07. 消えない瞳
王城の一角にある日当たりの良い私室。窓から差し込む春の柔らかな光が、整然と並べられた調度品と、卓上のチェス盤を優しく照らしていた。
静寂に包まれた室内に、時折コツンと木製の駒が盤を叩く軽い音だけが響く。
対局相手を務める侍従見習いのウィリアムの手元を、第一王子アヴィ・シルベスターはただぼんやりと眺めていた。だが、彼の思考はチェス盤の上にはない。次の一手を読むべき深みのある碧眼は、ゆっくりと盤上を離れ、窓の外に広がる澄み切った青空の彼方へと向けられた。
『――その手を離しなさい!』
脳裏に蘇るのは、あの日耳にした澄んだ声。そして、吸い込まれそうなほど美しい紫水晶の輝き。
思い出すたび、アヴィの胸の奥で、今まで感じたことのない温かな熱が静かに広がっていく。
「……誰だったんだろう」
抑えきれずに、ぽつりと声が漏れていた。
「……? 何がですか?」
向かいに座るウィリアムが、盤上のナイトに手を伸ばしたままキョトンとした顔で首を傾げた。ハッと正気に戻ったアヴィは、誤魔化すように首を振る。
「ああ、いや……すまない。何でもないんだ」
「……殿下。やはり、最近何かありましたか?」
手元の駒から視線を上げ、ウィリアムが観察するような鋭い目つきでアヴィを見つめてきた。藍色の瞳に隠しきれない不審の色を浮かべる彼に、アヴィは苦笑を漏らす。
「……なぜそう思うんだい?」
「これでも侍従見習いですから、主の些細な変化に気づくのは当然です。……うまく言えませんが、以前より……表情が豊かになったというか。どこか人間味が増したように見えます」
顎に手を当て、しっくりくる言葉を探すように呟くウィリアム。その生真面目な観察眼に、アヴィは降参したように肩をすくめた。
「お前には隠しごとができないな……。でも、私自身もよく分からないんだ。ただ、とても印象的な人に出会ってね」
「印象的な人……?」
「ああ。……数か月前、ウィリアムが所用で不在だった日、公爵領へ視察に出かけたと言っただろう? その折に、偶然街の通りで、柄の悪い連中に小さな子供たちが絡まれているのを見かけてね」
「柄の悪い連中」という単語が出た瞬間、ウィリアムの眉がピクリと跳ね上がった。護衛の落ち度を気にしかけた従者を「遠目から見ただけだから大丈夫だよ」と手で制し、アヴィは遠い目をして当時の記憶を辿り始めた。
あの日、大通りの片隅で大人の悪意に取り囲まれていた小さな子供たち。周囲の誰もが巻き添えを恐れて関わり合いを避け、遠巻きに眺めているだけだった。
警護を引き連れていたアヴィもまた、王族という立場上、軽率に介入すべきか足を止めて一瞬考えあぐねていた。
——その時だった。
大人の男たちを相手に、足を震わせながらも子供たちの前に割り込み、真っ直ぐに立ち塞がった一人の少女がいた。深く被った帽子の隙間から覗く『紫色の瞳』を見た瞬間、アヴィは息を呑んだ。
そこにあったのは、恐怖を凌駕する絶対的な気高さと、濁りのない純粋な意志だった。
結局、アヴィが執事に命じて警護の騎士を動かしたことで、その場は事なきを得た。
だが、恐怖に足を震わせながらも逃げなかったあの少女の姿は、アヴィの胸に恐ろしいほど鮮烈な印象を残したのだ。
回想を語り終え、アヴィが懐かしむように窓の外へ視線を戻すと、回想を聞き終えたウィリアムが、呆れたように眉を顰めた。
「……勇気と無謀は違います。お言葉ですが、その少女の行動は……どう考えても無謀というものでしょう」
アヴィは「はは、そうだね」と素直に同意する。
「お前の言う通りだ。だが……あの場の大人たちの誰一人としてできなかったことを、彼女はたった一人でやってのけたんだ。……本当に、綺麗で澄んだ瞳をした子だったよ」
窓の外の青空を見上げながら、アヴィは呟く。あの少女の横顔を思い出すだけで、胸の奥が締め付けられるように熱くなる。
幼い頃からアヴィは、何に対しても執着を持てない、酷く冷めた子供だった。
第一王子として生まれ、剣術、魔法、学術のいずれにおいても最高峰の家庭教師から厳しい指導を受けてきた。しかし、どんなに難しい課題であっても、一通り教われば即座に本質を理解し、完璧にこなしてしまう。
周囲の大人はアヴィを「神童」「天才」と持て囃したが、アヴィ自身がそれを誇りに思ったことは一度としてなかった。
学ぶことはたぶん好きだ。努力することも嫌いではない。だが、そこに「情熱」は存在しなかった。学んだ力を何かに活かしたいとも、誰かのために使いたいとも思えなかった。
ただ、与えられた責任を果たすために、淡々と完璧を演じていただけなのだ。
だが、生まれ持った生真面目さが、そんな己の冷徹さを赦さなかった。
(……第一王子でありながら、なぜ私はこれほどまでに冷たいのだろう)
王城という権謀術数が渦巻く環境で育つ中で、アヴィは嫌というほど大人の不快な欲望を見てきた。父である国王は、慈愛に満ちた人格者であり、同時に人を動かす術に長けた偉大な人物だった。国を治める者は、父のようであるべきだ——アヴィはそう信じていた。
だからこそ、周囲の期待に応えるため、アヴィは誰に対しても柔らかで完璧な「王子の微笑み」を貼り付けるようになった。人の心を読む技術ばかりが磨かれ、上辺だけを取り繕う術に長けていく。
だが、その仮面の下にあるのは、虚無だ。理性が強すぎるあまり、自身の本心の感情すら分からなくなっていく。
『自分は、まるで心のない人形のようだ』
周囲から絶賛されればされるほど、内面にある冷たい空洞が自分を責め立てた。誰に対しても本気で共感できず、熱くなれない自分が、酷く恐ろしかった。
「……私はね、自分が嫌になることがあるんだよ。ウィリアム」
ぽつりと落とされたアヴィの言葉に、盤上に指を伸ばしかけていたウィリアムの手がピタリと止まった。
「……嫌、ですか?」
「ああ。誰に対しても本当の意味で感情を傾けられず、何事もどこか冷めた目で見つめてしまう。人の気持ちを理解しようと頭で計算することはできても、心で共感することができないんだ。……自分には、人間らしい『温かな感情』が欠落しているのではないかと、時折恐ろしくなる」
アヴィは自嘲気味に目を伏せると、手元にあった黒の『キング』の駒をそっと指先で転がした。何不自由なく完璧を演じながらも、中身が空っぽな人形のような自分。
「……こんな『欠陥品』のような私が、いずれ王としてこの国を背負うことなど……許されるのだろうか」
完璧な第一王子の仮面を削ぎ落とした、一人の傷ついた少年の吐露。ずっと一人で抱え込んできた深い苦悩を知り、ウィリアムはかけるべき言葉を失った。
しかし、アヴィはすぐにいつもの穏やかな笑みを顔に貼り直すと、握りしめていた駒を静かに盤上へと戻した。
「……すまない、変なことを言ったね。忘れてくれ」
「……いえ」
ウィリアムは真剣な眼差しで主を見つめ返し、静かに首を振った。
「……申し訳ありません。一番近くにお仕えしていながら、殿下がそこまでの苦悩を抱えていることに、気づけていませんでした。……ですが、少なくとも私にとっては、殿下は冷たいお方などではありません。誰よりも真摯に公務に向き合われる殿下にお仕えできることを、私は誇りに思っています」
従者のまっすぐな言葉に、アヴィは微かに目を丸くし、それから嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう、ウィリアム」
アヴィは再び窓の外へと視線を向けた。
街中で出会った、あの帽子の少女。複数の男たちの悪意を前に、足を震わせながらも逃げなかった、あの気高き紫の瞳。
あの瞳を見た瞬間、アヴィの冷え切っていた胸の奥に、確かに小さな熱い火が灯ったのだ。自分の中にも、誰かに憧れ、誰かの佇まいに激しく心を揺さぶられる「人間らしい感情」が存在するのだと、彼女が教えてくれたような気がした。
(あの子に……いつかもう一度、会えるだろうか)
名前も、髪色も知らぬ少女。だが、もし神がいるのなら、もう一度だけあの美しい紫水晶の瞳に巡り合わせてほしい。
アヴィの碧眼の奥に、かつてないほど温かで確固たる光が、静かに灯り始めていた。




