Epilogue
車はフィンチャーの元農場だった場所に差し掛かった。相変わらず手付かずのままで、一面が雪に覆われている。ジェシカが低く感嘆の声を上げた。生粋のロスっ子である彼女には、こんな雪景色が珍しいのだろう。僕は道路脇に車を停め、エンジンを切った。
右斜め前方にフィンチャーの家がある。周り一面が雪で覆われているからか、実際の荒れようよりも幾らかマシに見える。屋根には粉砂糖のような雪が降りかけられていて、童話に出てくるお菓子の家みたいだ。今、あそこにはミシェルが一人で住んでいる。
エミリーの失踪から二年余りが過ぎた夏、フィンチャーの婆さんは静かに息を引き取った。往診に来ていた主治医の話じゃ、婆さんは倒れてから思い出の中に生きていたらしい。農場をシェパードに取られた時のことがよっぽどショックだったようだ。この敷地から連れ出そうとすると取り乱して暴れていたんだそうだ。それだからミシェルは、この呪わしい土地から出て行くこともままならなかった。婆さんはいつもベッドの横にある窓から、いもしない牛や羊を眺めて微笑んでいたらしい。現実があまりにも辛過ぎて、栄華を誇っていた頃の幸せな記憶にすがり付いていたんだろう。慈しむべき未来に溢れた孫娘が、すぐ傍にいたことにも気付かずに。
婆さんの葬儀にはこの町のほとんどの人間が参列したが、そこにエミリーの姿はなかった。誰も彼女がどこにいるかなんて知らないのだから当然だ。連絡のしようもない。それからというもの、ミシェルはあの家でただ一人、エミリーの帰りを待ち続けている。
カエデの枝に積もった雪を僅かに吹き散らしただけの、それほど強くはない風の音が車の中にいても聞こえてくる。
「静かな場所ね……」
ジェシカが呟いた。辺りには誰の姿も見えない。それでも声を潜めてしまう。
「そうだね」
僕は頷いた。
エミリーがこの町を出て六ヶ月ほどが過ぎた頃、彼女はもうここへは戻ってこないのかもしれないと誰しもが思い始めた。それと同時にこの町の住民は、これまで無責任な噂ばかりを垂れ流してきた口をつぐんだ。今は誰もが静かな後悔と祈りの中にいる。傷付けてしまった少女の魂がいつか救われることを願って。
人は生まれてくる場所を選べない。ましてや子供には、どこで暮らしていくべきか選択肢など与えられない。生まれた家や肌の色でその人間の本質など分かるわけがない。そんなことは皆知っているはずなのに、過ちは繰り返されていく。
ふと、エミリーと話した最後の言葉を思い出す。
「いったい私が何をしたの?」
それは、旅の後の孤独な日々で僕が何度も呟いた言葉と同じだった。きっとエミリーは、自分という人間を誰かに知って欲しかったんだろう。フィンチャー家の一員としてではなく、十五歳の女の子である本当の自分を。でも僕は幼な過ぎて、そんな彼女の叫びにも気付かずにいた。今ならば、エミリーの苦しみや悲しみを受け止めることが出来るのだろうか。いいや、僕なんかじゃ幾つになったって、あの頃のエミリーに辿り着けやしない。
フィンチャーの家を見つめていた僕の肩にジェシカの手が置かれた。彼女は身を乗り出し、僕の視線の先へ顔を向ける。
「誰か友達の家? もしかして、昔のガールフレンド?」
ジェシカはからかうような悪戯っぽい視線を向けてきた。僕はその顔に弱いんだ。それはどこかアリーを思い出させる。
アリーとはあれから一度も会っていない。僕は運転免許を取った次の夏休みに彼女に会いに行こうと思い立った。記憶だけを頼りに車を走らせたけれど、結局アリーのトレーラーハウスに辿り着くことはなかった。その後、彼女が勤めていたレストランを調べようと試みたが、『サニーディ』は中西部だけで数十ものチェーン店があり、どこの店なのかを特定することができずに諦めた。彼女と僕の人生が交わることは、もう二度とないのかもしれない。そう考えると悔しいけれど、一生のうちにそんなことは幾らでも起こるんだ。
目を逸らしがたい魅力的なジェシカの笑顔からフィンチャーの家に視線を移した。元農場の入口にコートを着込んでスクールバスを待つエミリーの姿が見えたような気がする。この胸を締め付ける思いを閉じ込め、掠れてしまった声で僕はジェシカの問いに答えた。
「そうじゃないよ。そうだな、彼女は戦友っていうか……共犯者みたいなものかな」
ジェシカは瞬きをして不思議そうな顔をした。
「何それ? 何か……普通に元ガールフレンドだって聞くより意味深な感じがするわ」
「そのうち話してあげるよ」
僕は車のエンジンを掛けた。
「さあ、もうすぐだ。もうウォルター達も着いてるはずだから、子供達がクリスマス・プレゼントを待ってるよ」
「やっと双子ちゃんに会えるのね。楽しみだわ」
四歳になったウォルターの子供達を僕が携帯電話の待ち受け画面にしていることをジェシカは知っている。はしゃぎ出した彼女の頬にキスをすると、僕は家に向かって車を走らせた。バックミラーの中で次第に小さくなっていくフィンチャーの家に時折目を遣りながら。
境遇とか、色々なしがらみなんかでがんじがらめの生活の中。それでも自分自身を大切にしなければいけないと言うのなら、あの時僕とエミリーがしたことを誰が責められるだろう。
エミリー、ちっとも好きじゃなかったし、今でもそれは変わらない。だけど、やっぱり胸が痛いよ。
エミリー、君がまだグレアムと一緒にいるとは思えない。それでも、どこで誰と一緒だとしても、僕は君の幸せを願ってやまない。
エミリー……
了
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