03. 公爵夫妻の後悔
あの茶会の日から暫く後のこと。
グランドール公爵邸は、いまもなお重苦しい悲しみの底に沈んでいた。
長男エリオスのあまりにも早い死は、公爵夫妻の心に決して埋まらない大きな穴を穿っていた。
特に母であるリリアナの悲しみは深く、邸内のあちこちに残るエリオスの思い出が蘇る度に、涙が自然に溢れ出した。主のいなくなったエリオスの部屋を見つめては、絶望に胸を締め付けられる日々の中、夫妻は残された娘——フィーネの異様な様子に、ようやく違和感を抱いた。
事件以来、フィーネは一度も人前で取り乱さず、大声で泣くことすらしていなかった。大好きな甘いお菓子を勧められても、新しく買い与えられた可愛らしいドレスを見せられても、ただ力なく首を振る。
「ありがとう……お母様。でも、私はいいの……」
申し訳なさそうに肩をすくめ、小さくなる娘。 自分たちと同じく悲しみに囚われているというより、まるで「自分が生きていること、食事をとること、笑うこと自体を自分に許していない」かのような立ち居振る舞い。
最初は「兄を失ったショックで塞ぎ込んでいるのだろう」と思っていたリリアナたちだったが、ある夜、その見立てが決定的に間違っていたことを知る。
◇◇◇
真夜中、フィーネの寝室から漏れ聞こえる小さな呻き声に気づき、リリアナとジェラルドは顔を見合わせてそっと扉を開けた。月光が差し込むベッドの上で、幼いフィーネが汗に濡れた白金の髪を乱し、うなされていた。
「……っ……う……、あ……」
あまりに苦しそうな姿に、リリアナが慌てて駆け寄り、その小さな手を握りしめようとした時——娘の震える唇から、消え入りそうな泣き声とうわ言が零れ落ちた。
「……ごめ……なさい……ごめんなさい、兄様……っ」
「……え……?」
フィーネの口から漏れた、聞く者の心を締め付けるような悲痛な声。そして、エリオスへの謝罪の言葉に、リリアナは瞠目した。
(……なぜ、あなたが謝るの……?)
隣で聞いていたジェラルドも、訝しげに眉を顰めた。
そんな二人の見守る中、額に脂汗を浮かべたフィーネが、決定的な言葉を紡いだ。
「……ぜん、ぶ……全部、私のせい……。私さえ、いなければ……私が……代わりに……っ……!!」
途切れ途切れに漏れた小さく震える声、そしてその言葉が鼓膜を揺らした瞬間、リリアナの中で世界から一切の音が消え去った。
幼い娘が自らの命を否定し、代わりになればよかったと泣いている。それは、どんな刃よりも深く、容赦なくリリアナの心を抉り抜いた。
そして同時に、リリアナは胸を突かれる思いで、フィーネのこれまでの不自然な態度の理由を悟ったのだった。
(私たちは……この子に、なんてことを思わせていたの……)
涙が一筋、頬を伝ってシーツへと落ちて染みを作っていく。目の前の小さな存在が、たまらなく愛おしく、そして恐ろしいほどに儚く見えた。
自分たちが、最愛の息子を失ったことを嘆いている間、この幼い娘は、自分が生きていることすら許せないほどに己自身を責め続けていたのだ。
兄を失った悲しみと、生き残った自分を許せないという罪悪感。その二重の苦しみを、この小さな身体に――心に、抱え続けていた。親の自分たちにすら明かさず、たった一人で。
「……あなたのせいなんかじゃ、ないのよ……フィーネ……」
リリアナは、フィーネを起こさないように、そっとその額の汗を拭い、髪を優しく撫でてやる。その温もりが伝わったのか、フィーネの呼吸が徐々に落ち着いていく。
やがて彼女が静かな寝息を立て始めると、リリアナは傍らのジェラルドに視線を送り、頷きあって部屋を後にし、寝室へと戻った。
「……あの子、ずっと自分を責めていたのね……」
「……ああ……情けない。なんて、情けない親なんだ……」
ジェラルドは苦悶の表情を浮かべ、前髪をぐしゃりと掴んだ。
二人にとって最愛の娘であるフィーネは、昔から手がかからず、滅多に我儘など言わない素直な子どもだった。あの子が口にするのは、兄様とお絵かきがしたい、近くの湖を見に行きたい、などのささやかなお願いくらいである。
だからこそ、自分たちは気づけなかった。子どもらしく大声を上げて自らの悲しみや苦しさを主張するのでなく、一人でただ静かに過剰な罪悪感に蝕まれ、徐々に心を壊していた娘に。
言われなかったから気づかなかったなど、言い訳にもならない。息子を失った悲しみに浸り、今生きて傍にいる娘すら守れていなかったなど、愚かにもほどがある。
親である自分たちが何よりも大事にすべきは、己の悲しみではなく、我が子の――フィーネの心だったはずなのに。
朝を待ち、ジェラルドは密かに調べさせた。あからさまにフィーネの様子がおかしくなったのは、あの日——半ば無理に連れ出した王都のお茶会の日だったと思い至ったからだ。
調べの報告を受けた夫妻は、あまりの怒りと痛恨に言葉を失った。
久しぶりの社交で自分たちが他家の貴族たちから挨拶攻めに遭い、目を離していたわずかな間。一人取り残されていた幼いフィーネの耳に、周囲の大人たちの心ない噂話——「優秀な長男が生きていれば」「失ったのが魔法の使えない妹の方であったなら」というあまりにも無神経な言葉が、容赦なく突き刺さっていたのだと知ったからだ。
自分たちの危機感のなさが――娘の傷ついた心への無理解が、どれほど幼いあの子の心を痛めつけていたのか。
人前で涙を流すことすら自分に禁じ、罪人のように身を縮めて生きる娘の姿に、リリアナは固く唇を噛み締めた。
愛おしい息子であるエリオスを失い、自分たちも死んでしまいたいほどの暗闇にいた。だが、目の前で「死んだように生きている」もう一人の大切な我が子の姿にようやく気づいた時、リリアナの胸の中に親としての強い覚悟が芽生えた。
その日、夫妻はどうすれば我が子を救えるのか、一晩中思い悩んだ。
口先だけで、「あなたのせいじゃないのよ」と抱きしめてあげたとしても、子どもらしからぬ過酷な罪悪感に苛まれ、自分を罰し続けているあの子の心には、きっと届かない。
今のあの子に必要なのは、慰めではない。自分は生きていいのだという、赦しであり、希望の光なのだと、一晩かけてようやく思い至ったのだ。
(……今度こそ、絶対に守るわ。そうでしょう? エリオス)
もう二度と大事な我が子を失いたくない。あんなにも悲しい声で、一人で泣かせたりしたくない。もしそんなことをしたら、きっとあの妹を溺愛していた息子に怒られてしまう。
自室の窓辺に立ち、白み始めた空を見つめながら、リリアナは胸の中で亡き息子に深く誓いを立てた。
そして、愛おしい娘の幼い面影を思い浮かべ、静かに、ぽつりと呟く。
「……あなたは私たちの、宝物なのよ。フィーネ」
あの子に生きる希望を、生きていていいのだという喜びを取り戻すためなら、なんだってする。
胸の中で溢れそうになる悲しみを拭い去り、気丈な笑みを浮かべると、リリアナは固い決意を胸に自室をあとにした。
◇◇◇
フィーネの部屋を訪れたリリアナは、そこに引きこもる娘の手を優しく握りしめた。
「フィーネ、今日は街へ下りましょう」
「……街へ、ですか? でも、私が行くと……」
人前に出ることすら恐れるフィーネに、リリアナは温かく、けれど力強い眼差しを向けた。
「あなたに、会わせたい人たちがいるの」




