第九話
風が静かに揺れる夜だった。
足元を包むのは、しっとりとした苔と、砕けた石畳。街路樹の影が細く長く伸び、古びた街並みに音もなく沈んでいる。誰の足音もないはずのその街に、かすかな旋律があった。
それは笛の音のようでもあり、誰かの口ずさむ子守唄のようでもあり──そして、ミリアにははっきりと聞こえていた。
「……誰か、歌っているの?」
銀糸のような髪が夜風にゆれる。閉じられた瞳は、その音を心で“視て”いた。
音は冷たくも、温かくもあった。遠い昔に誰かが失くしてしまった記憶が、静かに夜の中で舞っているような、不思議な旋律だった。
この街は、かつて「音楽の都」と呼ばれていた。
《リュカニア》。
歌と楽器と物語の都。
大地に響く音を神に捧げ、旅人を迎え、物語を語り継ぐ街だった。
人々は日ごとに演奏し、通りには楽師や語り部が集まり、空にまで届くような祝祭が営まれていたという。
しかし、ある日を境に音は消えた。
ある日突然、音の神を祀る神殿が崩れ落ちたという。原因は定かではない。けれど、それを境に、楽器は鳴らず、声は響かず、祭は終わり、人々は静かにこの地を去っていった。
──すべての音が、忘れ去られた。
ミリアは音を追い、崩れかけた街の中心──ひときわ大きな石造りの劇場跡に辿り着いた。
その中央、崩れた柱の間に座っていたのは、一人の老人だった。
白い外套をまとい、背を丸めて、古びた弦楽器を静かに奏でている。
その旋律は、どこか悲しく、それでもなお誰かを待っているようだった。
「……あなたが、この音を……」
声をかけても、老人は返さない。ただ指先を動かし、音だけを奏で続けている。
ミリアはそっと近づき、楽器の響く木に触れた。
──途端に、世界が変わった。
視えないはずの景色が、心に流れ込んでくる。
笑い声、拍手、誰かの歌声。通りを彩った花、市場に響いた太鼓。
音が想いを宿し、時を越えて彼女の内に溢れた。
「これが……この街に、眠っていた想い……」
老楽師の手が止まった。彼の顔には深い皺が刻まれていたが、その目には涙のような光が浮かんでいた。
「あなたは、ずっとここで……?」
老人は口を開こうとするが、声が出ない。
喉に触れ、何かを伝えようとするように。けれど、どこまでも無音のまま。
ミリアの胸に、やがて理解が訪れる。
(この人は……人ではない)
この街の音が失われた時、想いだけが残された。
音楽を捧げていた誰かの祈り、音を愛し、語り継ごうとした願い──それが形を得て、ここに留まっていたのだ。
けれど、彼には声がなかった。人ではない彼に、歌うことはできなかった。
ただ楽器の音に祈りを込めて、いつか誰かがこの場所を訪れ、もう一度“音”が満ちることを。ただ、それだけを願って。
ミリアは静かに口を開いた。
「だったら、わたしが……歌います。あなたが待っていた“音”として」
心を込めて紡ぐ旋律。言葉にならない記憶たちが、その声に導かれるようにして、劇場を満たしてゆく。
風が光を運び、壊れた椅子や柱の間に、幻の観客たちが微かに浮かび上がった。
かつてここに生きていた人々の想いが、音とともに共鳴している。
ふと、老楽師の手が止まった。その目が、ゆっくりと潤んでゆく。
「……ありがとう。やっと、還ってきた……」
そして──その姿は、風に溶けるようにして、音とともに夜空へと昇っていった。
夜は静かに明けてゆく。音は止み、風が街の石畳をそっと撫でる。
けれど確かに、そこにあった。
音が繋いだ、想いの記憶が。
そしてミリアは、再び歩き出す。
忘れられた音の街を後にして。




