逃げろ
異世界に来て、そろそろ一年が経とうとしていた。
かつて地獄だと思っていた修行も、今では日常になっている。走り込みも筋力訓練も難なくこなし、あれほど嫌だった激マズ食材も、最近では普通におかわりするようになっていた。
特にここ最近は、個人の強化よりも三人での連携を重視した実戦訓練が増えている。
そんなある日だった。
「よし、集まったな」
ジンが三人を呼び止める。
「これより三日後、皇帝に最終テストをしてもらう」
「皇帝に!?」
リンが耳を跳ねさせる。
「別に不合格でも問題ねぇ。ただ、自分たちがどれだけできるか知りたいだろ?」
ジンは笑う。
「俺とかミューズ、リュシ相手だと手の内知ってるしな」
アキラたちも自然と表情が引き締まる。
「で、その前に最後の課題だ」
ジンは静かに言った。
「――俺から逃げろ」
「……え?」
「つまり撤退戦だ」
三人は顔を見合わせる。
正直、拍子抜けだった。
「えー、今更っすか?」
ジーコが肩を回す。
「流石にそれは余裕ニャ」
リンも気楽そうに言う。
「僕らも強くなりましたしね」
アキラも苦笑した。
そんな三人を見て、ジンはふっと笑う。
「そういや、本名を教えてなかったな」
一拍。
「ジン・ヴォルフガングだ」
その瞬間だった。
「――では、いくぞ」
静かな声と共に。
ジンの“衝動”が、ほんの少しだけ漏れた。
それはまるで。
棚に置かれた小瓶から、僅かに香りが漏れた程度のものだった。
蓋は開いていない。
中身すら見えていない。
それでも。
三人が感じたものは同じだった。
――死。
ジーコの身体が最初に反応した。
(死ぬ)
(やばい)
(逃げろ)
(仲間)
(助け――)
(逃げろ逃げろ逃げろニゲロニゲロニゲロ)
考えるより先に、本能が身体を動かしていた。
景色が流れる。
地面が弾け飛ぶ。
一方リンは。
「……ぁ……」
動けなかった。
恐怖で身体が硬直している。
脳裏に蘇る。
捨てられた記憶。
仲間だった野良猫が捕まった記憶。
消えていった記憶。
助けてもらえなかった記憶。
恐怖に耐え切れず、リンは失禁し、そのまま意識を失った。
そして。
アキラだけが。
無言で、無表情のまま。
ジンへ飛びかかっていた。
*
数十メートルほど離れたところで、ジーコはようやく正気に戻った。
「……はっ」
呼吸が乱れる。
心臓が暴れている。
そこで初めて気づいた。
「やば……」
血の気が引く。
「なんでウチ……みんな置いて逃げて……」
反転する。
「戻らなきゃ!」
地面を蹴り、全力で戻る。
そして。
「あ……」 「あぁ……」 「……あ」
視界に映ったのは。
倒れているリン。
そして。
血まみれで倒れているアキラだった。
「あ……いや……ウチ……」
「みんな置いて……逃げ……」
膝から崩れ落ちる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
泣きながら叫ぶジーコ。
そんな彼女を見ながら、ジンは静かに回復魔法を使った。
リンとアキラが目を覚ます。
「……ジーコ」
「っ……!」
ジンが口を開いた。
「ジーコ。半分正解だ」
「……え?」
「ただ――これがお前達の弱点でもある」
静かな声だった。
「お前のは、本能から来る逃走だ。危険察知が強すぎる」
「だから仲間を置いてでも逃げちまう」
「責めるつもりはない。こいつらの未熟さも原因だ」
「だが、お前は今後それに悩み、後悔することになる」
ジーコは俯いたまま、唇を噛む。
「リン」
リンの耳がびくっと動く。
「精神的な未熟さだ。圧倒的強者への耐性がない」
「魔力ゼロの影響もある。その分、メンタルを鍛えないと防げない」
「……ニャ」
「そしてアキラ」
ジンの目が細くなる。
「お前が一番不合格だ」
アキラが目を見開く。
「立ち向かうことは悪くねぇ。だが、お前は不死に変な自信を持ち始めてる」
「少なくとも今回、本気の撤退戦だったらリンは死んでた」
アキラの顔が強張る。
「状況判断を怠るな。常に頭を回せ」
「お前の戦い方は、誰より自由なんだ」
「誰かを守りたい。役に立ちたい。そう言った自分の言葉を忘れるな」
その言葉には、今までで一番厳しい重さがあった。
三人は静かに拳を握る。
そして、それぞれが決意を固めた。
*
帰り道。
(……やっぱり逃げたな)
ジーコが振り向く。
足元。
そこには一匹のゴキブリがいた。
(所詮、俺たちは逃走に進化した存在だ)
(真っ先に逃げるのが正解)
「……うるさい」
(何をそんなに悔やむ?)
「うるさい」
(わかるよ。次も必ずこうなる)
(逃げろ)
「うるさいッ!!」
「ジーコ!?」
アキラが驚いて振り向く。
「……あ」
気づけば。
ゴキブリは消えていた。
「……ごめん。なんでもない」
そう言って笑うジーコの顔は。
少しだけ、無理をしていた。




