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婚約破棄されても、騎士庁舎はいつもと変わらない門構えだった。
灰色の石壁。厚い門。磨かれた金具。左右に立つ騎士。
白い石造りの学園とは違い、ここは最初から「不用意に入るな」と言っている。建物は喋らない。でも、そう見える。
オリヴィエ・フォルカーは、書類の入った鞄を抱え直した。
「フォルカー伯爵令嬢。総括官へのお届け物ですか」
「はい。父が書類を忘れていました」
「いつものですね」
「いつものです」
門番の騎士は慣れた様子で頷いた。
頭上には、理性値:88。
門を守る人として、たいへん安心できる数字に見えた。
「ご案内します」
「ありがとうございます」
門を抜けると、騎士庁舎の中はいつも通り忙しそうだった。
第一騎士団の棟は、父のお使いで何度か来たことがある。
ここは、家名よりも腕と判断がものを言う騎士団だと父は言っていた。
腕。判断。大変そうである。
オリヴィエは見えるだけで口から出るので、騎士には向いていない。剣を持てても、自分の足に当てる未来が見える。見えるので、やめたほうがいい。
廊下の先から、数人の騎士と歩く大きな男の声が聞こえた。
「だから言っただろう。ぶつかれば大抵の壁は壊れる」
大抵の壁は壊してはいけないのでは。
オリヴィエが思った時、大きな男がこちらに気づいて足を止めた。
騎士団長、ガレス・バルドー。
背が高い。肩幅が広い。声が大きい。笑うと廊下が揺れた気がする。
初めて見た時、オリヴィエは思わず「クマみたいですね」と言ってしまった。
周囲は凍った。団長は爆笑した。
それ以来、団長はなぜかオリヴィエを気に入っている。
頭上には数字が浮かんでいた。
理性値:52。
思ったよりある。
「フォルカーの娘か。総括官への書類だな」
「はい。父が忘れていました」
「またか」
「またです」
「あの男は仕事はできるのに、机の上の紙には逃げられる」
紙に逃げられる。
オリヴィエは父の机の上を思い出した。たしかに紙が群れをなしていた。逃げ出したい紙があっても不思議ではない。
「団長様」
「何だ」
「今日もクマみたいです」
ガレス団長は口を開けて笑った。
「あっはっはっ!」
廊下が少し揺れた気がした。
オリヴィエは一拍遅れて封筒を抱え直す。
言っちゃった。
今日も、は余計だった気がする。
「ごめんなさい。今日も、は失礼でした」
「クマはいいのか」
「そこも失礼でした」
近くにいた騎士が一人、そっと目を逸らした。別の騎士は笑っていいのか迷っている顔をしている。
「妻にも言われる」
「奥様は勇敢ですね」
「そうだろう。俺より強い」
団長の頭上の数字が、少し変わった。
理性値:55。
上がった。
奥様の話をすると理性が上がるらしい。
すごい。愛かもしれない。
ガレス団長は、隣にいた騎士へ軽く手を振った。
「先に行け。訓練場の壁は壊す前に報告しろ」
「壊す前提なのですね」
「壊れん壁なら報告だけで済む」
済むのだろうか。壁に対する信頼が低い。
騎士たちが去ると、ガレス団長はオリヴィエの鞄へ視線を落とした。
「総括官は今、王城側の会議だ。あとで預かる」
「はい」
「それと、第二の坊主に婚約を切られたと聞いた」
「ロイド様のことですか」
「あの坊主だ」
ガレス団長は大きな腕を組んだ。
「第二騎士団の若いのは、たまに形ばかり整えて中身が追いつかん。全員ではないがな」
「形」
「家名、礼法、見栄え、手順。そういうものを整えるのも必要だ。だが、現場で壁にぶつかると止まる」
「壁にはぶつからないほうがよいのでは」
「壊せる壁なら壊す」
「やはり壁への信頼が低いですね」
ガレス団長はまた笑った。
「あっはっはっ!」
オリヴィエは封筒を抱えたまま、少しだけ肩を縮めた。
声は大きい。でも、怖くはない。不思議な人だ。
「あの坊主、お前さんには合わんと思っていた」
「そうなのですか」
「口を塞ぐ男は駄目だ。フォルカーの娘は、目と口が動いてなんぼだ」
「なんぼ」
ロイドには、疲れると言われた。
ここでは、目と口が動いてなんぼだと言われる。
同じ自分なのに、扱いが違う。
それだけで、胸のしょぼしょぼが少し薄くなった。
「イヴァン」
ガレス団長が、廊下の向こうへ声を飛ばした。
声は大きい。だが、叫んでいるというより、届く声だった。
呼ばれて現れたのは、第一騎士団副団長、イヴァン・レインハルトだった。
深い紺の騎士服。銀の飾緒。鉄紺の髪。灰紫の瞳。
いつも通り、顔がいい。
「こんにちは、副団長様。今日も顔がいいですね」
オリヴィエにとっては挨拶である。
イヴァン副団長は、いつものように笑った。
「ありがとう。オリヴィエ嬢も、今日も可愛いよ」
返事をしようとした。返事は見つからなかった。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
父のお使いでここへ来るたび、イヴァン副団長とは何度か顔を合わせている。
両手がふさがっていれば扉を開けてくれるし、道に迷いかければ軽く案内してくれる。
口は軽い。距離も少し近い。女慣れしている、という噂もよく聞く。
だから、なるほど、と思っていた。
何もなるほどではないのだが。
それでも、オリヴィエにとっては、いつも優しい副団長だった。
怖い人ではない。そう思っていた。
ガレス団長が、オリヴィエの鞄へ視線を落とした。
「イヴァン、ついでに書類を受け取れ」
「はいはい」
イヴァン副団長が、封筒へ手を伸ばす。
その頭上に、数字が浮かんでいた。
理性値:12。
低い。
今朝からいくつもの理性値を見てきたけれど、ここまで低い数字は初めてだった。
顔は理性的なのに。
いつもの優しい副団長なのに。
女慣れしているという噂は本当なのだろうか。いや、だから低いのだろうか。
それはそれで、騎士庁舎として大丈夫なのだろうか。
オリヴィエは思わず、口を開いた。
「副団長様は、見た目ほど理性的ではないのですね」
言った。
廊下の空気が止まった。
ガレス団長の笑い声まで止まった。
オリヴィエは、自分の口元を押さえた。
遅い。もう出た。
イヴァン副団長は、封筒へ伸ばしかけていた手を止めた。
一拍。ほんの一拍だけ、灰紫の瞳がこちらを見た。
それから、笑った。
「見た目は理性的に見えた?」
「顔は、とても理性的に整っています」
「顔は仕事をするよ。君も今、見てた」
「見ました」
「正直で可愛いね」
あ、ぅ。
返事をしようとした。
返事になる前に、変な音だけ出た。
たいへんよろしくない。
イヴァン副団長の頭上の数字が変わる。
理性値:7。
下がった。
オリヴィエは見てしまった。
そしてまた、言ってしまった。
「下がりました」
「何が?」
「言わないほうがいいと思います」
「じゃあ、言わないで」
「副団長様の理性です」
「言ったね」
言った。言ってしまった。
ガレス団長が、肩を震わせた。
「は、はは」
笑いかけて、イヴァン副団長に見られ、咳払いをする。
「うむ。俺は用事を思い出した」
「団長」
「用事だ」
「逃げましたね」
「戦略的移動だ」
ガレス団長は大股で廊下の向こうへ歩き出した。
理性値:51。
少し下がっている。
戦略的移動にも理性が必要なのだろう。
イヴァン副団長は、封筒を受け取った。
「オリヴィエ嬢」
「はい」
「今朝、何かあった?」
「目が覚めました」
「それは誰にでもあるね」
「侍女の頭の上に、理性値が見えました」
「……理性値」
イヴァン副団長の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
消えたわけではない。
けれど、軽口を置く場所を一つ変えたように見えた。
「心当たりは」
「昨日、侍女と一緒に占い師のところで薬草茶を飲みました」
「薬草茶」
「真実が見える、と言われました」
「侍女にも?」
「何もないそうです」
「なら、君だけか」
そこで、イヴァン副団長の顔が仕事のものになった。
「店の場所は?」
「学園からの帰り道にあります。青い布を下げた小さな店で、焼き菓子屋の角を曲がったところです」
「覚えてるんだ」
「見たので」
「いいね」
いいね。
褒められた。
何を。
見たことを。
オリヴィエは少しだけ目を丸くした。
「でも、副団長様の理性値が低いことは、父に言ったほうがいいですか」
「うーん、ちょっと困るかな。言わないで」
「分かりました」
素直に頷くと、イヴァン副団長は一瞬だけ目を伏せた。
笑ったようにも見えた。
困ったようにも見えた。
その頭上の数字は、まだ低い。
理性値:7。
それなのに、責められている感じはしなかった。
変だ。変な気持ちになる。
「イヴァン」
廊下の向こうから、ガレス団長の声が戻ってきた。
用事を思い出したのではなかったのだろうか。
戦略的移動の距離が短い。
「その茶、確認してこい」
「行くつもりです」
「だろうな」
「書類は団長に預けます」
「預かる」
「総括官へは」
「俺から伝える」
「ありがとうございます」
話が早い。
騎士団の人たちは、壁を壊す話をしていたのに、仕事になると速い。
壁は壊さないでほしい。
それはそれとして、速い。
イヴァン副団長の背後で、騎士たちが親指を立てた。
すぐに何人かが、その手を慌てて下ろす。
別の騎士は何もなかった顔で壁を見た。
オリヴィエは鞄の金具を直していたので、見ていなかった。
「忙しそうですね」
オリヴィエが言うと、イヴァン副団長はにこりとした。
「仕事中だからね」
その視線が、ほんの一瞬だけ騎士たちを撫でた。
背筋が伸びる音がしそうだった。
第一騎士団は忙しい。
「オリヴィエ嬢」
イヴァン副団長が、改めてこちらを見る。
「占い師の店まで案内してくれる?」
「はい」
「危ない茶だった場合は、こっちで確認する」
「はい」
「帰りは送る」
「仕事ですか」
「仕事だよ」
少し間があった。
ほんの少し。
「半分は」
半分。
オリヴィエは瞬きをした。
「残りの半分は何ですか」
「秘密。今言うと、君が逃げるかもしれない」
「逃げません。道が分かりませんので」
「そこは、俺から逃げないと言ってほしかったな」
「副団長様から逃げる理由は、今のところ理性値くらいしかありません」
「それ、けっこう大きい理由だね」
イヴァン副団長は笑った。
いつもの軽い笑い方だ。でも、仕事の顔は消えていない。
軽いのに、見ている。
それが少し不思議だった。
「では、行きましょう」
オリヴィエは鞄を抱え直した。
「オリヴィエ嬢」
歩き出そうとしたところで、イヴァン副団長に呼ばれた。
「はい」
「足元、段差」
「あ」
見ていなかった。危ない。
イヴァン副団長は手を差し出さなかった。
ただ、先に一歩進んで、段差の横に立った。
通る場所を空けるように。逃げ道を塞がないように。けれど、転ばないように。
理性値:7。
低い。とても低い。
でも、その立ち方は優しかった。
変だ。たいへん変だ。
オリヴィエは唇をきゅっと結び、段差を越えた。
しょぼしょぼしていた胸の真ん中が、少しだけ別の音を立てている。
どき。
別件である。非常に困る。
オリヴィエは、顔のいい副団長の隣を歩いて、騎士庁舎を出た。




