また明日、会えると思っていた
今日も身体がだるい。
なんだか、いつもより体が重くて、起き上がるのも少しつらかった。
熱を測ってみると、37.5度の微熱だった。
一昨日からずっとこの調子だ。
家にある風邪薬を飲んでいるが、一向に治る気配がない。
コンコン、と部屋のドアがノックされ、母親が入ってくる。
「ゆうすけ、今日も熱は下がってなかったの?」
「うん……37.8度だったよ」
「そう。今日は病院に行くわよ」
そう言われ、僕は母親と一緒に病院へ向かった。
どうせ、ただの風邪だろう。
早く元気になって、友達と遊びたいな。
そんなことを思いながら、僕は待合室で順番を待った。
待っている間も、体が少し重くて、ぼんやりしてしまう。
なんだかいつもの風邪よりもしんどい気がしたけど、きっと気のせいだと思った。
しばらくして名前を呼ばれ、母親と一緒に診察室に入る。
中には、眼鏡をかけた若い先生がいた。
「おはようございます。日野祐介さんですね。
症状は、全身のだるさと発熱が続いている、ということでしょうか。
少し検査をしてみましょう」
そう言われ、僕は血液検査を受けることになった。
血を抜かれるのは初めてだ。
針を刺すときは少し痛かったけど、そのあとは特に痛みはない。
でも、血が抜かれていくのを見るのは怖くて、思わず体がこわばってしまう。
僕の様子に気づいたのか、看護師のお姉さんが優しく声をかけてくる。
「大丈夫だからね。もうすぐ終わるよ」
その言葉を聞いているうちに、検査は終わった。
薬をもらい、検査結果は今日中にわかると言われたので、いったん家に帰ることになった。
どうせ大したことじゃないだろう。
また、みんなと遊べるようになる。
僕は、そう信じていた。
⸻
夕方、ベッドに横になっていると、一本の電話が鳴り響いた。
もしかしたら病院からかもしれない。
そう思いながら、重たい体に力を入れて、ゆっくりと起き上がる。
母が電話に出て、しばらく黙ったまま話を聞いている。
会話の内容は分からない。
ただ、「はい」と答える声だけが、少し固く感じられた。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
しばらくして、母が部屋にやってきた。
「ゆうすけ、結果が出たみたい。もう一度、病院に行きましょう」
その声は、どこか硬かった。
⸻
病院に着くと、僕は精密検査を受けることになった。
検査は麻酔をしてくれたので、はっきりとは分からなかったが、見えない分だけ逆に怖かった。
検査結果は数日かかると言われた。
そして――僕は、そのまま入院することになった。
⸻
ただの風邪だと思っていたのに。
すぐに、友達と遊んで笑っていられる毎日に戻れると思っていた。
だけど――
どうやら、もう普通の生活には戻れない。
そんな気がした。
⸻
病院は不思議な場所だった。
初めての入院で、すべてが新しく感じられる。
身体はだるいはずなのに、どこか心が少しだけワクワクしていた。
その一瞬だけは、不安を忘れていられた。
でも、夜になり、個室で一人になると――
自然と不安が込み上げてくる。
これは夢じゃないんだろうか。
僕はどうなってしまうんだろうか。
そんな考えが何度も頭をよぎり、気づけば涙がこぼれていた。
まだ結果はわからない。
だけど、入院するということは、きっと良くないことなんだと思ってしまう。
布団の中で、息がうまくできなかった。
それでも、ただ必死に祈った。
また、平穏な日常を送れますようにと。
⸻
朝、目を覚ますと、ここが病院だったことに気づく。
そして、昨日の出来事が夢ではなく現実だったことに、不安を覚えた。
夢ならよかったのに。
まだ倦怠感は抜けず、ベッドの上でぼんやりしていると、看護師がやってきた。
どうやら体温の確認と、体調を聞きに来たようだ。
それが終わると、食事が運ばれてくる。
なんだか少し、偉くなったような気分だった。
味は美味しいけど、少し薄かった。
食事をしていると、母親が病室を訪ねてきた。
顔色が少し悪い。
僕のせい、だろうか。
母は「大丈夫だからね」と言いながら、安心させるように手を握ってくれた。
その優しさに、思わず涙が溢れた。
⸻
しばらくして、看護師と医師が部屋に入ってきた。
「お母さま、検査結果が出ましたので、少しお話してもよろしいでしょうか」
「分かりました」
母親は重々しく頷いた。
「では、一度、別室で詳しくお話ししましょう」
そう言って、先生たちと母親は部屋を出ていった。
⸻
一人、取り残された。
さっきまであった温かい手は、もうそこにはない。
この結果次第で、僕の運命が決まる。
僕は何もできず、ただ待つしかなかった。
⸻
それからしばらくして、先生たちと母親が部屋に戻ってきた。
母は、目を合わせなかった。
それだけで、分かってしまった。
先生が僕の方に近づき、口を開いた。
「まだ確定ではありませんが、急性骨髄性白血病という病気の可能性が高い状態です」
血を作る場所に、うまく働かない細胞が増えてしまっていて――
そのせいで、体が弱っている状態だと説明された。
「できるだけ早く、治療を始めましょう」
「大変な治療になりますが、良くなる可能性もあります」
その言葉だけが、かろうじて残った。
⸻
治療は、想像していたよりもずっと過酷だった。
僕の腕には、ずっと点滴がつながれている。
抗がん剤が、ゆっくりと体の中に流れ込んでいた。
最初は、そこまで何も感じなかった。
でも、数日もすると、体が重くて、動くのもつらくなった。
何もしていないのに、体だけが削られていく。
気持ちも悪くて、食べ物を見るだけで嫌になる。
目に見えて変わったのは、髪だった。
ある日、枕に髪が落ちていた。
手で触れると、指に何本も絡みついた。
それが自分のものだと気づいたとき、胸の奥が冷たくなった。
先生から説明はされていた。
でも、実際に起きると、思っていたよりずっとこたえた。
気づけば、眠っている時間が増えていた。
起きていられる時間は、ほんの少ししかない。
食欲もなく、何をする気力もなかった。
――体も、心も、削られていく。
⸻
ある日、先生から話があった。
「今の治療の効きが、あまり良くありません」
「抗がん剤を少し強いものに変えようと思います」
母は静かに頷いた。
僕も、同じように頷いた。
⸻
薬を強いものに変えてから、体はさらにきつくなった。
吐き気はおさまらず、食欲もほとんどない。
食べなきゃいけないのに、体が受けつけない。
どうして、こんなに苦しい思いをしなければいけないんだろう。
僕は気を紛らわせるように、送られてきた手紙を手に取った。
「早く元気になってね」
そんな言葉が並んでいる。クラスのみんなからの手紙だった。
みんなは、普通に過ごしている。
笑って、遊んで、学校に行って。
それが、どうしようもなく遠く感じた。
元気になってほしい――
そんなの、僕だってなりたい。
でも現実は、思うようにはいかない。
みんなは、何も変わらない日常の中にいる。
僕だけが、そこから外れてしまったみたいだった。
羨ましくて、悔しくて、どうしようもなかった。
そんなふうに思ってしまう自分が、ひどく醜く感じられて、余計につらかった。
⸻
僕は、少しずつ弱っていっている。
もうダメなんじゃないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
⸻
ある日、先生から話があった。
「今の治療の効果が、十分に出ていません」
「別の治療も検討しましたが、体への負担が大きすぎます」
母の手が、わずかに震えた。
「これ以上、無理に強い治療を続けるより――
これからは、できるだけ楽に過ごせるようにしていきましょう」
その言葉を聞いた瞬間、母の目から涙があふれた。
僕は、その意味を、理解してしまった。
――もう、治らない。
⸻
薬が変わってから、体は少し楽になった。
でも――それが、何を意味しているのかは、分かっていた。
僕の時間は、少しずつ減っている。
神様、どうして僕なんですか。
どうして僕が、こんな目にあわなきゃいけないんですか。
胸の奥に、黒い感情が溜まっていく。
僕はただ、普通に暮らしたいだけなのに。
どうして……まだ、生きていたいのに。
⸻
そんな願いは叶うことなく、やがて、その時は近づいてきた。
最近は、頭がぼんやりすることが増えた。
眠っている時間も、前よりずっと長くなっている。
どこかで、母の声がする。
泣きながら、僕の名前を呼んでいる。
でも、その声は遠くて、ぼやけていた。
まるで、水の中にいるみたいだった。
どうして、そんなに泣いているんだろう。
また明日、会えるのに。
かすかに、母の声がした気がした。
「ずっと、そばにいるからね」
でも、その声は、どこか遠くへ流れていった。
僕は、そのまま、
ゆっくりと目を閉じた。




