境界に立つもの
影は動かない。
わずかな距離を保ったまま、そこに存在している。
ミリアの呼吸だけが、夜の中で浮いていた。
速い。
だが、さっきとは違う。
逃げていない。
見ている。
測っている。
ミリアを。
タケトシの気配を確かめる。
生きている。
だが、まだ動けない。
時間はない。
影が一歩、踏み出す。
それだけで空気が変わる。
重い。
押し潰されるような圧。
ミリアの身体が、わずかに沈む。
力ではない。
存在そのものの重さだった。
初めての感覚。
「……いいな、それ」
声がした。
すぐ近く。
だが位置が定まらない。
男の声。
軽い。
楽しんでいる。
「さっきと違う」
ミリアは動かない。
視線も外さない。
声に引き寄せられないように。
影が、わずかに輪郭を持つ。
完全ではない。
だが、そこにいると分かる。
「壊すんじゃないんだな」
言葉が続く。
観察するように。
試すように。
「守る、か」
その瞬間。
ミリアは踏み込んだ。
一直線に。
迷いなく距離を詰める。
拳を振るう。
影は消える。
だが遅くない。
すぐ後ろに気配が生まれる。
振り返る。
間に合わない。
衝撃。
身体が横に弾かれる。
地面に転がる。
息が抜ける。
それでも、止まらない。
すぐに立ち上がる。
影はまた距離を取っている。
同じ。
だが、違う。
さっきより近い。
間合いが、わずかに詰まっている。
「いいな、それ」
もう一度、声がした。
今度ははっきりと近い。
「お前、境界にいる」
意味は分からない。
だが、身体が反応する。
その言葉に、触れてはいけないと。
「獣のままでもない」
一歩。
影が近づく。
「人でもない」
もう一歩。
ミリアは動く。
逃げない。
踏み込む。
今度は迷わない。
距離を詰める。
拳。
脚。
連続。
影が、初めて明確に受ける。
弾く。
だが、止めきれない。
当たる。
わずかに。
確かに。
その瞬間、空気が変わる。
影の気配が、はっきりと笑った。
「いい」
短い言葉。
それだけで理解する。
気に入られた。
最悪だった。
影が後退する。
一歩。
そして、消える。
完全に。
追えない。
気配も残らない。
静寂が戻る。
だが違う。
さっきまでとは明らかに違う。
ミリアは動かない。
呼吸を整えながら、闇を見続ける。
理解する。
これは終わりではない。
始まりだ。
あれは敵ではない。
もっと厄介な何かだ。
タケトシが、わずかに動く。
まだ立てない。
だが意識は戻っている。
ミリアは振り返らない。
ただ前を見る。
さっきまで影がいた場所を。
そして――
もう一度、強く拳を握った。




