3. 雨のベドフォード
お母さん、そんなにきつく言わなくてもいいじゃない!
『いざ、その時になったら、辛いのはあなたなんだから、ちゃんと出来る様にならないと駄目よ』
その時なんてすぐには来ないんだから、その時までに出来る様にすればいいじゃない!
『その時なんてあなたのすぐ近くにいるのよ。ほら、こんな近くに山賊だっているんだから』
母の足元には頭や顔や首が壊れて、白い骨が現れている死体が転がっていた。見上げると母の顔も崩れ落ちていた…
何かが顔に触れている…いや、来ないで…払う私の手に、サクッ、と何かが刺さった。
「痛いっ!」
目を開けた私の布団の上で、サーシャが不機嫌な顔をして私を見ていた。
「あ、ごめん…起こしてくれたんだね」
ぷい、と横を向いたサーシャは、そのままベッドから飛び降りて、ドアの近くで私に背を向けて丸くなった。
「あ、本当にごめん。許して…」
サーシャはぴくりとも動かなかった。まずい…これだと出発時に動いてくれないかもしれない…
右手の甲を見ると、猫の爪に刺された跡から血が滲んでいる。このくらいの傷なら水魔法の治癒で治せる…けど、聖魔法の治癒と比べて水魔法の治癒は弱い。母は私に全ての水魔法を教えてくれたけど、水魔法では治せない程に身体が悪くなっていたんだろう。
馬車の旅に急かされていた為に忘れていた事を思い出した。母は優れた魔法使いだったけれど、貧しい暮らしはどうにもならなかった。栄養の足りない体を生き延びさせる事もできなかった。じんわりと瞼が熱くなった…
その日は朝になっても暗いままだった。雨雲が低く垂れこめ、しとしとと雨が降り続いていたんだ。
「おはようございます」
「遅かったね。朝食をすぐ用意してあげるから、食べたら一回、駅馬車の事務所に行ってみな」
「どうかしたんですか?」
「雨だからさ、ぬかるんで馬車は坂を上れなくなるんだよ。だから、今日は馬車は出ないかもしれないんだ。確認して、馬車が出ない様ならもう一泊する事になるだろ?晩飯の準備があるから、今晩も泊まるなら早く教えて欲しいんだよ」
「…分かりました」
私とサーシャの分の朝食を部屋に運ぶ。サーシャの朝食はベーコンとキャベツを煮込んだスープだ。もちろん、猫舌対策で冷ましてある。くちゃくちゃという咀嚼音を聞きながら、自分の朝食を口に運ぶ。サーシャは食べ終わるとまた壁を向いて丸くなってしまった。
雨で馬車が何日も止まってしまうと、宿代が無くなってしまう。余裕は二日分しかないんだ。なんとか馬車を出してもらえないだろうか…
「ほら、ちょっと大きいかもしれないけど、昔、娘が使っていたコートがあるから、着て行きな」
「ありがとうございます」
だぶっとした着心地のコートのフードを被って宿屋を出る。幸い、サーシャは不機嫌で部屋から出ようとしなかった。だから一人でぬかるんだ道を駅馬車の事務所まで歩いて行く。
「すみません、ウィボストンに行く予定だったんですが、今日は馬車は出ますか?」
「悪いね。雨だから今日は馬車は出ないよ」
とぼとぼと宿屋への道を歩く。食事なしの素泊まりにした方が良さそうだ。それで余裕が一日伸びる訳ではないんだけれど…
「どうだった?」
「今日は馬車は出ない様です。それで、すみません、もう一泊したいんですが、食事なしの素泊まりでお願いします」
「…あまり手持ちが無いんだね?」
「はい…」
「じゃあさ、昼と夜の調理の手伝いをしてくれれば、まかないを出すよ。どうする?」
「あ、はい。やらせてください」
早速、調理場に行き、石鹸で手を洗う。籠から玉ねぎを出して、皮を剥き、4つに割る。
「手際が良いね。家で手伝いをしてるのかい?」
「それもありますけど、近くの調理場を手伝って賃金を貰っていたんです」
「ああ、それは…あんたも大変だったね」
女将さんは男爵の部下から話を聞いているんだ。
「ええ、まあそれほどでもないです」
働く事で多少は疲れたとしても、それで母と暮らせるならその方が良かった…
まかないにはごった煮が出てきた。
「あの、すいません、何か猫の分を分けて貰えないでしょうか?」
「ああ、猫なら角からこっちを見ていたから、お腹が空いたんだろうと思って、もう干し肉をお湯で戻したものを食べてるよ」
女将さんが向かった先では、サーシャがくちゃくちゃを咀嚼音を立てながら戻した干し肉を噛みちぎっていた。うん…私が働いて賄いを稼いだのに、不機嫌で寝転がっていたあなたは贅沢に干し肉を貰っているんだ…
一瞬上を見たサーシャは私を見て一瞬耳を立てたが、すぐに知らんぷりをしてまた皿に向かった。しかし、耳がぴくぴく動いていた。
食べ終わったサーシャは顔を上げなかったけれど、その背中を撫でてあげた。一度上を向いたサーシャは、黙って部屋へ戻って行った。
夕飯の手伝いの後では、私がまかないを食べるまでサーシャは待っていてくれた。今度は一緒に夕飯にありついた。
「お陰で助かったよ。今日は早くお休み」
片付けを手伝おうかと思っていたけれど、女将さんは早く寝る様に言ってやんわり拒否をした。
翌日は晴れていた。雨は昨日の午後過ぎには止んでいたんだ。一度駅馬車の事務所に行って運行を確認してから、宿屋に戻って支払いをした。
「昨日は助かったから、素泊まりの半額で良いよ」
「えっと、でも…」
「お金は大事だから、とっときな」
「はい。ありがとうございます」
荷物と籠を持って駅馬車の事務所へ急ぐ。サーシャは私のすぐ横を歩いて行く。
「ほら、間もなく出るよ。さっさと乗りな」
「はい。すいません」
御者に急かされて急いで馬車に乗る。木箱に座った後、サーシャをスカートの弛みに乗せる。
私は幸福とは言えない状態かもしれないけれど、不幸とは言えない。一人の家族を失っても、こうして共にいる家族がまだいるのだから。
ヨーロッパでの傘の使用は16世紀以降だとか。




