05. 誰かのためにできること
孤児院を初めて訪れたあの日から、フィーネの毎日は少しずつ変わっていった。
以前のように自室に閉じこもり、「なぜ自分が生き残ってしまったのだろう」と暗闇の中で涙を流すことはなくなった。「せめて自分が魔法を使えれば」、「自分が跡取りになれる男子であれば」といった叶わぬ悩みを思い浮かべる暇もなかった。それほどに、フィーネは「誰かのためにできること」を探すのに夢中になっていたのだ。
母であるリリアナからの教えはただ一つ。『公爵家の財力に頼るのではなく、自分で考え、自分自身の力でできる範囲で、民のために動いてみなさい』というものだけだった。
最初の数ヶ月は、日当たりの良い自室の窓辺で、フィーネは一心不乱に針と糸を動かしていた。貴族令嬢としての嗜みとして習っていた刺繍も、誰かを笑顔にするという明確な目的があれば、何の苦もなく没頭することができた。
不慣れな手つきで指先を針で突いては、小さな血の玉ができることもあった。けれど、痛む指をそっと舐めては、再び丁寧に布へ向かい、一針一針に思いを込めて針を進めていく。
殺風景な孤児院の部屋が少しでも温かく明るくなるようにと、邸内で出た余り布を組み合わせたパッチワークのクッション。子供たちが毎日の食事の時間を楽しめるようにと、季節の花々の刺繍を散りばめたテーブルクロス。
それらはフィーネ自身の手と時間を使って仕上げた、世界に一つだけの贈り物だった。
◇◇◇
「あ、フィーネ様! いらっしゃいませ!」
馬車を降り、今日も手作りの品を抱えて孤児院の門をくぐると、あれ以来すっかり打ち解けたアンナがすぐに気づいて嬉しそうに駆け寄ってきた。
畑仕事をしていたのか、その後ろにはギルの姿も見える。
「こんにちは、アンナ。ギルも畑仕事ですか?」
「……ふん。また来たのかよ、あんた。暇なんだな」
「ちょっとギル! またそんな言い方して」
アンナに窘められるが、ギルは照れ隠しのように視線を逸らす。そんなギルにフィーネはクスッと笑った。
「いいのですよ、アンナ。ギルのそれは『いらっしゃい』という意味だともう分かっていますから」
「おい! 変な解釈すんな!」
ギルは顔を真っ赤にしてそっぽを向く。
最初の頃こそ、彼のぶっきらぼうな声に「嫌われているのかな」と身を縮めていたフィーネだったが、そう言いながらも一番座り心地の良い椅子を運んでくれたり、ソワソワと到着を待っていたのをアンナがこっそり教えてくれたりするうちに、もう怯えることもなくなっていた。
「それより、今日はこれを持ってきたのです」
フィーネが後ろに控えていた専属侍女のジーラの方を向き、その抱えていた荷物をそっと開くと、中から色鮮やかなパッチワークのクッションや、可憐な花の刺繍を施したテーブルクロスが姿を現した。
「わあ……! これ、全部フィーネ様が自分で縫われたのですか!?」
「ええ。シスター、もしよろしければ、皆さんの部屋や食堂で使ってくださいね」
「こんなに素敵なものを……ありがとうございます!」
建物の奥から出てきた院長のシスター・ミランダが感激したように胸に手を当て、深く頭を下げる。その時、奥の扉がバタンと勢いよく開き、はしゃいだ子供たちがなだれ込んできた。
「あ! フィーネお姉ちゃんだー!」
「お姉ちゃん、この前の絵本の続き読んでー!」
「ずるーい! 僕にも文字教えてー!」
「はいはい、順番ですよ」
フィーネはくすくすと笑いながら、無邪気な子供たちに手を引かれ、温かな陽光の射し込む奥の部屋へと向かうのだった。
◇◇◇
たっぷり遊んだ子供たちが、はしゃぎ疲れてすやすやと心地よい寝息を立て始めた頃。
フィーネは薄布をそっと掛け直してあげると、子供たちの安らかな寝顔を見つめ、愛おしそうにアメジストの瞳を細めた。
「ふぅ……疲れたでしょう? あの子たち、加減を知らないから」
お茶の入った木製カップを持って歩み寄ってきたアンナが、労うように微笑みかけてくる。後ろからはギルも付いてきていた。
「大丈夫ですよ。私で……少しでも役に立つのでしたら」
フィーネがふわりと柔らかく微笑む。
あの事件の日以来、自分は足手まといで、生きている資格などないと思い詰めていた。けれど、こうして自分の手で作った品を贈り、絵本を読み聞かせ、文字を教える時間を通じて、目の前の誰かが確かに笑顔になってくれる。
それは、壊れかけていたフィーネの心を優しく満たしてくれる、何よりの救いのひとときだった。
「『役に立つ』とか……あんた、自分がどれだけすげぇことしてんのか分かってねぇのかよ……」
フィーネの無欲で純粋な笑顔を目の当たりにして、ギルは呆れたように呟く。
アンナもまた、身分など関係なく自分たちに心を尽くしてくれる幼い令嬢の姿に、深く心を打たれていた。
◇◇◇
孤児院に通い始めて半年が過ぎ、季節が夏から秋へと変わる頃。邸で刺繍したものを届けたり、絵本を読んだりするだけでなく「もっと自分にできることはないか」という思いを強くしたフィーネは、ある日の午後、厨房から夕食の仕込みの香りが漂い始めた頃にエプロン姿のシスター・ミランダの元へと歩み寄った。
「――シスター、そちらのお野菜の下ごしらえ、私にもお手伝いさせていただけませんか?」
「ま、まあ! フィーネ様! いけません、このような煙と煤だらけの厨房に公爵令嬢様が入られるなんて……! 万が一包丁で指でも切られてしまっては、私どもは公爵閣下に顔向けできませんわ!」
「そうですよ、料理なんて私たちがやりますから、フィーネ様は部屋で休んでいてください!」
アンナも慌てて手を振る。けれど、フィーネは困ったように眉を下げつつも、その紫水晶の瞳を凛と輝かせて首を横に振った。
「皆さまのお手伝いがしたいのです。怪我は絶対にしないように注意いたしますから……駄目でしょうか?」
「うぐっ……」
そんな真っ直ぐな瞳でおねだりされて、断れるはずがない。シスターは降参したように息を吐くと、苦笑を浮かべた。
「……分かりました。では、まずはこの小さなナイフで、人参の皮を剥くところから始めましょうね」
「っ! はい、シスター!」
シスターが急ごしらえで縫ってくれた小さなエプロンをつけ、真剣な表情で木製の台に向かうフィーネ。最初こそ手元が力んでいたものの、持ち前の呑み込みの早さで、皮剥きをマスターし、次いでトントンと心地よい音をまな板の上で奏で始める。
「ふふ、お見事ですわ。料理というものは、火加減だけでなく下ごしらえが命なのです。こうして野菜の繊維に沿って大きさを均一に揃えて切るとね、大鍋で煮込んだ時に火の通りが均一になって、崩れにくく美味しく仕上がるのですよ」
「なるほど……! 単に小さく刻むだけではいけないのですね。火の通りを均一に……勉強になります!」
シスターの教えを、フィーネは一字一句聞き逃すまいとメモを取るような勢いで深く頷くのだった。
◇◇◇
また、とある寒い冬の日のこと。孤児院を訪れていたフィーネが、調理場を手伝っていると、奥の部屋から「わーん! 服が汚れちゃったー!」という幼い子の泣き声が響いた。見てみれば、小さな男の子が飲み物を服にこぼして泣いている。
アンナが「もう、気をつけてって言ったのに……」と着替えを取りに行こうとした際、シスター・ミランダが手際よく水で濡らした白い布を持ってきた。
「大丈夫ですよ、泣かないで。すぐに綺麗にしてあげますからね」
シスターは汚れた服の裏側に乾いた布を当てると、表から固く絞った濡れ布で、トントンと軽やかに叩き始めた。
「シスター、それは……?」
不思議そうに見つめるフィーネに、シスターは優しく微笑んで説明する。
「果汁のシミはね、擦ってはいけないのです。裏に乾いた布を当てて、表から水を含ませた布でトントン叩いて……。そうすると、汚れが裏の布に移って綺麗に落ちるのですよ」
「擦るのではなく……裏の布へ汚れを移す……」
目の前で、みるみるうちにシミが消え、元のきれいな布地に戻っていく様子に、フィーネは紫の瞳を輝かせて感嘆の声を上げた。
「こんなに綺麗になるなんて……まるで魔法のようですね!」
「ふふ、魔法ではありませんよ。手元にある水と布、そして少しの手間と知恵があれば、誰でもできることなのです。小さな子供たちはすぐに服を汚しますから、こういう些細な知恵が暮らしを助けるのですよ」
「水と、布と、知恵……。しっかりと覚えておきますね!」
「魔法ではありませんよ」とシスターは笑ったけれど、フィーネにはそれが、どんな魔法よりも温かく不思議な「魔法」のように思えた。
特別な力がなくても、この小さな手で誰かの困りごとを払ってあげられる。その発見が、フィーネの胸の奥をじんわりと温かく満たしていくのだった。
◇◇◇
それからさらに時は流れ。
七歳を迎えたフィーネは、ますます凛とした気高さと可憐さを兼ね備えた、孤児院の子供たちにとっても、領民にとっても、かけがえのない大切な存在となっていた。
「お嬢様、本日の街へのお買い物のお仕度が整いました」
「ありがとう、ジーラ。いつも通り、目立たないように、帽子の中に髪をしっかり隠して行きましょう」
鏡の前で、フィーネは白金の美しい髪を丁寧に編み込み、大きめの帽子の中に収めた。公爵家の令嬢としての身分を隠し、お忍びで街へ下りるための準備だ。
「さあ、行きましょう。今日は街の手芸屋さんに、新しい刺繍用の糸を買いに行くのだから」
「はい、お嬢様。どうぞお足元にお気をつけくださいませ」
帽子を深くかぶり、公爵邸の門を出るフィーネ。
自分が誰かの役に立てる喜びを知り、徐々に外の世界に踏み出しつつあった少女。それが、このお忍びの先で——己の運命を永遠に変えてしまう「一人の少年」と邂逅することになるとは、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




