名前
少女の視線は。
まだミリアに向いていた。
警戒は消えていない。
信頼もない。
それでも。
最初とは違っていた。
逃げようとはしない。
睨みもしない。
ただ。
見ている。
じっと。
確かめるみたいに。
部屋は静かだった。
職員も。
ノアも。
誰も喋らない。
壊さないように。
この小さな変化を。
少女はパンを握っている。
もう半分も残っていない。
お腹は空いていたのだろう。
ミリアは壁にもたれる。
少女と同じように。
少し距離を空けて。
少女がちらりと見る。
それだけだった。
でも。
少しだけ不思議そうだった。
「……変」
小さな声。
ミリアは瞬きをする。
「変?」
少女が頷く。
「普通」
言葉を探す。
「もっと色々言う」
ミリアは少し考えた。
確かにそうかもしれない。
大人たちは色々言う。
食べろ。
大丈夫だ。
安心しろ。
信じろ。
でも。
ミリアも聞かなかった。
だから。
「言っても」
短く答える。
「聞かないから」
少女が固まる。
そして。
少しだけ視線を落とした。
「……聞かない」
認めるみたいに。
少しだけ。
拗ねたみたいに。
ミリアは頷いた。
「うん」
沈黙。
でも。
嫌な沈黙ではなかった。
少女は残りのパンを見る。
一口食べる。
それから。
ぽつりと言った。
「名前」
ミリアが顔を上げる。
少女はパンを見たまま。
「知ってる」
小さな声。
「ミリア」
ミリアは頷く。
「うん」
少女が少し迷う。
指先が震える。
そして。
ゆっくり口を開いた。
「……ユナ」
掠れた声。
小さな声。
でも。
確かに聞こえた。
ミリアは黙っている。
ユナも黙る。
数秒。
長い沈黙。
それから。
ミリアは小さく言った。
「ユナ」
呼ぶ。
初めて。
その名前を。
ユナの肩が少しだけ震えた。
戸惑っているみたいだった。
名前を呼ばれることに。
慣れていないみたいに。
ユナは視線を落とす。
パンを握る。
そして。
本当に小さな声で聞いた。
「……また来るの?」
部屋が静かになる。
ノアが目を見開く。
職員も息を止める。
自分から聞いた。
初めてだった。
ミリアは少し考える。
そして。
正直に答えた。
「たぶん」
ユナが顔を上げる。
ミリアは続ける。
「来る」
短い言葉。
それだけだった。
ユナは何も言わない。
でも。
ほんの少しだけ。
肩の力が抜けた。
窓の外では風が吹いている。
曇り空はまだ続いている。
けれど。
ユナの視線は。
もう逃げる場所を探していなかった。
ただ静かに。
ミリアを見ていた。




