#無職天使、下界降臨
下界の時の流れは気分屋の神々に勝るほど移ろいやすい。その生命体の中でも、人間という種は興味深かった。瞬きの合間に崩壊と再生を繰り返し、歴史という大層なものを積み上げる。
人間は微かな差異から敵・味方を作り出す天才だった。飽き飽きするほど繰り返された人間のケンカがそれを雄弁に物語る。
言葉、国、思考、色、権威…信仰。
築き上げたものを壊し合い、瓦礫の上で互いを誇示し合う。そして、和解の“フリ“をする…これの繰り返し。吹けば飛ぶような歴史を後生大事に抱え、人間は伝統へと昇華した。
悲劇、奇跡、恐怖…そんなお飾りの言葉と一緒に。
「地面、ある。」
踏みつける地面からは微かな冷気とザラついた感触。
雲を踏むような浮遊感は、ない。
ただ、足を持ち上げればサラサラと微粒の物体が離れていく。時折混ざる不純物が不快な感触を足裏に伝える。
「空気、臭い。」
生命宿る種族特有の匂いに、肺を圧迫する重い空気。吸って、吐く…不純物が身体を巡り、僕の一部となる。生きとし生けるもの全てが空気を共有する人間種の世界には、穢れなき空気は存在しないらしい。
「景色、低俗。」
秩序も景観美も存在しない、ただ物体を積み上げたような景色。均一な均衡も、精緻な装飾も、神秘性の欠片もない。所々に姿を見せる、人間種の痕跡が著しく景観を損なわせる。
…間違いない。
「下界…人間種の世界、か。」
職務…今となっては前職の合間に覗き見た世界。その世界に、僕は存在する。確かな感触と不快感と共に…つまり、神が僕に授けたのは堕天。ただし、堕ちたのは生命の格。何者にも侵蝕されない天使から、不特定多数に染まる人間種に。
「…さて、どうしようか。」
人間種の世界には3つの絶対要素が存在する。
第一に、資産。
生活を享受するには最重要かつ必須物資。
第二に、信頼。
学歴・犯罪歴・交友関係…人間種とは様々な要素を相手と結びつけ、総合的な評価をくだす。
第三に、コセキ。
これは資産以上に必要で、信頼以上に取得が複雑。人間種の世界でもコセキを持たない一部の種族はいたけど、最終的には血縁者を辿るなり、手間のかかるシホウの力を借りるなりすれば取得は可能になる。ただ、僕にとって血縁者は文字通り雲の上の存在、シホウの力を借りようにも最終的には匙を投げるような家庭事情。
「っ……ゔっ、ぁ………っ…」
それは、唐突だった。
臓腑を直接撫ぜるような、得体の知らない感覚に身体が地に倒れ伏す。胸の中心近くから福音を鳴らすラッパが響くような、激しい振動が鳴りやまない。取り込む臭気に肺が呼吸を拒む…それと連動するように生温い不快感が喉元を逆流して…零れ出した。
「う、ぁ……っ、ぅ………はっ、っ……」
鼻をつく刺激臭に、酸味と苦味のある不快感の液体が口内を浸す。投げ出された四肢は動けという命令系統を無視して、微かな振動を起こすのみ。耳から聞こえるノイズのような水音が、不快な現象を助長させる。ノイズが近付く度、呼吸を急かされ、遠ざかる度に惨めに喉を鳴らす。
「…っ、く、はぁ……っ………ぁ…」
…この姿を、僕は、見た記憶がある。
たしか、獣が入るような檻の中。
その愛し子は、僕に言った。
『今から私は、楽園へと行くのだ。』
骨と皮のみの貧相な身体に、異様なほど光に満ちた瞳。その手には、クスリがあった。驚く程に脆弱な愛し子は、イリョウという知恵の発展により、神の知りえない領域で種族を護ってきた。その結晶が、クスリ。ただし、数多ある歴史の中でクスリは、正しき導きばかりを愛し子に施したわけではなかった。
『…それは、自害だね。』
『えぇ…死が私に近付かぬなら、私が死に近付くまで。これがあれば、それが可能になる。』
脆弱な愛し子は、時に死を自ら望む。
終わりなき苦しみから逃れるため。
迫りくる恐怖に、ココロが耐えきれなくなり。
遠き死の気配に身を包むために。
目の前の愛し子も、その内の一人。
『楽園で、君は何をするの?』
『苦しき全てを捨て…全てを……忘れたいのです。』
『そう…。』
骨と皮だけの腕が、軋みをあげて握られる。
その手に握るのは…歴史と憎悪。
目の前の愛し子の過去なんて僕には知る由もない、抱える苦痛も悲哀も僕には理解できる代物でない。天使とは神に近しき存在であり、愛し子とは生命の格が違う。それゆえに、愛し子の死の在り方に僕が異議を唱えることもない。
『今…そちらに、むかいます……神よ。』
愛し子が生み出した叡智、クスリの能力を僕はその時初めて目にした。
『っ、ぁ……っ…は、ぅ……ぁぁ…………』
満ち足りた表情は、数刻のうちに苦悶の表情へと変化した。落窪んだ眼窩から零れ落ちんばかりに目を見開き、音に鳴らない呼吸を不規則に漏らし始めた。
『これを、君は望んだの?』
『ぁ………は、ぃ…これ、は……かみがっ、ぅ……かした、しれ……っ…』
言葉を紡ぐ口端からは泡が溢れ、充血した眼が僕を見上げる。その目には僕の同族に似た光が宿っていた…父なる神を信じて疑わない、盲信の光。ただ、確実に目の前の愛し子は死への階段を登っていた。その証拠に、四肢の主導権は愛し子の手を離れていた。無為に床を叩き、乾いた血が線を引く。
『神は…』
果たして、告げることが正解だったのか…。
その問に対する答えを、僕は掴めなかった。
『神は、自死を行う人間に楽園の扉を開かれません。』
『ゔぁ……ぅ、う………そ、だっ……』
『楽園は、数多ある苦難を乗り越えた人間にこそ開かれる…神は、自死を好みません。』
『……っ…………ぁ、あ…あぐっ、っ……』
最後に見た愛し子の表情は、苦痛だった。
…最後に愛し子は、何を伝えたかったのか。
僕に対する怨嗟か、はたまた神か。
楽園へと向かう愛し子に告げるには残酷な、愛し子の選択が向かわせる末路の真実。知らなければ、死に際までは幸せだったかもしれない。次に目覚めた景色が楽園かどうかなど、愛し子に判断する知識などないに等しい。ならば知らぬまま、次に目覚めた場所が楽園だと思わせた方が良かったのではないか…これに是と答えられなかった僕は、あの時から天使ではなかったのかもしれない。
記憶通りなら、僕の行き着く先は"死"だ。
「……っ…ぁ、は…っ………ぅ……」
脆弱な人間の身体とは、こうも脆いのか。
自身の身体の制御を、容易く投げ出した。
四肢の感覚はとうに消え失せ、福音を鳴らすラッパのような振動は弱々しくなり、開こうとする意思に反して瞼は閉じようとする。不快なノイズも、もう…朧気になりつつある。
僕が人間界で成したのは、不快感の感知。
脆弱な人間種の死に至る…その苦しみの体験。
天使の身ならば知らなかったそれらは、しかし僕が祈りを捧げた望みとは程遠い。捧げた祈りの欠片も成されなかった…やはり、天使では意味を成さない祈りであったのか。苦しみも恐怖も、憎悪も知らない穢れなき身では、祈りなどただの真似事に過ぎなかったのか。
「ど、っ……ぅかっ………」
人間とは、脆弱な種であり、傲慢な種だ。
飽きもせず狭い世界で衰退を繰り返し、歴史から学ばぬ姿勢を古今続けた。その歴史の積み重ねに、僕は一世紀を待たずして呆れすら抱かなくなった。所詮人間種の愚かな知恵では、そう評した。
「…っ、ぁ……ぼ、ぼぅにっ………」
僕は願った、『シアワセを知りたい』と。
天使の身では叶わぬ願いを、人間種ならば可能に出来る。神に近しき生命の格を持つ天使の身では叶わぬ願いを、脆弱な人間の身では叶えられる。
ならば、祈りを捧げよう。
(どうか、僕に…チャンスを与えてください。




