2.身に覚えのない噂
一つ訂正しておくと"耳にした"と言うよりかは、現在進行系で耳にしている、という感じである。
「え、あの、数年前にヴァレット侯爵家の次男の方と婚約破棄されたっていう…?」
「そうそう!ジェラール様がレベッカ様の悪口を言いふらして広めていたでしょう?それで、どうなることかと言われてたけど、お相手が見つかったのね〜」
「レベッカ様、長らく社交界でもお見かけしていないけど、お相手はどんな方なのかしら」
「さぁ…でも、今の年齢でご婚約となると、ねぇ…」
やめてほしい。何なんだその話は。
そんな見ず知らずのご令嬢方のお話を背に、私はそっとカフェテリアをあとにした。
まさか、昼休憩に立ち寄ったカフェで、身に覚えのない自分の噂を耳にすることになるとは。
休憩するどころか、倍ほど疲れた気持ちである。
それでも、話に出ていた「ジェラール」は、紛れもなくあの男の名前だし、「レベッカ」は私の"本名"だ。
長く社交界に出てないのも本当だし、婚約破棄してジェラールが私の悪名を言いふらしているのも、想像がつく。
だがしかし。
(私、結婚するの…!?誰と!?)
あまりにも身に覚えがなさすぎる。
そもそも、正直なところ、あの父が家出をした私をずっと放っておくとは思っていなかった。
どれだけ名前を隠し、身分を隠し、変装をしていたとしても、侯爵家のコネクションを使えば、今ももちろんのこと、私の居場所などは容易に割れるだろう。
家出をした当初は、どうせすぐに引き戻されると思っていたのだが、思いとは裏腹に、何年経っても直接的な接触はなかった。
そのため、父も母も、私を引き戻すことは、もう諦めたのだと思っていた。
(どうしましょう、家に書簡でも送ったほうがいいかしら?でも、それで私から連絡を取るのも少し癪ね…)
というか、よくよく考えたら"ヴァレット侯爵家のご令嬢"という名目だけであれば、私が出たあとに養子を取った、などかもしれない。
噂が独り歩きをしすぎた結果、養子と私の噂が混同しているのかも。
それに今は、私のかねてからの念願だったあの法律──
『男児しか家督を継げない法律』
が、改法されようとしているのだ。
私がその改正に直接大きく関わった訳ではないが、私達の部署の活躍も一助とはなっていた。
だからこそ、改法までは、どうしても私もここに残りたい。
そんな気持ちが強かった。
(…まぁ、本当に私が必要なときには、向こうから連絡してくるでしょう)
どうせ私の居場所は把握されているだろう。
そうでなかったら────言い方は悪いが、母がとっくに倒れていると思うし。
そんなことを考えながら仕事を処理していたからか、"定時退勤のレヴィ"と言われし私が、いつもよりも退勤時間が遅くなってしまった。
一生の不覚である。
ちなみに「レヴィ」と言うのは、私のここでの名前だ。
家出をしたときに咄嗟についた偽名がこれで、今考えると、
レベッカからレヴィという大変安直なものではあったが、
今の所、誰からも指摘はされていないので良しとしようと思う。
慌てて書類をまとめ、小急ぎで片付けて退勤をしようと机を片付ける。
今日は少し高い食事をして、家に帰ってゆっくり休もう。
そう思っていたのに───なぜ今日に限って、面倒事が降ってくるのだろうか。
後ろから、聞き覚えのある声に名前を呼ばれている気がした。
「お疲れレヴィ。今日は珍しく遅くまで残ってるんだな」
「…」
「おーい、無視すんなよ」
「無視してるんじゃなくて、返事をしてないだけよ」
「それを無視っていうんだけど?」
全く気にする様子もなく私の向かいに立って来るこの男は、ニコラスという。
見目も良く、文官の中ではトップの役職である次期宰相候補とも言われながら、剣の腕も立つという噂の、いわゆる"完璧"な男。
…なのだが。
以前、偶然知り合って以降は何かにつけて私に絡んでくることが多く、私にとっては、ただの面倒くさい男、という印象だった。
私の所属する部署とは離れた場所に自前の執務室を持ち、業務だって直接関わることは少ないのに、なんでわざわざ私に用があるんだろうか。
ただこれでも、私達文官のトップに近い立場の人間なのだ。
無下に追い返すことはできないことがもどかしい。
「…コホン。あらニコラス様、ごきげんよう。御用がないならそこを開けていただいても?」
「ははっ、それでやり直しってこと?レヴィはいつも面白いな」
「なんのことでしょう。どいてくださいますか?」
「残念ながら御用があるから、ここに足を運んでるんだよな。このあと時間をもらっても?もちろん、残業手当はつけるからさ」
「…業務に関することなら勤務時間内で声をかけてくれない?あと、お金で釣らないで」
「でもこうやって言ったら来てくれるだろ?」
ニコラスは、悪びれることなくにっこりと笑い、私の荷物と私の手を取りそのまま歩き出した。
「ほら、行くぞ。では皆様、失礼しました。レヴィお借りします。お疲れ様でした」
「あ、ちょっと!待ってって…もう!皆様、お疲れ様でした!」
ニコラスが突然来ることに慣れてきた同僚たちは、いつものことか、と、少し生暖かいような目線を送ってくる。
どうあがいてもそんな訳はないのに。
(何なのもう!今日はさっさと帰って寝たかったのに…!)
そんなことを考えながら腕を引っ張られて連れて行かれた先は、ニコラスの執務室だった。




