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目を覚ますと、侍女の頭の上に数字が浮いていた。
理性値:87
理性値。
なるほど。
何もなるほどではない。
「おはようございます、お嬢様」
侍女のリタは、いつも通りにカーテンを開けた。朝の光が部屋へ入ってくる。寝台の上で上半身を起こしたオリヴィエ・フォルカーは、その光よりも、リタの頭上に浮かんだ「理性値:87」のほうが気になった。
瞬きをしても消えない。片目を閉じても消えない。両目を閉じると見えない。
それはそう。
「リタ」
「はい」
「頭の上に数字が浮いています」
「寝ぼけていらっしゃいますね」
「理性値、と書いてあります」
「たいへん寝ぼけていらっしゃいますね」
リタは落ち着いていた。
その数字には妙な説得力がある。いや、この87がどれくらい理性的なのか、オリヴィエには分からない。分からないのに納得しかけた。
危ない。知らない概念にすぐ頷いてはいけない。
「お嬢様、昨夜の薬草茶では?」
「薬草茶」
そこで、オリヴィエは思い出した。
昨日、学園帰りにリタと一緒に立ち寄った占い師の店で飲んだ薬草茶である。
何でも、飲むと心が落ち着き、真実が見えるようになるとか、ならないとか。
ならないとか、のほうを信じていた。だってお茶である。
お茶はお茶だ。熱い。香りがある。飲むとほっとする。以上。
頭の上に理性値は出ない。
そのはずなのに、出た。
「リタは」
「私も飲みましたけど、何もありませんよ」
「何も」
「はい。お嬢様のお顔が、たいへんリスになっていること以外は」
「リス」
「木の実を隠す場所を忘れた時のリスです」
「リタはリスの気持ちに詳しいですね」
「お嬢様のおかげで」
どういう意味だろう。
聞いたら負ける気がした。
オリヴィエは、唇をきゅっと結ぶ。
怖い時ほど目が動く。
母には、目だけはよく動くのね、と言われる。
怖い時ほど見てしまうからだ。そして、見たものは口から出る。
朝からすでに出ている。かなり出ている。
まずい。
朝食の席に父はいなかった。
父、オズウェル・フォルカー伯爵は王国騎士総括官である。王国中の騎士団に関わる書類と、人と、責任と、胃痛を抱えている。たいてい朝が早い。
母はいつも通り、涼しい顔で紅茶を飲んでいた。
母の頭上には、理性値:91。
高い。
でしょうね、と思った。
「オリヴィエ」
「はい、お母様」
「リタから聞いたわ。数字が見えるのですって?」
「はい」
「そう」
「驚かないのですか」
「驚いているわ」
「そうは見えません」
「見えることと、そうであることは、同じではないわね」
母は紅茶を置いた。その手つきにまで理性値を感じ始めている。まずい。
朝から世界の分類が知らない方向へ進んでいる。
「熱や頭痛は?」
「ありません」
「食欲は?」
「あります」
「なら登校なさい」
「登校するのですか」
「今日、学園へ行く予定でしょう」
「頭上に理性値が見えるのに」
「欠席理由には少し弱いわね」
弱い。
頭上に数字が見える現象は、欠席理由として弱い。
貴族令嬢の世界は厳しい。
「ただし、無理はしないこと。帰りにお父様の書類を騎士庁舎へ届ける予定だったわね」
「はい」
「気分が悪くなったら、そちらは使いを出します」
「無理ではありません。少し変なだけです」
「変な時ほど、無理をしないこと」
「はい」
母は穏やかに微笑んだ。
オリヴィエは唇をきゅっと結んだ。
母はいつも、こう言う。
余計なことを言ったら、余計だったと気づきなさい。でも、必要なことまで飲み込まないように。
その線引きが難しい。難しいので、今日もオリヴィエは唇を結んでいる。なお、結んでも出る時は出る。
学園へ着くと、数字は増えた。
教師にも、令嬢にも、廊下を急ぐ生徒にも、頭上に理性値が浮いている。
数字が多い。世の中にはこんなに理性が浮いていたのか。
知らなかった。できれば今日も知らずにいたかった。
オリヴィエは廊下の端を歩きながら、視線を下げた。下げると靴が見える。誰が急いでいて、誰が立ち止まろうとしているか見える。上げると数字が見える。
結局、見える。目が忙しい。
「オリヴィエ様」
甘い声に呼ばれた。
ミーナ・ラナベル男爵令嬢だった。
淡い桃色のリボン。潤んだ瞳。守ってあげたくなるような細い肩。
そして頭上には、理性値:82。
高い。ミーナは高い。
オリヴィエは、ミーナの手元を見た。
ミーナの指先は、ロイドの袖に触れていた。
ほんの少し。偶然と言えるくらい。けれど、触れている。
ロイドはそれを止めていない。
ロイド・アシュフォード令息。
婚約者としては、書類上とても正しい人だった。
家柄も、評判も、年回りも悪くない。父が一度は認めた相手だ。
ただ、最近のロイドはオリヴィエを見ない。見ているのは、オリヴィエの口である。
正確には、オリヴィエの口がいつ余計なことを言うかを見張っている。
そのロイドの頭上には、理性値:79。
こちらも高い。高い理性で、これをしている。
オリヴィエは、唇をきゅっと結んだ。
見えた。見えたが、まだ言っていない。
えらい。
自分で自分を褒める。誰も褒めてくれない時は自給自足である。
「ロイド様から、お話があるそうです」
ミーナは少し伏せ目がちに言った。
その目が、伏せる前に一度だけ周囲を見た。
誰がいるか。
誰が聞いているか。
誰が自分を見ているか。
泣く前の確認のようだった。
まだ泣いていない。
泣いていないのに、泣く場所を探している。
また見えてしまった。
「話し合いにしては、人が多いですね」
口から出た。ロイドの眉が寄った。
「オリヴィエ。そういうところだ」
「すみません。人数が見えたので」
「見えたものを何でも口にするなと、何度言えば分かる」
「何でもではありません」
「同じだ」
同じではないと思った。でも言うと長くなる。長くなると、ロイドの眉間がさらに深くなる。
眉間の皺も見える。見えるものが多い。
オリヴィエは、もう一度唇を結んだ。
ロイドは廊下の奥、人気の少ない談話室へ向かった。ミーナは袖からそっと手を離し、けれどロイドの少し後ろを歩いている。
ついてくる。
話し合いなのに。
オリヴィエはその背中を見ながら、しょぼしょぼの予定が確定へ向かっているのを感じた。
談話室には、ロイドの友人が二人いた。
さらにミーナがいる。
オリヴィエを入れて五人。
話し合いにしては、人が多い。
また出そうになったので、唇をきゅっと結ぶ。
結んだ。
えらい。
「オリヴィエ・フォルカー」
ロイドが振り返った。公的な声だった。婚約者に向ける声ではない。
「君との婚約を、破棄する」
言葉は、思っていたより真っ直ぐ落ちた。
胸が痛い。
まったく痛くないわけではない。
婚約者だった人に、みんなの前で婚約を破棄されるのだ。痛くないなら、それはそれで自分の心配をしたほうがいい。
痛い。けれど、壊れるほどではなかった。
やっぱり、という気持ちのほうが先に来た。
予約していたしょぼしょぼが、席についた感じである。
「理由を伺ってもよろしいですか」
「君が、私の婚約者としてふさわしくないからだ」
「ふさわしくない」
「場を乱す。余計なことを言う。夫となる者を立てる気がない。何より、ミーナを傷つけるような目で見た」
傷つけるような目。
視線には形がないのに、ずいぶん便利に人を傷つけたり傷つけなかったりするらしい。
オリヴィエはミーナを見た。
ミーナは肩を震わせた。震わせながら、やはり一度、周囲を見た。
誰が自分を見ているか。
ロイドの友人の一人が、すぐに痛ましそうな表情を作った。
見事な連携だった。
演習の成果なら、父が少し喜ぶかもしれない。いや、喜ばない。これは騎士の演習ではない。
「見てはいました。でも、何もしていません」
「見るだけで人を傷つけることもある」
「それは、あります」
「なら」
「でも、ミーナ様は泣く前に周囲を見ます」
言ってしまった。
ロイドの表情が変わる。
ミーナの肩が止まる。
友人たちの目も動いた。
あ。
余計だったかもしれない。
でも、見えた。見えたものが、意味を持ってしまった。
「何を言っている」
「ミーナ様は、涙が出る前に、誰が見ているか確認されます。今もそうでした」
「オリヴィエ!」
「はい」
「黙れ」
「……黙っていたら、了承したみたいになるのでは」
ロイドが一歩近づいた。ミーナが小さく息をのむ。
その息も半分は音として作られているように聞こえた。
いけない。聞こえたことまで言ってはいけない。口を結ぶ。きゅっ。
「そういうところだと言っている。君は黙っていればいいんだ」
「黙っていたら、正しいことまで黙ることになります」
また出た。
以前にも、同じようなことを言ったことがある。
騎士団の合同訓練の日、訓練用の剣の留め具が緩んでいるのが見えた。
そのまま使えば、打ち合った拍子に外れるかもしれない。飛べば怪我をする。
ロイドは、あとで確認するから黙っていろと言った。
でも、あとでは遅いかもしれなかった。
だから言った。
「黙っていたら、正しいことまで黙ることになります。あっ、言い過ぎました、ごめんなさいっ」
留め具は本当に緩んでいた。怪我人は出なかった。
それでもロイドは、その日からオリヴィエの口を見張るようになった。
見たものを言うこと。
それがロイドにとっては、夫となる者を立てないことなのだろう。
オリヴィエには、まだよく分からない。
「君と話していると疲れる」
ロイドが吐き捨てるように言った。
胸が少し沈んだ。それは痛かった。
疲れる。自分でも思う。
オリヴィエは、目が動く。口も動く。止めようとしても、全部は止まらない。
だから疲れると言われたら、否定しきれない。
しょぼしょぼが、少し深くなる。
「申し訳ありません」
謝罪は出た。それは自然に出た。
ロイドは少しだけ勝ったように息を吐いた。
理性値:79。
変わらない。高いままだ。
なら今の言葉は、うっかりではない。
「婚約破棄については、父に確認します」
「確認?」
「はい。婚約は家同士のものですので、私だけで了承できません」
「そんなことは分かっている。だが、君に先に伝えておくのが誠意だ」
「人を集めてから伝えるのは、誠意なのですか――あっ」
「オリヴィエ」
オリヴィエは両手で口を押さえた。
遅い。
ロイドの眉間が深くなった。ミーナが今度こそ涙を浮かべた。友人たちがざわめいた。
場が乱れた。
けれど、場を乱したのは本当にオリヴィエだけだろうか。
婚約破棄をする。
婚約者ではない令嬢を同席させる。
友人を置く。
涙を見る。
責める。
それは、整った場なのだろうか。
オリヴィエには、雑に見えた。
言わない。これ以上は、言わない。
唇を押さえたまま、オリヴィエは頭を下げた。
「お話は分かりました。父に伝えます」
深く礼をして、談話室を出た。
廊下に出ると、空気が少し軽い。
軽いのに、胸はしょぼしょぼしている。
婚約者に婚約破棄された令嬢としては、感情の見栄えが弱い気がする。
でも今、オリヴィエの心は見栄えまで整える余裕がない。
理性値が見える。
婚約破棄された。
帰りには、父の書類を騎士庁舎へ届けなければならない。
こんなに忙しいと、リスならきっと木の実を落としているに違いない。
父に書類を持っていかないと。
とりあえず、まずはそれから。
しょぼしょぼしながら、オリヴィエは教室に向かった。




