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第十話

風は音もなく、霧の中を静かに通り抜けていく。

深い谷間に潜む町──《エルヴェス》は、まるで世界から色を吸い取られたかのように、白と灰色の世界だった。


石畳の道も、屋根の瓦も、人々の服も、みな色彩を失い、ただ淡く沈んだ陰影だけが存在している。

朝とも昼ともつかない曇り空は重く垂れこめ、太陽も星も見えなかった。


ミリアの足音だけが、冷え切った空気のなかでかすかに響く。

道行く人々は彼女をちらりと見ても、すぐに目をそらした。言葉も笑顔もなく、誰もが色のない世界の中で静かに生きている。


道行く人々は彼女をちらりと見ると、すぐに視線を逸らした。

その目には、どこか警戒しているような雰囲気が感じ取れる。


この町は、色を失っただけではない。

その静けさの奥に、深い痛みと恐れが潜んでいるのだと、ミリアは感じていた。


その時、背後から低い声がした。


「余所者か」


振り返ると、そこにいたのは黒く刈り込まれた髪の男だった。

鋭い灰色の瞳がミリアをじっと見つめている。


「ここはエルヴェス。色を忘れた町だ。余所者が色を持ち込むことは許さない」


彼の言葉は冷たく、けれどどこか切実さを帯びていた。


ミリアは少しも怯まず、静かな声で答えた。

「私は外から来た者です。色を持ち込もうとは思っていません。ただ、この町のことを知りたくて…」


ヨルンの目が一瞬、わずかに軋んだように見えた。

「知る?知って何になるというのだ。ここは色を忘れ、痛みを封じた場所だ。余所者が来るような場所ではない」


彼は言葉を続けながら、ミリアの服の裾に目をやった。

「...その身に、かすかな色が見える」


ミリアは自分の手を見つめた。

確かに、彼女の指先には外の世界のわずかな色が残っていた。

鮮やかな青、深い緑、そしてあたたかな橙色。


「これは…私が今までの旅で受け継いできた人の"想い"です」


ヨルンはその言葉に一瞬、声を荒げかけたが、すぐに口を閉じた。

「この町に色を持ち込むことは、災いを招く。お前が何者であろうと、ここに長居するな」


彼の声は冷たかったが、どこか内面に葛藤が見え隠れしていた。


ミリアは頷き、無理に笑みを作った。

「分かりました。でも、少しだけ、この町を歩かせてください」


ヨルンはため息をつき、厳しい目で彼女を見送った。

「ただし、決して画布には近づくな」



*



ミリアはゆっくりと石畳の道を進んだ。

周囲を見渡すと、建物の壁はすべて白と灰色に染まり、色彩は完全に消えていた。

屋根の瓦も、窓枠も、まるで時間が止まったかのように冷たく静かだった。


木々の葉はすでに落ち、幹だけが霧の中で細く揺れている。

川の水は澄んでいるとは言い難く、薄く濁っていて、その色は周囲の灰色に溶け込んでいた。


通りの向こうで、小さな子どもたちが無言で遊んでいる。

だが彼らの顔には感情が無く、まるで何かを忘れてしまったようだった。


ミリアは自分の足元の影に目を落とした。

自分だけが、かすかな色をまとっていることを実感しながらも、どこか孤独を覚えた。


「本当に…この町の全ての色が失われてしまったみたい...」


そうつぶやきながら、彼女はさらに進み、やがて町の中央にある広場へとたどり着いた。


そこには大きな白い画布が、静かに置かれている。

それは光さえも反射しないような、不思議な純白だった。

誰もが近づこうとしない、その画布は町の人々の痛みと恐怖を象徴しているかのようだった。


ゆっくりと手を伸ばし、ミリアは画布の表面に触れた。

冷たく滑らかな感触の向こうから、淡く微かな"想い"が波のように伝わってきた。


それは、かつてこの町にあふれていた色彩と喜びの記憶。

笑い声、暖かな光、そして優しいぬくもり。


しかし同時に、悲しみや喪失も混じっていた。

人々が色を手放した痛み、忘れようとしても消えない記憶の重さ。


ミリアの胸に熱いものが込み上げる。

彼女の中に秘められた“色”が、画布の白を淡く染め始めたのだった。


その色の波紋は、遠くから見ていた町の人々の視線を引き寄せる。

ざわめきが広場に広がり、数人が足を止めて画布を見つめた。


その中心に立つミリアの目は画布に向けられ、まるでその"想い"と対話するかのように静かだった。


すると、遠くから強い足音が響いてきた。

ヨルンが厳しい表情で走り寄り、声を張り上げた。


「余所者が町の掟を乱すな! それは災いの種だ。すぐにやめろ!」


ミリアはゆっくりと振り返り、彼の視線をじっと受け止めた。


「この色は、災いなんかじゃない。忘れたくない誰かの想い。消してはいけない物なんです」


ヨルンの表情が一瞬だけ揺らぐが、すぐに冷たい言葉が返ってきた。


「分からんのか。色は痛みを呼ぶ。町を守るために、我々は色を捨てたんだ。お前のためじゃない、町のためだ」


広場の人々は静まり返り、冷たい空気に包まれた。


そのまま、ヨルンの命令でミリアは強制的に近くの小屋へと連れて行かれた。



*



小屋の中は薄暗く、外の霧と同じように冷たく静かだった。

扉が閉ざされると、外の世界のざわめきは遠のき、ミリアは一人だけの時間に包まれた。


しばらくして、静かな足音が聞こえた。

小窓から、灰色のショールをまとった老人、セヴィアがそっと顔を覗かせる。


「あなたがミリアさん……ね?さっきはごめんなさいね、助けてあげられなくて...」

その声は柔らかく、どこか懐かしい響きを含んでいた。


ミリアは小さく首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。でも、この町のことを知りたい。色を忘れた理由を」


セヴィアはゆっくりと話し始めた。

「かつてここは色に満ちていたのよ。喜びも、悲しみもすべてが鮮やかにあった。けれど……ある日、すべてが変わってしまったの」


その言葉に、ミリアは胸の奥で何かが震えるのを感じた。


「色は痛みを呼ぶ……でもね、それは生きていた証なのよ」


セヴィアは遠い目をしながら続ける。

「私は若い頃、画家だった。町が変わる前のことを、あなたに伝えられる数少ない者よ。ここを出たら、私の家に来てちょうだい」


ミリアはその言葉に、静かな希望の灯りを見つけたような気がした。



*



灰色の空の下、小屋の扉がようやく軋んだ音を立てて開いた。

閉じ込められてから、何日が経ったのだろう。


ミリアはゆっくりと一歩を踏み出す。乾いた風が頬を撫で、閉ざされた空気とは違う、どこかほっとする冷たさを含んでいた。


あの夜──セヴィアが小窓越しにささやいた言葉が、今も胸に残っていた。


その声に導かれるように、ミリアはセヴィアの家を訪れた。


セヴィアは無言で迎え入れ、奥にある細い木箱を指さした。


「……あの日からしまったままだったけれど、あなたなら、きっと」


ミリアは膝をつき、そっと蓋を開けた。中には筆や絵皿、色の抜けた絵の具瓶がいくつも並んでいる。


ひとつ、筆を手に取った瞬間、胸の奥に微かな熱が灯る。

柔らかな光景が浮かんだ。

若い頃のセヴィアが、誰かの笑顔を描いている。

手の中から伝わってくるのは、懐かしさと、切なさと、確かにそこにあった想いだった。


ミリアは目を伏せ、そっと息を吐いた。

「…昔は、この町もこんなに暖かい場所だったのに…...」


セヴィアは小さく頷き、微笑んだ。

「色は心の奥に潜んでいるの。誰かに気づかれるのを、ずっと待っているのよ」



*



翌朝、ミリアは静かに広場へ向かった。

早朝の町はまだ眠っているようで、人影もまばらだった。


灰色の石畳を踏みしめながら、彼女は記憶をたどる。

あの日、画布に触れた瞬間に感じた誰かの想い。

それは確かに、この町にまだ色が残っていることを教えてくれた。


広場の中央に、それはあった。

色のない、大きな画布。

まるで長い眠りについていたかのように静かにそこにあった。


ミリアは迷いなく歩み寄り、指先をそっと添えた。

その瞬間──


また、流れ込んでくる。

誰かが絵筆をとり、夢中で描いていた日々。

笑い声、陽の光、寄り添う影。

そして、いつか訪れた喪失の気配。


指先から、じわりと色が滲んだ。

まるで画布が呼吸を始めたように、色彩が少しずつ浮かびあがってゆく。


ミリアは息をのんだ。


まるで、誰かが彼女の手を通して語りかけてくるようだった。


やがて、広場の奥から足音が聞こえた。

人々が、そっと様子を見に来ていた。

その目に、わずかな驚きと、揺らぎが浮かんでいた。


そして──鋭い足音が、それを打ち消すように響いた。


ヨルンだった。


「やめろ!」


彼の声が広場に裂け目を走らせた。


その声に、ミリアはゆっくりと振り返った。

ヨルンが広場に踏み込んでくる。足元の石畳を鳴らしながら、真っ直ぐに彼女の方へ向かっていた。


「それに触るなと……何度も言っただろう」

彼の顔は怒りと、そして何よりも恐れに染まっていた。

「色が...全てを壊したんだ」


ミリアは、しばしその言葉を受け止めた。

だが、その背後では、画布に咲いた色たちが、なおも静かに呼吸を続けていた。


「お前は何も知らない。ここで何があったのか、どれだけの人が……!」


ミリアは一歩、彼の方へ歩み寄った。

「じゃあ、どうしてその絵を……この画布を、あなたたちは今も捨てずにいたのですか?」


ヨルンは言葉を失った。

まるで、そこにあるものの意味を、今さら突きつけられたかのように。

その間にも、淡い光をまとった色彩は、画布の表面から広場の空気へとじわじわ広がっていく。


人々は言葉も出せずに立ち尽くしていた。

けれど、その目には揺らぎがあった。


ヨルンの唇が震えた。

「……町を、守らなければならなかったんだ。忘れさせるしか、なかった……」


ミリアは、そっと手を胸に当てた。

「色は、消せません。どれほど痛くても、それは生きていた証です」


そして、ふと風が吹いた。

誰かがそっと、息をついたような風だった。

それに押されるように、ヨルンは数歩前に進み──視線を、画布へと落とした。


そこには、懐かしい絵が、かすかに浮かび始めていた。


画布の上に滲んだ色──それは、柔らかな陽の光を受けて広がる草原だった。

その中心に、小さな影。

風に揺れるスカート。花冠。

見間違えるはずもない。

それは、かつてこの町でヨルンが愛した人の姿だった。


「…あれは……」


ヨルンの声がかすれる。

膝が震え、その場に崩れ落ちた。

指先が無意識に宙を掻くように伸びた。しかし、触れることはできない。

ただ、その姿を見ていた。



やがて、画布の中の影が微かに動いたように思えた。

否、それは記憶の中で、今も生きている“想い”が、ヨルンの心に呼びかけたのだ。


──忘れないで、私の色を。

──あなたと共に過ごした日々を。


「……すまない……」


ヨルンの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

頬を伝って、地へと染みていく。


「忘れたくなくて……でも、忘れなきゃ前に進めないと…本当は君を......」


声にならない言葉を呟きながら、ヨルンは両手で顔を覆った。

町を覆っていた灰色の霧が、わずかに揺らぐ。


ミリアは、彼に背を向けて歩き出す。

色づいた画布と、立ち尽くす人々を背に、町の通りを抜けていく。


誰も彼女を止めなかった。

足音だけが、静かな通りに響いていた。



*



小屋の戸を叩く音がしたのは、穏やかな午後のことだった。

外に出られるようになってから数日、ミリアは静かな時間を取り戻しつつあった。戸を開けると、そこに立っていたのはヨルンだった。


「...少し、話がしたい」


声は低く、かすかに震えていた。

ミリアは黙ってうなずき、彼を中へ招いた。


焚き火の薪が、ぱちり、と音を立てて爆ぜた。

ヨルンは椅子に腰を下ろし、帽子を手に握ったまましばらく黙っていた。


「まず……謝らなければならない」

ようやく絞り出すように言葉が出た。

「あの時、君に向けた言葉も、態度も……全部、私の臆病さからだった」


ミリアは、そっと彼の方を向いた。表情に怒りはなく、ただ静かに耳を傾けていた。


「十五年前、この町は色を失った」

「原因は──私の妻、エレナだった」


ミリアの口が、かすかに開く。けれど彼女は、言葉を挟まずに待った。


「エレナは、描いた絵に想いを宿す力を持っていた。町の人々は彼女の絵に癒され、喜んだ。だが……彼女が描いた最後の絵、それは息子を亡くした母親の姿だった。あまりに強い哀しみを映したその絵は……触れた人の心を揺さぶりすぎた」


火の揺らぎが、ヨルンの頬に陰影を落とす。


「その絵に触れた少年が、亡くなった姉を思い出して取り乱した。そして……その子が落とした灯火が火を招いた。町の一角が焼け落ち、絵も、エレナも……」


彼の声は、途切れた。


ミリアは手をそっと膝の上に置き、目を伏せた。

見えないその目が、痛みを感じ取るように、わずかに潤んでいた。


「……愛していたのですね」

「奥さまを」


その言葉に、ヨルンは小さく頷いた。

「私だけでなく、町のみんなも、彼女を愛していた。けれど、同時に……あの力を恐れた」



「でも……あなたの中に残っているのは、恐怖ではなく、今もその方を思う気持ち。私には、それが感じられます」


ヨルンははっとしたように目を見開き、目元を押さえた。


「君は……彼女と似ているのかもしれない。優しさの根にある、強さが」


「私はただ、触れた想いを受け取るだけです」

ミリアはそう言って、少し微笑んだ。


焚き火の音だけが、小屋の中に響いていた。

けれどその静寂には、かつて失われた色の気配が、確かに戻ってきていた。





「……あの広場にあった真っ白な画布に触れた時のことを、君は覚えているか?」


焚き火の火音が、ぴたりと止まったように感じられた。

ミリアは小さくうなずく。


「あれは……エレナの姿が描かれていた絵だったんだ。絵が引き起こした混乱の後、町はエレナの描いた絵を全て処分するよう求めた。だが、あの絵だけは...誰一人破ることはできなかった。エレナの魂が宿っているようで……誰も触れられなかった」


ヨルンは、手を組みながら言った。


「だから私が……白く塗り潰した。エレナがいたという事実だけを、そこに残すために」

「絵は見えなくなったが、あの場所に彼女の痕跡はある。色を失ったこの町で、せめて、誰かが忘れぬようにと……」


ヨルンは細々とした声で話し続ける。


「君が触れた後、彼女が……あの色が、まるで時を巻き戻すように、浮かび上がった。まるで……エレナが、君を通してこの世に帰ってきたみたいだった」




しばらく沈黙が続いた。


 ヨルンは膝の上で拳を握りしめたまま、何かを押しとどめるように俯いていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。


「……私は、ずっと間違えていたのかもしれない」


 その声は弱々しく、掠れていた。


「色が災いを呼んだのではない。私たちが、それに蓋をしたことが……エレナが残した想いすら閉ざしてしまったのかもしれないな」


 彼は扉の方へ向かい、手をかけたところでふと振り返った。


「……ありがとう。君のおかげで、この町は少しずつだが、色を取り戻していける気がする」


その言葉には、強い希望が宿っていた。


「エレナもきっと……君に感謝している」


そう言って、ヨルンは扉を開け、霧の町の中へゆっくりと消えていった。


残されたミリアは、静かにその背を見送る。

彼の足取りは、以前よりわずかに軽く見えた。



*



朝靄がやわらかく町を包む中、ミリアは小屋の前で荷を整えていた。

小さな鞄と、杖代わりの木の枝。それだけが、旅の連れだった。


その時、軽やかな足音が近づいてきた。

振り向くと、セヴィアが一輪の花を手にして立っていた。

その花は、色を持っていた。淡い紫──この町で、長く見られなかったはずの色。


「ミリアさん、もう行くのね」


ミリアは小さくうなずいた。


「ええ。ここにあまり長く留まってはいられないので……」


セヴィアはそっと花を差し出す。


「これは、昔この町で咲いていた花。もう失われたと思っていたけれど……この数日で、また芽吹いたのよ。きっとあなたが、町に色を取り戻してくれたから」


ミリアは両手で丁寧にその花を受け取った。

指先にふれるたび、小さな温もりが伝わってくる。


「ありがとう、ミリアさん。あなたが来てくれて、本当に良かった。言葉にできない痛みも、悲しみも、あなたは感じ取ってくれた……それだけで、救われる人がいるのね」


ミリアは少しだけ恥ずかしそうに微笑んで、花を胸元に留めた。


「私は、ただ触れただけ。けれど、それで誰かの心を動かせるなら……それ以上に嬉しいことはありません」


セヴィアは静かにうなずき、視線を空へ向けた。


「霧は、きっと晴れていく。ゆっくりとでも。だからあなたも、どうか無理はなさらずに。世界の色は広く、深く……そして、優しくもあるから」


その言葉を胸に抱きながら、ミリアは歩き出す。

色を携え、想いを伝え、また新たな場所へと向かっていく。




──色を失った町、エルヴェスに、朝の光が差し始めていた。

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