09. 王子の報告と親心
茜色の西陽が静かに差し込む、王城のサロン。
立ち上る紅茶の湯気の向こうで、茶会から戻ったばかりの国王夫妻とアヴィが向かい合っていた。
「それで、アヴィ。今日の茶会はどうだったのだ? 婚約者に望む娘は見つかったか?」
ソファで寛ぐ父王が、どこか諦め混じりの笑みを浮かべながら尋ねる。
数々の名門貴族の令嬢が集まったものの、これまで誰一人として息子の心を動かした者はいなかった。今日もどうせ「特に何も」「お任せします」などと、つれない言葉が返ってくるのだろう――そう思っていた夫妻の前に、アヴィは静かに紅茶のカップを置いた。
「特には……いつも通りですよ。……ただ」
アヴィは一瞬だけ言葉を区切り、窓の外の夕焼け空に視線を投げた。胸の奥で、あの白金の髪と、夕陽に透けるような静かで強い紫の瞳が鮮やかに蘇る。
「一人だけ、とても印象深いご令嬢がいました」
その一言に、両親の身体が跳ね上がった。
二人は顔を見合わせ、言葉を失う。あのアヴィが、自ら特定の令嬢に言及するなど、初めてのことだったからだ。
「……そ、それは……どこの家の娘だ?」
食い気味に身を乗り出す父に、アヴィはふっと、どこか思い返すような小さな笑みを浮かべた。
「グランドール公爵家の、フィーネ嬢です。……飲み物を零して泣いていたレイアを当然のように助けてくれていたのです。その後、お礼に庭を案内していたのですが、その時も学問や本の話が通じて話していて心地良いというか……不思議と、もっとお話ししていたいと心が躍るような時間でした」
アヴィにとっては、ごく客観的な事実を口にしたに過ぎなかった。とはいえ、この場で彼女の名を挙げることが何を意味するのか分からないほど、アヴィも子供ではない。
「もし、今誰かを婚約者に選ぶなら――彼女以外に思いつきません」
はっきりと自分の意思を述べるアヴィに、両親は重々しく頷くかと思えば、その受け止め方はまるで違った。
「あのいつも淡々としていて、誰にも興味を示さなかったアヴィが……『話していて心地良かった』だと……!?」
「まあ……! あのプラチナブロンドの髪がとても美しいフィーネ嬢ね! アヴィが自分から女の子を褒めるなんて……世界がひっくり返るような驚きだわ!」
「……父上、母上、大袈裟です」
アヴィの呆れ顔など、興奮状態の夫妻の目には入っていなかった。
「あなた! 何をぼやぼやしているの! アヴィが自分から『あの子がいい』と言ったのよ! 他の家に先を越されたらどうするの!」
「分かっている! グランドール家の……あのジェラルドの娘であれば安心だ。よし、明日すぐにグランドール邸へ打診に向かうぞ!」
「お待ちください、父上。明日だなんて、あまりに急すぎて迷惑では――」
アヴィの制止も虚しく、すでに国王夫妻は明日の訪問計画と贈り物の手配で頭がいっぱいになっていた。
淡々と事実報告と意思表明をしただけのつもりが、まさかここまでの騒動を引き起こすとは思ってもみなかったアヴィは、静かにため息を吐くしかなかった。
(……だけど……)
せっかちな両親の深い愛情に苦笑しつつも、その胸の奥には、明日またあの少女に会えるかもしれないという名前のつかない期待が芽生えていた。
◇◇◇
王妃主催の茶会の翌日。
グランドール公爵邸の朝は、静寂を切り裂く怒号とともに破られた。
「――王城からの通達だと!?」
執務室で朝の書類に目を通していたジェラルドは、青ざめた顔で駆け込んできた執事の手から、弾かれたように封筒をひったくった。
裏面に施されている、見紛うはずもない王家の紋章――重厚な黄金の封蝋を目にした瞬間、指先が微かに震える。
手早く封を切り、中に目を通したジェラルドのモノクルの奥の瞳が、限界まで見開かれた。
『本日午前、国王夫妻ならびに第一王子アヴィ殿下、グランドール公爵邸へお成り――』
「馬鹿な……っ、本日の午前だと!?」
昨日の今日である。それも使者を寄越すのではなく、国王夫妻と第一王子が「揃って直々に訪問する」という、聞いたこともない異常事態だった。
(一体何があったのだ!? フィーネが……フィーネが何か不敬をしでかしたとでも言うのか!?)
昨日の夕食の席で、娘が「第一王子殿下に庭園を案内していただきました」と控えめに語っていた姿が脳裏を過る。
あの時はただ、公明正大な殿下が幼い娘のこともほかのご令嬢たちと同じ様に親切に扱ってくださったのだろうという程度に考えていたのだ。
(まさか、フィーネが何か粗相を……? いや、あの子に限ってそれはない。だが王家の逆鱗に触れるような何かだったとしたら……!? いや待て、それなら騎士団が来るはずだ。国王夫妻まで揃って来られるなど――もしや、『あの話』なのか? だが、いくらなんでも早すぎるだろう……!?)
昨日の茶会が、名目上は交流会であっても実質的には「第一王子の婚約者選びの場」であったことなど、ジェラルドには百も承知だった。
だが、フィーネはまだ八歳。兄を失い、傷ついている娘にこれ以上余計な負担を与えたくなくて、あえてその事実を伝えずに参加させたのだ。目立たずにおとなしくしていればあえて選ばれることもあるまい――そう思っていた。
まさか、その翌朝一番に王家の面々が訪れるなど、誰が予想できるだろうか。
(……まさか本当に、あの神童と名高いアヴィ殿下のお眼鏡に、うちの娘が叶ってしまったとでも言うのか)
どちらに転んでも、絶望的な予感しかしない。
ぐしゃりと髪をかき上げ、天を仰いだジェラルドの元へ、騒ぎを聞きつけた妻のリリアナが胸を押さえながら駆け込んできた。
「あなた、一体どうなさったのです!? 朝からそんな大声を出して……」
「リリアナ……これを見ろ。両陛下と第一王子殿下が、まもなく我が邸へお越しになる」
「え……? 両陛下が……? そんな、何の予告もなく……?」
書状を目にしたリリアナもまた、さぁっと顔から血の気を引かせ、その場にへたり込みそうになった。
長男のエリオスを亡くし、残されたフィーネだけは何としても平和に、静かに守り抜きたいと誓ったばかりなのだ。それなのに、突如としてこの国で最も巨大で抗えぬ波が、愛娘を呑み込もうと押し寄せてきている。
「とにかく時間がない! 執事、今すぐ応接間の準備をさせろ! 全館のメイドを集めて掃除だ! 厨房には最高の茶葉と菓子を用意させろ!」
「は、はいっ! ただちに!」
「リリアナ、フィーネを着替えさせるんだ! 粗相のないよう、一番上質なドレスを!」
普段は冷静沈着で知られる公爵の怒号が響き渡り、静まり返っていた公爵邸は一瞬にして戦場のようなパニックへと叩き落とされたのだった。
◇◇◇
バタバタと慌ただしい屋敷内の喧騒で目を覚ましたフィーネは、不安そうな表情を浮かべて、傍らの専属侍女のジーラを見上げた。
「ジーラ? 何かあったの?」
「さあ……私もまだ詳しいことは。とりあえず、着替えを済ませて食堂に降りましょう」
そうして何故か外出用のドレスを着せられ、フィーネは不安そうな表情のまま階下に降りた。食堂に入ると父と母が立ったまま話しているのが目に入った。
「お父様、お母様」
「……ああ、おはようフィーネ」
「よく眠れた?」
困惑した表情を浮かべている両親にフィーネは一つ頷く。
「それより、何かあったのですか?」
「ああ……。フィーネ、昨日第一王子殿下に庭を案内してもらったと言っていたな」
「? はい」
確かにそんなことを夕食の時に両親に話したので、フィーネはまた頷いた。
「その時に何か言われたか?」
「何か……?」
「そうだ、例えば……」
ジェラルドが言いかけたところで、執事が部屋に飛び込んできた。
「王家の馬車がご到着です!」
「もう来たのか!?」
「え、あの、お父様?」
困惑するフィーネが引き留めるように声をかけるが、彼は扉に向かいながら振り返る事もなく告げた。
「すまないが、話している時間はない! 両陛下と殿下がお越しになっている」
「は?」
「私たちは両陛下をお迎えせねばならん。フィーネ、殿下の相手は任せたぞ、粗相のないように!」
「え?」
焦って飛び出していく両親の後ろ姿を、フィーネは見送るしかなかった。
(……両陛下と……殿下が……お越しになっている……? 何のために……?)
状況が全く分からず、フィーネが隣に立つジーラを見上げると、ジーラもまた緊張したように表情を強張らせていた。
まもなく、残されたフィーネの前に、執事に案内されてアヴィが姿を現した。昨日見たばかりの眩い金色が、現実感もないままにそこにあった。
「こんにちは、フィーネ嬢」
「あ、ええと……はい、ようこそいらっしゃいました。殿下」
にこりと微笑んで挨拶の言葉を口にするアヴィに、弾かれたようにフィーネも微笑み、スカートの裾を持って優雅に頭を下げる。
(……いけない、私は公爵家の令嬢なのだもの。状況はよく分からないけれど……きちんとおもてなしをしなくては)
フィーネは冷静さを取り戻そうと、頭を下げたまま静かに息を吐いた。
「突然訪ねてしまってすまない。父上たちが急に行こうと言い出して……。でも……私も、もう一度君に会いたかったから」
「……はい?」
意図の読み取れないアヴィの発言に、フィーネは再び首を傾げた。




