾緒がわずかに揺れた。
彼の手の中で、果実水のグラスが少し傾く。
それでも中身はこぼれない。
それだけの間があってから、イヴァン副団長は静かに言った。
「そこがいい」
短かった。
軽くなかった。
オリヴィエは、木の実菓子を落としそうになった。
イヴァン副団長の手が少し動く。
けれど、触れなかった。
落ちないと見て、止まった。
低い。
とても低い。
なのに、待つ。
「副団長様」
「うん」
「低い理性値は、何を抑えているのですか」
「今?」
「はい」
イヴァン副団長は、少し困った顔で笑った。
それから、視線を外した。
ほんの少しだけ。
逃げるようにではなく、オリヴィエを真っ直ぐ見たまま言うと、何かがこぼれると分かっているように。
「君に触りたいな、とか」
「へ……?」
「近づきたいな、とか」
「あ、ぅ……」
「でも、今日婚約破棄されたばかりの女の子に、重く出したら逃げるでしょ」
イヴァン副団長の手は、何も持っていない方の指をゆるく曲げていた。
触れたい、と言った手。
触れないまま、閉じられている手。
オリヴィエは、その手を見てしまった。
見てから、見てはいけない気がして、果実水のグラスへ視線を落とす。
水面が少し揺れていた。
自分の指が、グラスを揺らしていた。
「だから、抑えてるよ」
声は低かった。
責める声ではない。
迫る声でもない。
ただ、事実を置く声だった。
オリヴィエは、木の実菓子を見た。
木の実菓子は何も答えない。
おいしいだけである。
「……副団長様」
「うん」
「それは、抑えてください」
「抑えてるよ」
「理性値が4です」
「そこは言っちゃうんだ」
「事実なので」
「可愛いね」
この人は、すぐ可愛いと言う。
女慣れしているからだろうか。
それとも。
考えかけて、オリヴィエはやめた。
今考えると、たぶん顔が熱くなる。
「じゃあ、もう遠慮しなくていい?」
イヴァン副団長は笑っていた。
いつものように軽く。
けれど、目元だけが少し違った。
熱っぽい、と言っていいのか分からない。
分からないのに、そう見えた。
「遠慮」
「うん」
「何の」
「君に近づく遠慮」
言葉の意味は分かる。
分かるが、処理できない。
頭の中で、理性値が転んだ。
理性値は転ばない。
でも転んだ気がする。
「今、聞くことですか」
「今じゃないと、また君がしょぼしょぼを理由に逃げるかもしれない」
「逃げません。道が分からないので」
「それ以外で」
「……分かりません」
「じゃあ、分かるまで付き合う」
付き合う。
どの意味で。
聞いてはいけない気がする。
でも、聞かないと危ない気がする。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
結んだ。
結んだのに。
「どの意味の、付き合う、ですか」
「今は、出かけるほう」
「今は」
「うん。明日、出かけようか」
「明日は、学園があります」
「放課後は?」
「父に確認しなければ」
「俺から総括官に正式に申し込んでおくね」
「正式に」
「もちろん。仕事じゃないからね」
「仕事ではないのですか」
仕事なら、分かる。
確認なら、分かる。
けれど、明日は違うという。
イヴァン副団長は、果実水のグラスを持ったまま、少しだけ首を傾けた。
いつもの軽い笑みだった。
けれど、灰紫の瞳だけは笑っていなかった。
「明日は違う」
「では、何ですか」
聞いたのは、オリヴィエだった。
聞いてから、聞かなければよかったかもしれないと思った。
でも、もう遅い。
イヴァン副団長が、ほんの少しだけ笑う。
「デート」
オリヴィエは、グラスを持つ指に力を入れた。
冷たい果実水のはずなのに、手の中だけが熱い。
なるほど。
何もなるほどではない。
「返事は今じゃなくていいよ」
「そうなのですか」
「うん。逃げ道は残す」
「包囲ではないのですね」
「まだね」
「まだ」
不穏な言葉が聞こえた。
聞こえたけれど、不思議と怖くはない。
イヴァン副団長は、オリヴィエの隣に立っている。
近い。
でも、触れない。
逃げられるだけの隙間はある。
転ばないように見ている。
低い。
低いのに、待っている。
それが、今日いちばん分からなくて。
今日いちばん、胸の真ん中を忙しくさせた。
「……父に、聞きます」
「うん」
「母にも」
「うん」
「リタにも相談します」
「リタ?」
「木の実菓子を見ていたら、また何か言われそうなので」
「それは心強いね」
イヴァン副団長が笑った。
今度の笑い方は、少しだけ力が抜けていた。
「では、帰りましょう」
「送るよ」
「仕事ですか」
「今日は半分仕事」
「残り半分は秘密でしたね」
「そろそろ分かった?」
「……分かりません」
分かる気もする。
分かってはいけない気もする。
だから、分かりませんと言った。
イヴァン副団長は、責めなかった。
「じゃあ、また言うよ」
「何を」
「君が分かるまで」
何を。
聞かなくても、何となく分かった気がした。
分かった気がしただけで、胸の奥がまた忙しくなる。
オリヴィエは木の実菓子の包みを鞄にしまった。
残りはリタに見せる。
理性値の話と、占い師の話と、副団長様の話をしなければならない。
話すことが多い。
婚約破棄された令嬢として、もう少ししょぼしょぼするべきなのかもしれない。
けれど、しょぼしょぼの席には今、別のものが座っている。
オリヴィエは隣を歩く副団長を見上げた。
「副団長様」
「ん?」
「理性値が低いので、明日までに少し上げておいてください」
「難しい注文だね」
「努力してください」
「君に会う予定があるのに?」
「……そういうところです」
「うん。そういうところが悪いって、よく言われる」
「はい」
「でも、君にはちゃんと待つよ」
さらっと。
また、さらっと。
オリヴィエは前を向いた。
見てはいけない。
今、顔を見ると、たぶん何かが出る。
唇をきゅっと結ぶ。
結んだ口の奥で、返事にならない息が転がった。
その頭上の数字は、最後まで低いままだった。
それなのに、イヴァン副団長は一度もオリヴィエの手を取らなかった。
ただ、転ばない距離で隣を歩いて、家まで送ってくれた。




